アウラティカ 16

禁転載

「さて、準備は整ったか」
椅子に足を組んで座る男は楽しそうに謳う。それが至上の遊びででもあるかのように。
床に這い蹲る女はだが、僅かに視線を上げたのみだった。その薄汚れた顔には何の感情も見られない。
男は女の存在などまるで見えていないかのように、空中に視線を漂わせて笑った。
「駒は踊る。華麗な喜劇の始まりだな」
「……貴方様は、どうせ舞台に乗られないのでしょう」
「さぁ? 望まれればそれもよいかもしれん」
嘯く声は他人を嬲ることを常とする愉悦に支配されている。女は床に顔を伏せたまま乾いた嗤いを零した。
「死がやって来る。お前もお前の力の行方を見るがよい、カサンドラ。
 これからは魔法を制する者が、戦を制する時代となる。ダセルカの名は後世まで響き渡ることであろう」
女は喉を詰まらせて笑い続ける。
彼女の四肢に繋がる鎖が微かにこすれ、耳障りな音を立てた。
男は顔を顰め女をぼろ屑を見るように見下ろす。
彼女は何も言わない。ただ時が来るのを待っているだけだ。
やがて無為に飽いたのか男が鼻を鳴らして小さな部屋を出て行くと、女は笑うことを止め、自分を束縛する太い鎖をじっと見つめたのだった。

ウォルザの大臣から届いた密告とも言える書簡は、併合に向って軍の緩やかな解体に手をつけていたエトルスを激怒させた。
高価な装飾の耳飾と共に入っていた手紙には
「数ヶ月前、クルースを訪ねたダセルカの使者は、実際はウォルザの間諜である。
 王女ディセアを捕らえていたのは事実ウォルザで、現王セデウスはその真実を王妃に伏せている。
 東部領地の武力が失われれば、役目を終えた王妃も排斥され、姉と同様の運命を送ることになるだろう」
と書かれていたのだ。
この手紙だけなら、エトルスを初め旧クルースの諸侯はたちの悪い冗談と一蹴したであろう。
だが、同封されていた耳飾は紛れもなくディセアのものだった。
ディセアの為に作られた他に二つとない細工で、彼女が行方不明になった時につけていたものであると、 捜索が手配された時に服装と一緒に皆に伝えられていた のだ。
それを確認した彼らはかつてアウラティカがそうであったように、或いはそれ以上にいきり立った。
第一王女を殺し、国を滅ぼして女王を攫った挙句、その彼女にも汚辱に塗れた結末を与えようというのだ、到底見過ごせることではない。
何としてもウォルザを打ち倒し、何も知らぬ女王を救い出すべきだという意見が会議の多数を占めた。解体しかけた軍の再編成について指示が飛び交う。
―――― 彼らは気づかない。冷静に事を考えよう、状況を把握しようとする意見が上がる度、エトルスの息子、ロットが弁舌を弄して彼らの激情を煽っていたことに。
そして、ロットの指示によって侍女が彼らに出したお茶が、普段のクルースのものより若干苦味を帯びていたことに。
気づかないまま、最後の幕は上がる。
裏切りによって踊らされる戦争が、今再び始まろうとしていた。

