アウラティカ 18

禁転載

アウラティカ
私の花 私の光
貴女がどれ程私の心に自由をくれたか、きっと最後まで知ることはないのだろう
透き通った温かさをくれた少女 誰よりも愛しい女
何度でも、貴女だけに私は恋をするだろう
子供の時に、少女の時に、別れた時に、再会した時に
王女である貴女に、女王である貴女に、そして妃となった貴女に
妄執だと言うのならそれでいい
私が貴女の運命を踏みにじった
この愚行を貴女は生涯許すことはないだろう
だが確かに ―――― 初めから終わりまで、貴女の存在こそが私のかけがえのない幸福だったのだ



街道を通らず、人目を避けながらの十日間に渡るアウラティカの道程は、順調とは到底言えないものであった。
ウォルザから出るまでの間、二度刺客に追いつかれ、矢を射掛けられたのだ。
ログスが信用おける者を選んだという五人の護衛のうち二人は途中で死亡し、アウラティカ自身も左腕に矢傷を負った。
半日前に出立した王を追って駆ける逃亡はけれど、旧クルース領土に入るとだいぶ楽になったものである。
アウラティカは国外の人間には知られぬ細い道を通って、直接城都を目指した。
どんな道を選んでも城都に行けばセデウスに会えると思っていたからだ。
途中で立ち寄った村々は、かつての女王が戦争を止めるために夫を追っていると知ると、出来うる限りの協力をしてくれた。
村医者は恐縮しながら彼女の傷を手当てしてくれたが、化膿し熱を持ち始めた傷は一刻も早く典医に見せた方がよいらしい。
アウラティカは熱を帯びて気だるさを感じる体調を押し隠すと、また馬に乗り先へと進んだ。
そして深い森に覆われた山を抜け、眼下に遠く城都を見出した時 ―――― ついにここまで辿りついたかと、深い感慨が全員の胸を支配したのである。

クルース城都より東に馬で数時間、広がる平原にて布陣するウォルザ軍の王の天幕に集まった将軍たちは、机の上の地図を囲み、敵軍を迎え撃つ為の配置について 意見を交し合っていた。平原は東から西へと緩やかに傾斜して下っており、風も今のところ東風である。
この状況では矢の飛距離に差が出てしまう。開戦後は一刻も早く接近戦に持ち込まねばならないだろう。
「あと二万もいれば二手に分かれることも出来たであろうが……」
「城都を空にするわけにもいかぬ。他のクルースの領主に呼応して叛乱されても困るだろう」
「正面から受けて立っても負けることはあるまい。正攻法で構わん」
セデウスは飛び交う意見を頬杖をついて座りながら黙って聞いていた。
彼は戦場においても有能な将であるが、今は意識がどこか別のところを彷徨っているかのように上の空に見える。
そのような王の姿に彼らとしても不安を覚えないわけではなかったが、いざ戦が始まれば彼も元に戻るだろう。
いくつかの案をまとめて意見を伺うと、セデウスはその内の一つを選んで指示を出す。
彼の指示は的確で、将軍たちは安堵しながら準備の為に散会しかけた。
その時のことだった。
城にいるはずの王妃が王を訪ねてきたと、見張りの兵士が駆け込んできたのは。

