アウラティカ 21

禁転載

草原を駆ける。
それが、自分の為なのか国の為なのか、それとも一人の男の為なのかはよく分からない。
ただ強い思いが彼女を前へと突き動かす。
日を浴びて、草を蹴って、風の中を馬と共に駆け抜ける。
無心のまま前へ、ひたすら先へと焦がれるように手綱を取る。
決して長くない距離。
それでも長く感じられた時間を経て
アウラティカはようやく、両国に横たわる深い亀裂の―――― その只中に到達した。

ウォルザは王の命によって、クルースは劣勢に陥った為、一旦は前線を引いた両軍は、睨みあいを始めた当初こそ血気盛んに敵軍を見据えていたものの、時が経つと共 に負傷者の呻き声や、目前に積み重なる物言わぬ死体の数に、僅かながら意気を挫かれつつあった。
血の臭いが鼻の奥につき、漂う空気の全てに赤い色がこびりついているような気さえする。
戦闘の高揚から逃れでた者は、黒く色を変えた草の上に内腑が染み出していることに吐き気を覚え、すぐ傍に佇む自らの死の可能性に戦慄を覚えた。
―――― このまま待機を続けていては士気に関わる。退くか進むか決しなければならない。
そう焦り始めたウォルザの将軍たちが結局とった判断は、進むこと、であった。
武芸に秀でていたはずの王が既に、不覚を取ったとしか言いようのない重傷を負っているのだ。
王を刺したクルースの兵士は、相手がほとんど剣を防ごうとしなかったことに驚愕しながらも慌てて自軍に戻っていった。
その為、クルースにもセデウスの負傷の報は伝わっていると見て間違いない。
セデウスは優れた王だ。
勿論、開戦の時の呆れるほど妃に執着した言葉に、眉を顰めた者も多い。
けれどそれを上回る能力を彼は宰相時代から示し、信頼を国内に築き上げてきたのだ。
クルースを侵略した理由がどうあれ結果が勝利であれば、兵士たちの王への忠誠は揺るぐことはない。
そしてだからこそ、これは負けることのできない戦であった。
王は「自分が戻るまで下がったままでいろ」と命じたが、あの傷の深さではすぐ戻れるか定かではないだろう。
むしろ戻ってきた王に勝利を呈することこそ臣下の行いであると、ほとんどの将軍たちは判断した。
伝令がウォルザの軍内を走る。
それが全軍に行き渡った時、指揮を取る将軍の上げた剣と共に、前線は再びゆっくりと動き始めた。

鉄が鳴る音、それを取り囲む怒号が聞こえる。
剣戟を聞き取ったアウラティカは焦りも色濃く、ようやく見えたウォルザ軍の最後尾に飛び込んだ。
声を張り上げながら兵たちの間をすり抜け前線へと馬を押し込む。
「やめなさい! 下がりなさい! 下がるのよ!」
二騎の護衛のみを伴った王妃は驚愕の視線を集めながら人馬の海をかき分けた。
普段は細く澄んで通る声も、戦場の混乱にあってはごく近くにしか届きようがない。
それでもアウラティカは諦めず、剣のひしめく中を突き進む。
恐怖は感じなかった。
あるべき感情は全て麻痺してしまったかのように、ただ彼女は制止を叫ぶ。
前に行けば行くほど兵士は高揚に支配され、割り込む隙間のない中を、アウラティカは細い両腕の伸ばして、少しでも先へ進もうと喉を枯らした。
「通して! お願い! 剣を下ろしなさい!」
それは広い戦場においてあまりにもささやかな声だ。
彼女の声が聞こえなかったのであろう恐慌に陥った兵の乗る馬が、アウラティカの馬にぶつかってくる。
鎧も着ていない軽い体は簡単に馬上から放り出されそうになったが、彼女は手綱を引き馬の首にしがみついて何とか落下を免れた。
護衛たちが留めようとするのを退け、体勢を立て直すと再び前へと馬首をねじこんでいく。
なりふり構わぬその姿。
絶えず叫ばれる声は、宮廷の奥にいるべき妃としてはあまりにも悲痛なもので、彼女を見たウォルザの兵たちは剣を下ろし、金の軌跡を描いて前へ進もうとする彼女 の後姿を見守った。熱気の中敵兵を睨んだままの兵士の肩を後ろから別の兵士が叩く。 振り返った者はアウラティカに気づき、異様なその光景に思わず見入った。
戦意が立ち昇る閉ざされた時において、いつしかゆっくりと、水が染み込むように沈黙の輪が陣営に広がり始める。
将軍の一人が彼女に気づき、唖然として妃の必死の姿を眺めた。
まるでそれは狂乱の中に落とされた一滴の雫だ。
弱くも貴い意志を孕んだもう一人の王の姿。
彼女の声に気づいた者は武器を引き、血の狂熱を急激に冷ましていく。
静寂を思わせる注視をその身に集めながら、しかし前だけを見つめるアウラティカはそれら視線に気づかない。
得られるもの全てを手に取りたがる子供のように彼女は遠く手を伸ばし―――― そしてついに、最前線へと達した。