エトルスが軍を再編成し進軍を始めたという知らせは早馬を以ってウォルザの城にも届いた。
城の者たちは何があったのかと皆驚愕し、情報を求めて走り回る。
挙げられた軍は六万。ウォルザ一国と戦うには及ばぬ兵数ではあるが、油断ならぬ武力であることは確かだ。
そもそもそれらの軍に対し、地の利が向こうにある戦を嫌って交渉が持たれたのだ。
その交渉が突然無意味とされたことにウォルザの城内には怒りと困惑が溢れかえった。
クルースの城都に駐屯しているウォルザの軍は僅か二万である。城都にクルースの軍が到達する前にそれを防がねばならない。
セデウスは素早く出兵の指示を出すと、自らも戦場に出る為支度を整えた。
一連の情報を知らせないようきつく皆に言いつけていたはずのアウラティカが彼の元に顔色を変えて飛び込んできたのは、まさにセデウスが城を出立するその日の朝 、王の執務室においてでのことである。
彼女はその場に数人の将軍や文官が同席していたにもかかわらず、窓際に立っていた夫に掴みかかって叫んだ。
「どういうことなのセデウス! どこに行こうというの!」
「誰に聞いたのだ、アウラティカ」
「わたしが聞いているのよ! 何故また戦争が起きるの? 何があったというの!?」
「さぁ、よく分からぬ」
平然としたその態度にアウラティカはかっとなった。右手を振り上げかけて―――― けれど複雑極まる感情の為にそのまま固まってしまう。
王は最愛の妻を見つめて、苦々しい笑みを浮かべた。
「エトルスは……貴女をクルースに返せという。返さないのならこの城まで来て助け出すと。
 クルースの領地が欲しいのならくれてやったというのに。愚かなことだ」
それは、セデウスがその要求を飲む気がないことを如実に示していた。
臣下たちは緊張に固唾を飲む。アウラティカが金の瞳を見開いた。彼女は右手を下ろし、決意と少しの安堵を顔に揺らめかせる。
「ならばわたしが行くわ。わたしが話をする。それでよいでしょう?」
「駄目だ。戦場など何があるか分からない。貴女は私の妃なのだ。この城で待っていろ」
「何故!? 嫌よ! そう言ってあなたはまたわたしの民を殺すの!?」
悲嘆ではなく怒気が作り上げた非難は、文官たちの眉を曇らせたが王自身を動かすことは少しもできなかった。
セデウスは氷のような目で彼女を見下ろす。
視線は檻となり、彼女を静かに絡め取った。
「アウラティカ。誰が何と言おうとも貴女だけは渡せない。
 貴女を私から奪い取ろうというなら、その者全てが私の敵だ。それがたとえ貴女の国の民であっても」
彼女が喜ぶから、彼女の民を篤く遇した。けれど彼女を欲しいというのなら、完膚なきまでに打ちのめす。
それだけのことなのだ。彼にとって優先するのは常にアウラティカでしかない。
本来の彼の才までも曇らせる偏愛は、その場の全員の背筋を冷やしめる異様さを放っていた。
セデウスは手を伸ばし、信じられないものを見るように瞠目したままの彼女の頬に触れる。
ゆっくりと親指で柔らかな唇をなぞった。
蠱惑的な感触。彼女の体を知り尽くした指。
そこに宿る熱情に、アウラティカは力が抜けそうになる足を何とか踏みとどまった。
触れられた先から少しずつ狂気に毒され、自らが変質してしまうような気がする。
セデウスは彼女から目を離さぬまま、文官の一人を呼んだ。
「ログス、私はもう行く。不在の間、妃を頼む」
「かしこまりました」
「セデウス……話は終わっていないわ……」
「帰って来てから聞こう」
王は彼女から手を離すと、開けられたままの扉から出て行く。
追いかけようとする彼女を将軍の一人が体で遮った。セデウスは戸口を出たところで振り返る。
「それとも ―――― 私が帰って来ない方が貴女は幸福か?」
優しい声。
かけられた言葉に息が詰まる。アウラティカの視界はゆるりと歪んだ。
彼は皮肉も後悔もなく笑う。
それはとうに越えた者の微笑だ。
―――― もし、是と答えたら、かつての約束の残り半分は叶えられるのだろうか。
答は出ない。永遠に出ない。
二人の思いは交わらない。
そして王は、妃を残し城を出る。
彼女を奪い去ろうとする全てを焼き尽くす為に。



セデウスの出陣を止められなかったアウラティカは、自室に飛び込むようにして戻ると寝台に顔を突っ伏した。
眩暈が止まない。吐き気がする。
全身を襲う倦怠感と気持ちの悪さに、彼女は悪寒がする体を白い掛布で包みこんだ。
「セデウス…………セデウス……っ!」
全てが終わったと思っていた。
何もかもが壊れてしまい、後はそれに耐えるだけの日々が待っていると思っていたのだ。
けれど、まだ悪夢は続いている。
遠ざけられた空の下、彼女が何も出来ぬまま凄惨な一幕が始まろうとしているのだ。
アウラティカは敷布をきつく掴んで嗚咽を飲み込む。
一体いつまで自らの無力さを味わわねばならないのだろう。
体の中からちりちりと痛みが広がっていくようだ。心が肉体の生を否定している。
このまま千々に壊れてしまいたいという誘惑が、一瞬頭をよぎった。
額を寝台にこすりつけ、目を閉じる。
何も映さない暗闇で彼女は独りだった。



