アウラティカ 20

禁転載

弟に刃を向けられた時、まず感じたのは喪失感だった。
最初から仲がよかった訳ではない。それでもお互いを認め合ってここまで来たのだ。
その道がこんな風に最後に交差したことに、やり切れない喪失を感じた。
国は守るべきものだと、皆が言う。
自分の精神にも染み付いている。それは、その通りだ。
けれど大事な人を愛しいと思うことさえ、その為には引き換えにせねばならないことなのか。
血を分けた者の間でさえ積み重なる争い。
それは国を守る為に本当に不可欠なものなのか。

彼女はどうしているのだろう。
優しい少女。
家族を全て失い、女王として立たなければならなくなった少女。
国の為に兄の仇と疑う国とも婚姻を決意した彼女は、今どれ程辛苦を飲み込んでいるのだろう。
彼女に降りかかる責務を和らげてやりたいと、共に幸福を得ようと約束したはずなのに。
いずれの日にか
自分たちは相対し、争わなければならないのかもしれない。
国をかけて、思いを曲げて。
時代の促すままに、本能の叫ぶままに。
そして
そうして得るものに、果たして自分は価値を見出せるのだろうか。

もう充分だ。
失うのも歪められるのにも、もう飽いた。
いずれ戦わなければならぬというのなら、今戦おう。
彼女を奪われる前に、自分が奪おう。
外から狂わされてしまうくらいなら、己の思いによって、自ら狂うのだ。

アウラティカ
私は貴女の全てを奪い取る。
国も 思いも 貴女自身も。
貴女の負う全てを壊し、貴女を圧する責を取り払い ―――― そして憎悪と……自由を貴女に。

それは喜劇として語り継がれるお語。
愚かな王の物語。



全速で走らせる馬の上、アウラティカは振り落とされないよう必死で手綱を握っていた。
吹き付ける風が金の髪を舞い上げる。
微かに漂う血の匂いに動悸が激しくなるのが分かった。
彼女の左右には護衛兵たちが追従している。その最後尾には医者までもが慣れない馬を操り彼女を追っていた。
戦場まではもうあとわずかだ。アウラティカは更に手綱をしならせる。
だがその時、護衛の騎士が不意に速度を速めると彼女の前に馬を移動させた。剣を抜きながら叫ぶ。
「王妃様! 誰かが来ます!」
「誰か?」
一行は慌てて速度を緩めると様子を窺う。
近づいてくる来る数騎は、大きくなるにつれすぐにウォルザの兵であると知れた。
アウラティカはその中に一人の男を見出し、声を上げる。
「セデウス!」
護衛の兵に支えられるようにして戻ってきたのは、彼女が誰よりも探していた夫だった。
王に付き添っていた兵士は医者がいると分かると、慌てて指示を出し、数人で協力して近くの木の陰に主君の体を横たえようとする。
しかし当の本人は苦笑しながらそれを手で遮っただけだった。濃い血臭を纏いながらもしっかりとした動きで、自ら馬を下りる。
自身も馬を下りた彼女は、彼の元に駆け寄った。
「怪我をしたの!?」
「……大したことはない。戦場に残ると言ったのだが、周りに引き摺られた」
掠れた声は、彼の態度とは裏腹に怪我が重いものであることを感じさせる。
医者の指示で鎧が取り払われると、継ぎ目から入り込んだのか脇腹のところに深い刺し傷があった。
命に関わるであろう赤黒い血肉の色にアウラティカは顔色を変える。周囲の兵士も息を飲んだ。
「何故このような……陛下……」
王に付き従っていた兵士が苦渋の声を漏らすと、セデウスはまた苦笑して手を振る。
その様子にアウラティカは、これは彼が本来負うような傷ではなかったことを察した。
護衛兵が無理にでも離脱させなければ、彼はこのまま戦場で死ぬつもりだったのだろうか。
それで全てを強引に終わらせようとでも思っていたのか。
押し黙るアウラティカを、木陰に座るセデウスは困ったような微笑を浮かべて見上げた。
「そのような顔をするな、アウラティカ。貴女は笑っていた方が綺麗だ」
「笑えないわ」
「何故だ? 貴女は私を憎んでいるのだろう?」
「ええ、とても。でも、わたしは笑えない」
「そうか。残念だな」
本当にそれだけが心残りだとでも言うように彼は深く息を吐く。
どこか重荷から解放されたかの如き表情は、まるで初めて見る彼の素顔のようにも感じられた。
男は腕を上げると戦場の方角を指差す。
「軍は、一旦下げさせた。私の負傷も両軍に伝わっているだろう。危険な賭けではあるが、今、貴女が行けば止めることもできるかもしれぬ」
「ええ」
「ただ他にも道はある。このまま貴女はここを去り、どこかで幸福に暮らすという道も」
「……そうね」
アウラティカは思い出す。
初めて彼と会った時の事、子供時代の思い出、身を引き裂かれるような別れの時を。
だが、それだけではない。
クードを殺した時のこと、街を焼き、彼女を強引に妻とした時の彼のこともまた、強い衝撃と共に記憶に焼きついているのだ。
アウラティカは草原に両膝をつく。
腕を伸ばし、血の気の失せつつある夫の顔を両手で包み込んだ。
「あなたは、愚かだわ」
「そうだな」
「あなたには力があった。国を守る為の力が。あなたはわたしよりもずっと優れた王でいられたのよ」
「だが、それで貴女がいないのならば全てが無意味だ」
自嘲を込めてセデウスは呟く。