「アウラティカ!」
セデウスは兵士に支えられ倒れそうな妻に駆け寄ると、細い体を抱き上げた。
普段は雪のような肌が今は紅潮しており、額に触れると非常に熱い。
王はすぐさま医者を呼ぶように声を上げた。
ぐったりとした彼女を抱いて天幕に戻る。
簡易の寝台にそっと妻を寝かせると、セデウスは埃だらけになってしまった髪と、左腕にきつく巻かれた布に滲む血に視線を落とした。
「怪我をしたのか……。何があった」
「サウマが……ログスが、逃がしてくれて」
腹違いの弟の名に、セデウスは激しく舌打ちした。
子供の頃はよくあの弟に陰湿な嫌がらせを受けていた。他の誰にも分からないように彼を嬲ろうとする試みはしかし、いつしかぱったりとなくなったので、ようやく 行為の無意味さに気づいたかと思っていたのだ。
だが、サウマは少しも無意味と思っていなかったのだろう。それどころか最もセデウスに酷い傷を与える時を待ち構えていたに違いない。
だからこそ彼はセデウス本人ではなくアウラティカに接触したのだ。
腸が煮えくり返る。
帰ったらどう報いをくれてやろうかと考える王に、アウラティカは手を伸ばした。
「セデウス……わたしをエトルスのところへ連れて行って……。
 この戦はおかしい。きっとダセルカが何かをしたんだわ。
 私のお兄様やお姉様、あなたの弟を殺したように……」
「ダセルカ?」
アウラティカは頷く。
そしてセデウスは、妻の口から秘密裏に薬を使って他国の人心を操っていた王子の話を知ることになったのである。

サウマから聞いた話を一通り話し終わると、アウラティカはセデウスの手を握った。
熱い怒りを帯びた男の目をじっと見つめる。
「セデウス、今なら間に合うわ。もう操られるのは嫌なのよ。
 エトルスと話をさせて頂戴。この戦を止めましょう」
「……既に交渉の希望は出したのだ。だが、使者に出した大臣は殺され、首だけが返ってきた。
 ウォルザの軍にはクルースへの憎悪が募ってしまっている……。証拠がない今の状況で、衝突を止めることはもう出来ないだろう」
「そんな……」
何故、交渉を求める使者を殺したりしたのか。そう憤りかけて、アウラティカはかつて自分がダセルカからの使者を殺したことを思い出した。
これはあの時の罰だろうか。
何もかもままならない。全てが歪み、連鎖している。
殺された大臣とはひょっとしてサウマの部下だった男ではないだろうか、と思いかけたが、それを確かめる術を今の彼女は持っていなかった。
だが、それでも彼女は諦めきれずセデウスの袖を引く。
「お願い、まだ何かできるはずだわ」
必死の哀願。
こんな風に彼に何かを頼むことなど何年ぶりだろう。
アウラティカは熱に浮かされた体で、ただ一人の男を呼んだ。
「セデウス、わたしを戦場に連れて行って」
「……駄目だ」
「セデウス!」
体力を振り絞ってアウラティカは叫ぶ。
彼女の手を取る王は―――― 冷たくはない、ひどく穏やかな孤独の目で彼女を見下ろしていた。
「貴女は連れて行けない。クルースの軍は既に怒りに狂乱を起こしている。戦場の混乱にあっては貴女でさえも手にかけかねない」
「構わないわ!」
「だから、私が死ぬまで待て」
当然のように言われた言葉。
アウラティカはその意味を理解できなかった。
ただ音として過ぎ去った言葉を追って、彼女は目を瞠る。
「何、を?」
「私がクルースの仇だ。私を討ち取れば少しはクルースの溜飲も下がるであろう。貴女が出て行くのはその後でいい」
セデウスは彼女の手を離し、すっと立ち上がる。
男が纏う静かな決意はその言葉が冗談ではないことを窺わせた。アウラティカの唇がわななく。
「何を言っているの?」
「愚王は永らえるべきではない。それだけのことだ、アウラティカ」
天幕の外が急に騒がしくなる。クルースの軍が現れたのであろう。
将軍の指示が続けざまにいくつか放たれた。
セデウスは自らの剣を取るとアウラティカに背を向ける。
痛みを堪えて飛び起きた彼女が男の手を取っても、彼は振り向かなかった。
ただどこまでも静かな、優しい声だけが天幕の中に響く。
「王は重いな……アウラティカ。
 貴女が女王になると決まった時……本当は共に逃げようと言いたかった。王族をやめ、ただの人になってしまえばいいと。
 だが貴女の決意が気高くて言えなかった。断られるのが怖かったのだ」
全てを捨てて、逃げていたら。
そうしたらそこで二人は幸福になれただろうか。
貧しくも穏やかな暮らしに浸ることができただろうか。
かつて彼女も思い描いた夢想。
けれどそれは、夢想でしかないのだ。
二人のどちらもがそれを分かっている。
あの時二人で逃げ出していたとしても、いつもどこかで負い目が彼らを苛んだだろう。
王族であるとはすなわち、彼ら自身の精神であるのだから。
アウラティカは沸き起こる涙を飲み込む。
握った手が微かに震えるのをセデウスが優しく握り返した。
「だが私も結局は捨てられなかった。国や玉座を嘲りながら今もそこに縛られたままだ。
 貴女に尽くされる国に嫉妬して、貴女の国を滅ぼした。ただの愚王でしかない。
 どうせならただの男として貴女を迎えに行きたかったと、いつも後悔することになった。愚かなことだ」
天幕の外から王を呼ぶ声が聞こえる。
男は迷い無く歩き出した。掴んでいた手が呆気なくすり抜ける。
「待って……セデウス!」
まだ、少しも足りてはいない。
言葉も、思いも、届いていない。
二人は分かたれたままだ。
失われるものを繋ぎ止めようと立ち上がりかけた瞬間、しかしアウラティカは熱の為の眩暈に寝台に倒れこむ。
王と入れ違いに入ってきた医者が朦朧とした王妃に駆け寄った。
傷の痛みと高熱の吐き気にうなされながら、アウラティカは完全に意識を失うその時まで夫の名を呼び続ける。
―――― そして、彼女を一人を置き去りに戦争はその幕を開けた。

