アウラティカ 17

禁転載

アウラティカは自然とほろ苦い笑みを浮かべかけて、そこで表情を止める。
「―――― 簒奪者?」
サウマはかつてセデウスのことをそう称した。
称した上でアウラティカに忠告したのだ、「夫に気をつけろ」と。
だが今の話を聞くだに、セデウスには彼女に関しての頑なさ以外に問題が感じられない。
ならばなぜ、サウマは彼を簒奪者と言ったのか。
アウラティカは意識を部屋にいる男へと戻す。
椅子に座る男はまだにこやかに笑っていた。底知れぬ目を彼女に向けて。
「お茶を……飲まなかったのだな、王妃よ」
「お茶?」
「折角貴女の女官に差し入れたというのに。飲まなかったな、アウラティカ。
 くれてやった薬も使わなかった。まったく残念だよ」
サウマは手に持った瓶を無造作に床に放る。硝子が砕け散り、茶葉が床に飛び散った。
アウラティカは何が起こっているのか分からないまま一歩後ずさる。
頭のどこかで、危険を訴える声がした。
今の状況は不味い。肌が違和感に慄く。
男はゆっくりと立ち上がると、先ほどとよく似た、けれど異質な笑顔を彼女に向けた。
「いくつも布石を撒いてやったというのに、貴女はどれにも乗らなかった。
 亡国の女王が復讐として王を殺す―――― その為に色々手を尽くしてやったつもりなんだが」
王妃となったばかりの頃、マトラが女官仲間から貰ったと言ってとても苦いお茶を淹れてくれたことがある。
アウラティカはそれをウォルザの味と思い慣れようとしたが、マトラは主人の好みを慮って以後そのお茶を淹れなかった。
そこには…………何が入れられていたのか。
金の瞳に宿った疑問に答えるかのようにサウマは片目を閉じる。
一歩一歩、アウラティカを追い詰めるように近づいてくる男は、最早親しさを微塵も感じさせなかった。
「あのお茶は魔法薬の一種だ。少しずつ人の精神を蝕み、疑り深くさせる。貴女にはうってつけだったろう?」
「……なんですって…………なら……自白剤は……っ!」
「ああ。あっちは毒薬だ。飲めば死ぬ。いい加減貴女には何らかの結果を出してもらいたいと思っていたからな。
 だが期待はずれだった。貴女はもっと感情的な人間と思っていたんだが。力なくとも女王か。
 ああ、それとも…………セデウスのことを本当は愛しているとか?」
真っ白になった頭の中、男の言葉はさして彼女を動揺させはしなかった。
それよりももっと気になることが、今のアウラティカにはあったのだ。
「前王を操ったのも、あなたなの!?」
「おや。意外と聡いな。確かにレネトの侍女にお茶を差し入れていたのは俺だ。何故分かった?」
サウマは暴かれた事実にも動じず嘯く。
まるでアウラティカとの問答を楽しんでいるかのような男はいまや、得体の知れない悪意として彼女の目には映っていた。
アウラティカは男と自分との距離、そして扉への距離を目測しながら、怯むところを見せないよう男を睨みつける。
「おかしいと思ったのよ。前王の崩御……その頃にはまだ、ダセルカの使者はクルースに来ていなかった。勿論結婚なんて決まっていない。
 決まっていない結婚をウォルザの王は誰から聞いたの? ダセルカの使者がクルースを訪ねると何故分かったの?」
「簡単なことさ。俺がダセルカと通じていたからだ。第一王子とな。魔法薬も奴からもらった」
「―――― 何故……っ!」
アウラティカの脳裏に、数ヶ月前の戦慄が甦る。
姉を攫い、蹂躙したダセルカの王子。
その男が遠く離れた地からウォルザの王族をも好きに動かしていたというのか。
悪質な謀にも程がある。
どれだけ人を弄べば気が済むのか。
沸々とした怒りが彼女の中に湧き起こった。
サウマは獲物を見る目でアウラティカを見つめながら、少しずつ距離を詰めてくる。
「奴はウォルザを俺にくれると言った。でも国など……別にいらないだろう? 重いだけだ。
 ただ、真面目な顔して苦労しているセデウスを見ていると、少し遊んでやりたくなった。
 妾腹の分際で鬱陶しいんだよ。子供の頃から何度痛い目にあわせてやっても、俺に屈しようとしない」
「この卑怯者!」
「卑怯はこの時代では強者の美徳だ。何と言われても嬉しいくらいだよ。
 それに―――― 今は楽しみで仕方ない。
 奴がずっと大切にしていた女を……首だけ塩漬けにして送りつけてやったら、どんな顔をするだろうかってね」
男の手に短剣が抜かれる。
アウラティカはそれをはっきりと確認するより早く、咄嗟に寝台を振り返ると、上にあった掛布をサウマに向って投げつけた。
布を被り視界を奪われた男の脇をすり抜け、扉に向かって走る。
外に顔を出したところで彼女は叫んだ。
「マトラ! マトラ、どこにいるの!」
「あの女官なら今頃、濠の底だ。俺の部下の大臣を嗅ぎまわっていて目障りだったからな」
落雷に貫かれたかのようにアウラティカは身を震わせた。
振り返ると布を投げ捨てた男が彼女を見て笑っている。
理解しがたい悪辣。それを人に為した姿に彼女は自失した。
「マトラを殺したの……?」
「気に病まなくていい。すぐにお前も死ぬ。そしてセデウスも。淋しいことは一つもない」
サウマは喉を鳴らして笑いながら短剣を一閃する。
剣が空を切る鋭い音を、アウラティカはまるで現実味のない音のようにぼんやりと立ち尽くして聞いていた。