彼には王の才があった。だが国よりも一人の女を選んだ。
彼女は国の為に思いを捨てた。けれど女王としての能がなかった。
どちらも不具の王だ。
時代の逆らえぬ流れの中、あまりにも無力に足掻く一対だ。

アウラティカは真っ直ぐに男を見つめる。
金の瞳が日の光そのもののように淡い光を纏った。
長い睫毛が木漏れ日を作る木々の葉を思わせる。
少女であった頃よりもずっと彼そのものを見据える目は、諦観より熱い静けさに満ちていた。
触れた手から、視線から、言葉から、彼女は思いを注ぐ。
花を育てるように、終わりを望むように。
「セデウス、わたしの愚かな王…………あなたは結局、わたししか手に入れることができなかった」
他には全て失った。損ねた。ただ一人彼女だけの為に。
そしてその代わりに―――― 男は、愛しい女を手に入れた。
それだけのこと。それだけのお話。
幾度となく大陸で繰り返される恋物語の一つでしかない。
セデウスは思いも寄らぬ妃の言葉に驚愕を漂わせた。
緩慢な動作で腕を上げ、頬に添えられた小さな手に己の手を重ねる。
かつて近くにあった手。
そしてとても遠く……今、ようやく取ることの出来た手。
男は白い指を宝物のように握り締め、幸福そうな微苦笑を浮かべた。
「それでいい、アウラティカ。他には要らない」
「…………馬鹿ね」
「だが、充分だ」
二人は、顔を見合わせて少しだけ笑う。
こんな風に、戦争の上に打ち立てられる思いではなかった。はじめからそれは、彼らの手の中にあったのだから。
人は彼らを罵るのだろう。
私心に溺れ、徒に民を害した夫婦と。
幾千幾万もの命を飲み干した、歪んだ恋情の持ち主と。
ただ今だけは、それでもよかった。
アウラティカは目を閉じ顔を寄せると、恋しい男の唇に口付ける。
透き通った涙が睫毛を下り、男の頬を濡らした。
―――― 今、この一瞬だけ、彼らは自由だ。
王でも女王でもない、想い合うただの人と人だ。
約束は、守られた。
ほんの数秒の間。
けれどアウラティカは確かに―――― 何よりも、幸せだった。



奪われた時間を取り戻す為に、遠く誤った道を歩いてきた。
そして待ち望んだ一瞬を得たが為に、残りの贖罪もまた背負わねばならない。



アウラティカは顔を離すとゆっくりと立ち上がる。
彼女は握られた手を握り返し、人知らぬ海のように凪いだ目で夫を見つめた。
「セデウス、わたしはあなたを憎んでいる。復讐したいと思っているわ。
 だから…………わたしが死んだら、あなたも死ぬのよ」
「ああ」
元よりそのつもりだ、と彼は微笑む。
彼女を得た時から、彼にとって自分もまた彼女のものだ。
当然のように繋がれた命。
それが永く彼らを一対と知らしめるだろう。
アウラティカは頷く。握る手に力を込めた。
「そして、わたしが生きて戻ってきたのなら、あなたも生きなさい」
もし、この争いを繕う事ができたのなら。
共に生きて贖いをしていけばいい。
子供の頃に思い描いていた将来とは違う、苦悩と哀惜に満ちた人生を送ればいい。
それもまた、ふさわしい終焉であるだろう。
生まれた時から人は死に向い続けている。
そして彼らも己の罪悪を見つめながら、残りの生を送るのだ。

セデウスが長い煩悶を飲み込んだ後に頷くと、アウラティカは繋いだ手を離した。
兵に馬を寄せさせると再び馬上に上がる。
金の髪が日の光を反射する様を、セデウスは眩しげに見上げた。
「アウラティカ、もし……」
「何?」
「もし、はぐれてしまったら、あの場所に行くといい。私も必ずそこに迎えに行くから」
アウラティカは軽く首を傾ぐと首肯する。
それがどこのことなのか、聞き返す必要などない。二人の約束の場所はただ一つしかないのだから。
彼女は最後にもう一度、振り返って夫の顔をよく見る。
人と人との別れの時がいつになるのか、その時知ることが出来たらいいのに、と少しだけ思った。
それともこれが最後だと分かれば、彼女はここから進めないのかもしれない。
だからアウラティカは何も言わず視線を戻すと、手綱を鳴らし戦場へと馬を駆る。
生まれた時から負った自らの責務をただ一人、果たす為に。