アウラティカ 19

禁転載

総指揮官として戦場に立っていたエトルスは、敵王自ら最前線に出て来たことに少なからず驚いた。
先だって訪ねてきた使者の大臣は 「王は交渉するつもりが一切無い。戦が長引けば王妃やクルース城都の民を人質にすることも考えている」と伝えてきた為、皆が更なる怒 りを深めることになったのだが、ウォルザもそれから気が変わって交渉を行う気にでもなったのだろうか。
エトルスは使者に「人の名を騙って悪を為し、姑息に国を盗んだ男は、正々堂々戦場に立つことさえできぬのか」と 痛烈な皮肉を言付けて返していたので、てっきりウォルザ王は 逆上したであろうと思っていた。その為、いきなり開戦に至ってもおかしくないだろうと思っていた分、意外さを禁じえなかったのだ。
「弓は届くか?」
「ぎりぎり届くと思われます。ですが、あの距離では当たるかどうか……。当たっても鎧に弾かれるかと」
「そうか。向こうからは届かぬのであろう?」
「まず間違いなく」
エトルスはもう一度軍と軍の間隙を挟んで対岸にいる敵国王を眺める。
彼の息子くらいの年齢の若い王。その男がアウラティカを奪い、夫となった人間だというのだ。
最後に会った時の美しく可憐な女王の姿を思い出し、エトルスの胸は痛んだ。
「―――― もう一度交渉をしてみるか」
ウォルザの軍は八万、クルースより二万多い。
地の利が若干こちらにあると言っても避けられる戦いならばそれに越したことはないだろう。
他の人間は怒りに狂い、たとえ玉砕してでもウォルザに思い知らせるべきと息を荒くしている者も多いが、総指揮官の彼には全兵士の命を預かる責がある。
エトルスは鐙を軽く蹴ると自らもまた前線に出た。
敵からも自分が東部領主であると分かるように半馬身前に出ると朗々と声を張り上げる。
「ウォルザ国王セデウスとお見受けする。我はクルース東部領主エトルスなり!」
「確かに。先だっての交渉では世話になった」
セデウスの声は決して大きくはないが、平原によく通った。
静かに抑えられた声にはしかし、王者としての威厳が滲んでおり、エトルスは嫌でも緊張を味わう羽目になる。
交渉の場で会ったセデウスは冷静沈着を絵に描いたような切れ者で、悔しいが自分の息子は彼には敵わないであろうと歯噛みしたものだ。
冷徹で必要な事柄以外には関心を払っていないような彼がだから、北部領地について話を持ち出してきた時は、いささか驚いたことを覚えている。
かつての婚約者であり夫であるセデウスのことを今、アウラティカはどう思っているのか。
本当は姉を殺したのはウォルザなのだと知れば彼女がどれ程傷つくのか、想像するだにエトルスの眉は曇る。
「クルースの要求としてはまず、女王陛下をこの地に戻すことにある。
 貴君は領地と民に対しては寛容を示されたが、代わりに陛下を不当に捕らえられたままだ。
 彼の君を屈辱の戒めより解放してこそ、和平の道も模索できよう」
「屈辱か、なるほど。確かにそうかもしれぬな」
セデウスは言葉尻を楽しむかのように繰り返す。そこには要求を飲もうという意思は全く見られなかった。
若き王は自身の抜いた剣に視線を移し、もう一度エトルスの方に顔を戻す。
「だがアウラティカは私の妻だ。他に代わりはいない、ただ一人の女だ。
 彼女欲しさにクルースを滅ぼした私に、彼女を返せなど無理な話だとは思わぬか?」
誇らしくさえある口調と共にセデウスは笑う。
その内容にクルースの兵たちは怒るよりも先にぞっとした。
何故ウォルザが突如クルースに攻め込んだのか。
それは、領土が欲しかったわけでも財が欲しかったわけでもなく、手に入らない一人の女を攫う為だったというのか。
あまりと言えばあまりの理由に皆が愕然とする。おそらくはウォルザの兵もそうなのかもしれない。
だが、それを聞いたエトルスは唖然としながらも、心のどこか、別の意味で訝しさを感じていた。
―――― 何かがずれている。
アウラティカは本来セデウスの婚約者であったのだ。
何もなければ彼女は彼のもとに嫁いでいた。彼女の兄と姉に不幸が訪れなければ。
女王になってしまったアウラティカを得る為にセデウスが兵を挙げたというのが真実ならば。
―――― ディセアを事実攫ったのは、誰の仕業なのか。
虚言が、あるのかもしれない。
誰かが、どこかに。
エトルスは背筋に冷や汗を感じながら口を開く。
「王よ。今の言葉は真か?」
「偽りなどない。私は自らの婚約者を取り戻すべく兵を挙げた。
 妃には当然憎まれてしまったが ―――― 後悔は微塵もない。私は彼女を愛している」
愚かであることを分かっているかのように。
憎まれることを愛されているかのように、セデウスは微笑する。
それは間違いなく幸福な笑顔で…………エトルスはそこに偽を感じなかった。