「どこにも逃げ場はない、アウラティカ。
 セデウスが出立してから城には、お前がエトルスを使嗾して軍を挙げさせたと広めてある。
 この国の人間はもはやお前を助けない。セデウスを憎んで死ねばいいだけだ」
間近に迫る死。
だがそれは、サウマの期待とは別にアウラティカに無感動を与えただけだった。
かつてクルースが滅ぼされ、死を覚悟した時とは違う。何とも言えない脱力感が彼女の全身を支配している。
アウラティカは近づいてくる男の、セデウスに似ているとはもう思えない醜悪な笑みを眺めた。
「あなたも、駒なの?」
「そうだ。だからその中で楽しんでいるのさ」
サウマは剣を振り被る。その軌跡をアウラティカはただ見つめた。
ここで死んだら自分は後世どう語られることになるのだろう。
亡国の女王、そして王妃となった女。短い生涯において、終生夫を憎み、その為に戦乱を呼び起こした烈女。
―――― そうなのかもしれない。そういった人生であったら、もっとすっきりと死ねただろうか。
こんな、よく分からぬ情動を抱いたまま、会えない人の名を呼び起こして、死ぬことはなかっただろうか。
男の名を思い出す。
自分の死を、彼がどんな顔を以って知るのか、彼女にはどうしても想像がつかなかった。
目を閉じる。
苦痛に歪む死に顔を彼に晒すのは嫌だった。
―――― ああ、やっぱり泣けなかった。
アウラティカはふっと微笑む。
思い浮かんだのは、彼と二人幸福だった……あの庭園での記憶だった。

受け入れざるを得ない衝撃。
だが覚悟していたものとは別の力が、その時彼女の腕にかかった。
思い切り背後へと引き摺られてアウラティカは転びかける。
突然のことにもつれる足で床を蹴りながら、彼女は目を開けた。
「ログス!」
「王妃様、ご無礼を!」
文官は言いながら何かをサウマに向って投げつける。
何が入っていたのか、水のようなものを顔に浴びて男は苦痛の呻きを上げた。その隙にログスはアウラティカの腕を引いて走り出す。
長い廊下を駆け抜ける二人の耳に、遥か背後から複数人の怒声と足音が聞こえた。
男たちはアウラティカの名を口々に呼び追って来るようである。だが、彼女に振り返って確かめる余裕はなかった。
ログスは息を切らしながら妃に囁く。
「裏門に、護衛と馬を用意してあります。王妃様は城から逃げて……陛下のところへお行きください……。
 戦を止められるのは、もう貴女様しかいらっしゃらない」
「分かったわ。あなたも、一緒に……」
「私は、後ろの奴らを食い止めます。その間にどうか」
「でも!」
「ご安心ください。この城とて、決してサウマ一人に操られるわけではありません。
 私のことはお気になさらず、さぁ」
城の外へと通じる扉が見えてくる。そこには誰もいない。扉は開かれたままだ。
ログスは足を止める。片手でアウラティカを先へと押しやった。
「お行き下さい! お早く!」
「ログス!」
押されて数歩進んだアウラティカは彼の名を叫ぶ。
けれど、駆け寄ることはもうできなかった。
―――― ここでは死ねない。
もう一度、セデウスのもとに辿り着くまでは。
負けたくない。
駒のままで終わりたくない。
アウラティカは扉を抜け、ただ前だけを見て走っていく。
かつて自分が治めていた国、そこに向っているであろう、一人の男を追って。