空気が違う。
その感覚は戦場に慣れた者なら皆が感じ取れるものであったろう。
騎乗したセデウスは遠く平原を埋め尽くし布陣する敵軍を見上げた。
まだ剣は打ち合わされていないというのに血と鉄の匂いさえ漂ってくる気がする。
この感覚。この空気。
今の大陸において共通する認識はただ一つ、強者は多くを得るということだけだ。
その為に繰り返されてきた幾千もの戦いに、新たな一頁が加わろうとしているだけのこと。
そしてそれだけのことに万を越える命が捧げられるのだ。
セデウスは敵軍より二万を上回る自軍を振り返って見渡す。
この数と将軍たちならば、よほどのことがない限り壊滅することはないだろう。たとえ王に何かがあっても。
「陛下、王妃様は少しお休みになられれば命には別状ないとのことです」
「そうか。護衛を充分につけておいてくれ」
アウラティカを見ていた医者からの伝達に頷くと、セデウスは代わりに文官と将軍を数人呼んだ。
彼らに向かって戦後の指示を手短に出す。
「そういうわけだ。戻ったらサウマは排斥しろ。城に残った者でどうにか出来ていればよいのだがな。
 私に何かがあった時はリドゥリスに後を継がせるように」
「リドゥリス殿下にで御座いますか? ですがあの方はまだ十四歳で……」
「充分だ。頭もよいし、父の息子の中で一番、王に向いている。私よりもな。
 年若で侮られるというのならしばらくは私の死を隠蔽しておけばよいだろう」
「へ、陛下!」
まるで戦後処理というよりは自分の死後の処理を指示するような王に臣下たちは蒼ざめる。
彼らの心配を読み取ってセデウスは苦笑した。
「負けはしない。安心しろ。それより死後と言えばもう一つ頼んでおこうか。
 私が死んだら妃はクルースの城に戻してやってくれ。彼女の侍女と共に残りの生を過ごせるように」
マトラの死を知らない王がそう言うと、一同は複雑な顔をしながらも了承の意を示す。
その反応に満足するとセデウスは馬首を巡らした。
前線へ、護衛の武官たちを引き連れ馬を進める。
暗黙の内に皆が手はず通りの位置に散っていった。
セデウスは振り返らない。遥か後方、戦場から離れた場所にある天幕の方角を。
王として立つ彼はそうして前線に立ち ―――― 敵軍の憎悪の視線をその身に集めることとなったのだ。