迷いが生まれる。
どこに間違いがあるのか。
この戦いに真はあるのか。
本当にあの密書を信じてよかったのか。
だが、彼の迷いとは反対にクルースの兵は傲岸なセデウスの態度に怒りを募らせただけのようだった。
剣を抜き、持ち直す金属の音がいくつも重なる。
エトルスは焦りに周囲を見回した。これは、止めるべきかもしれない。
果たして止まるのか、それでもエトルスが味方に向って声を張り上げようとした時、不意に耳元で空を切る音がした。
矢が、風に乗って飛んで行く。
それは長い距離をかろうじてウォルザ軍の前線へと届き、王の傍に控える兵の鎧に当たって落ちた。
一瞬の空隙が場を支配する。
「馬鹿な……っ!! 誰が……」
予想外の先制。
エトルスの叫びはしかし、軍全体を揺るがす怒号にかき消された。
両陣の前線が波打つ。
意味の無い叫びを上げながら人馬が突進を始め、振り上げられた数百もの剣が光を反射して煌いた。
決壊した陣形はただ闇雲に敵を求めて突き進み、引き寄せられるようにして激突する。
初めの血飛沫は、クルースの兵の頚部から空中へと飛び散った。
鮮やかな赤は敵兵を、そして馬を濡らし、首を失った体が重い音を立てて草原に投げ出される。
何の装飾もない死。
それは嚆矢として人の戦意を煽っただけであった。
誰かの怒号と共に刃鳴りが空を切る。
次々と押し寄せる馬によって死体は尊厳なく踏みしだかれ、重なり合う肉と鎧の上、血と絶叫が広い戦場を彩り始めたのである。

叫び声が、聞こえた気がした。
アウラティカはハッと顔を上げる。
どこか遠くで誰かの悲鳴が聞こえた気がしたのだ。
「ここは……」
見回すとそこは、平原に作られた天幕の中だった。
簡易の寝台に寝かされていた自分の体を見やると、腕には真新しい包帯が巻かれている。
眠っていたせいかぼんやりと痛む頭を押さえて彼女は起き上がった。
「セデウス……?」
答える者は誰もいない。
アウラティカは一人であることに言い様のない不安を覚えた。寝台を下り、天幕の外へと向う。
「誰か……誰かいない?」
「王妃様! お目覚めになりましたか」
駆け寄ってきた男は医者のようだった。アウラティカはとりあえず頷きながら辺りを見回す。
兵の姿は何人か見える。けれどそれは、彼女がここに着いた時とは比べ物にならない程少人数だった。
何よりもウォルザの軍は何万もいるはずなのに辺りは静かすぎる。嫌な予感に彼女は身を竦めた。
「セデウスは?」
「陛下は軍を率いられ―――― 」
「出て行ったの? いつ!? どれくらい前!」
「に、二時間は既に前かと」
「二時間……?」
アウラティカは絶望的な気分に襲われた。
それだけ経っていたのなら、もう戦闘は始まってしまっているだろう。
折角ここまでたどり着いたのに、肝心な時に意識を失ってしまっていた自分を彼女は口の中で小さく罵った。
間に合わなかった。
全ては手遅れになってしまったのだ。
目覚める時に聞こえた悲鳴は事実今、どこかで誰かが上げている声なのだろう。
死が平原に広がりつつあるという想像は彼女の心を芯から冷やしめた。アウラティカは戦場の方角を仰ぎ見る。
―――― 本当に、もう間に合わないのだろうか。
戦争は、連鎖する人の憎悪は止まらないものなのか。血を贖えるものは血でしかないのか。
「セデウス……」
彼もまた、贖おうとしている。
彼女を遠ざけ、ただ一人孤独な王として立っている。
急激に遠ざかるその背はもう届かないものだというのか。アウラティカは震える片手で顔を覆った。
彼女の様子に医者は慌てて顔を覗き込む。
「王妃様、お具合は」
「…………馬を」
「はい?」
「馬を、持ちなさい。わたしも戦場に出ます」
白い手が下ろされる。
顕になった金の瞳が男を見据える。
意志と誇りと責務。
それは誰の反論も許さない女王の瞳だった。