押し殺した息に、けれどその時扉が開かれる空気が重なる。アウラティカは顔を上げぬまま、努めて平静な声だけを出そうとした。
「マトラ、少し待っていて……すぐに起きるから」
「具合が悪いならそのままでいればいい」
返ってきた声は、この場にいるはずのない人間のものだった。
アウラティカは跳ね起きる。
どうやって入ってきたのか、扉を後ろ手に閉める男に唖然とした。
「サウマ殿下……。何故ここに」
王妃である彼女の部屋には、彼女の夫を除いて異性が入ることは許されない。
その禁忌を破って何をしに来たのか、アウラティカは慌てて服を整えると寝台から立ち上がった。
サウマは悪戯っぽい笑顔を浮かべて広い部屋を見回す。
その視線がふと、部屋の隅のテーブルに置かれていた茶器と茶葉に止まった。
彼はしばらくその二つを眺めると、不審に眉を寄せるアウラティカに顔を戻し、軽く微笑んで肩を竦める。
「王妃は渡した薬を使わなかったのか。本当のことを知りたくなかったのか?」
「それは……」
「機会がなかったのか? 知りたくなかった? ―――― まぁいい。折角だから俺が教えてやろう。
 レネト……前王とセデウスの間にあの時何があったかを」
アウラティカは驚愕の為、咄嗟に返事が出来なかった。
今までサウマがそのことを知っているのかいないのか、彼女は確信を持てないでいたのだ。
知っていてもったいぶっているようにも思えたし、知らないからこそ彼女に聞き出させようとしていたようにも思えていた。
だが、実際は前者だった。
思いも寄らぬ時に真実を知る機会が巡ってきたことに、彼女はけれど薄ら寒さを覚えてサウマを見返す。
「殿下、何故今そんな話を」
「兄上がいない時でないとできない話だからな。折角だから聞くといい。きっと義姉上の疑問も晴れる」
サウマは部屋の隅から茶葉を入れた瓶を手に取ると、近くにあった椅子に座った。長い足を組み、瓶を弄びながら視線を空中に彷徨わせる。
「レネトとセデウスの仲が思わしくなかったのは義姉上もご存知だろう? 切っ掛けは貴女なのだから。
 女王となる貴女のもとへ宰相をやめて行きたがったセデウスの望みを、レネトはついに許可しなかった。
 セデウスが他の人間にも仕事が務まるように膨大な政務を整理し、決してウォルザの害になることはしないと誓ってもだ。
 不満が募って当然だろう? どちらともな。
 セデウスは決して貴女を諦めようとはしなかったし、レネトはセデウスを手放したがらなかった。
 表面上は彼らは協力して政務を行っていたが、その実ずっと牽制しあっていたようなものだったんだ。
 二年の間、亀裂は徐々に広がり……ついに決定的な事件へと至った」
アウラティカは相槌を差し挟むことも忘れサウマの話に聞き入った。
彼女が即位すると決まった時、セデウスは祖国を捨てて彼女のもとに来ようとしてくれていたことを彼女は知っていたが、それが二年もの間ウォルザの宮廷に深刻な 影響をもたらし続けたとは思ってもいなかったのだ。
彼女が諦めたようにセデウスも彼女を諦めたと思っていた。
少なくともクルースが滅ぼされるその時まで、アウラティカにとって過去はかけがえのない記憶として閉ざされたものだったのである。

だが、今はもう知っている。彼が、忌まわしいくらいの熱情を彼女に抱いていることを。
しかしそれでも自分の存在が王と宰相間の揉め事の原因だったと聞くと、アウラティカは改めて体の冷える思いがした。
「レネトは問題の事件の二ヶ月程前から精神的に不安定になっていた。
 大した理由もなく臣下を叱責したり、女官をなじって周囲に当たり散らした。勿論一番ひどく当たったのはセデウスだった。
 毒殺を恐れて食事をほとんど取らなくなり、やがて弱った体は床についた。
 セデウスは有能な宰相だったよ。私心はともかく、王の代わりに政務をこなし、王には食事を取るように勧めていたんだからな。
 けれどある日、レネトは訪ねてきたセデウスに対し、こう言った。
 『いい加減クルースの女王については諦めたらどうだ。かの女王はダセルカの王子を娶ると決定した。
  たとえお前がウォルザを離れても彼女はお前のものにはもうならない』とね」
「―――― え?」
何かがおかしい。
違和感を覚える。
しかしアウラティカの疑問などお構いなしに、サウマは楽しそうに話を続けた。
「セデウスは……おそらく衝撃を受けただろうな。あまり表情に出ないから分からないが、後の行動で分かる。
 だが、その時は奴はレネトに言い放った。『そうだとしても、彼女はいつまでも自分にとって特別なのだ。諦められない』と」
「…………」
「レネトは逆上した。ダセルカとクルースが婚姻を結んで密になれば、いつウォルザに攻め込んでくるか分からない。そう思っていたんだな。
 だからセデウスに貴女を諦めさせようとした。将来の敵に焦がれられていてはたまらないだろう?
 けれどその思惑もはずれて―――― レネトは、怒りに任せてセデウスに斬りつけた。
 病人が急に懐剣で斬りかかってきたことにセデウスは不意を突かれて一撃を食らったが、致命傷までには至らなかった。何日か寝込んでたけどな。
 そしてまもなく、衰弱したレネトは死んだ。重鎮たちのほとんどは次の王に有能なセデウスを望んだよ。
 奴らはセデウスがレネトを殺したのではないかとも疑っていたみたいだが、俺はどうも大半の文官たちに無能と思われているようでね」
サウマはにやりと笑って話を終えると、茶葉の入った瓶を空中に放り投げた。
回転しながら落ちてくるそれを片手で受け止める。
挑戦的とも言える男の目を見つめ返しながら、アウラティカはセデウスの胸についていた長い傷跡を思い出していた。
彼が、弟を殺したのではなかった。
彼はただ、病の床にある弟に傷つけられただけなのだ。
そのことにこれ程安堵を覚えるのは何故なのだろう。
セデウスが簒奪者であったとしても、これ以上変わりがないと思っていた。
けれど事実アウラティカは今、彼が身内を手にかけるという罪を犯していなかったことに 気の抜けるような思いを感じていたのだ。