初めに気づいたのは一人の兵士だった。
死の恐怖を越える戦闘心で剣を振りかざした男は、目の前に突如女が飛び出してきたことに驚く。
それでも勢いに乗ったまま女の乗る馬に剣を振り下ろそうとした男は、彼女と目があって硬直した。
金の瞳。
亡くなった前王の妃と同じ色。よく似た容貌。
遠目からしか見たことがなくとも、間違いようがない。
彼の仕えるべきただ一人の主君。
その存在を認識した瞬間、全身に戦慄が走った。
剣を握ったまま彼は震える口を開く。
「じょ、女王陛下!」
男の叫びは周囲にもまた驚きを生み出し、あっという間に前線に伝播する。
ウォルザの兵もクルースの兵も口々に彼女の名を呼び、その姿をよく見ようと目を凝らした。
アウラティカは上がってしまった息を整えると、深く息を吸いなおす。
「剣を引きなさい! わたくしはアウラティカ・セレ・ナイティス・クルース・レギナ・ウォルザです!
 この戦いの停戦を命じます! 下がりなさい!」
彼女の声は死を伴う喧騒の中、さほど遠くまでは通らなかったが、それでも届く範囲の人間を打ち据えるには充分なものだった。
うら若い女王の命に兵士たちは戸惑いながらも剣を収め、少しずつ下がって彼女の周囲を空けようとする。

波紋が広がる。
人の波はアウラティカを中心に熱を冷ましつつあった。
彼女はそのことに幾許か安堵する。
ふと視線を落とすと草原の上、原型を留めていない捻れた人の体がいくつも転がっている。
口を言葉の形に開きかけたまま絶命している若い兵士の苦悶の表情に、彼女は口元を押さえた。
この状態を間に合ったというのは傲慢に過ぎないだろう。
失われた命の壮絶さにアウラティカは沸き起こる嗚咽を押し殺す。
だがまだ、彼女にはやるべきことがあるのだ。
彼女の言葉を、判断を、待つ人間たちに届かせなければならない。
無理矢理に上げられた凄絶な喜劇の幕を下ろさなければならないのだ。
アウラティカはゆっくりと辺りを見回す。
彼女を見つめる兵たちの顔には、困惑も忠誠も心酔も怒りも、全てが入り混じって見て取れた。
乱れなく集まる視線が重い。
震えそうになる足をけれどしっかりと馬につけて、アウラティカは顔を上げる。
誰にともなく、全ての兵に向けて直接、口を開いた。
「戦いをやめなさい。これ以上の流血は不要です。わたしも、そしてウォルザの王もこの戦いの停止を望んでいます」
ふっと息を吐いて、彼女は周囲の反応を待つ。
ウォルザの将軍が、そして遠くからエトルスが、人馬をかき分けて彼女の方に来ようとしているのが視界の隅に映った。
アウラティカは胸を張る。
恥じてはいけない。
怯んではいけない。
たとえこの胸の中が後悔と苦渋に満ちていても、民の前に王として立つこの時だけは、彼女は弱くあってはならないのだ。
金の瞳が、刹那空を仰ぐ。
どこの国にあっても変わらぬ空を。
それは戦いの無常とは切り離された清冽の青で―――― 彼女は少しだけその色に見惚れた。
アウラティカは空の青を吸い込むかのように深く息を吸うと、視線を地上に戻そうとする。

その時、小さな笛を吹きつけるような鋭い空気の音がした。
「陛下!」
何の音なのか、彼女が怪訝に思う前にしかし、一番近くにいたクルースの兵が馬ごと彼女にぶつかってくる。
突然のことに唖然とする彼女の肩に、次の瞬間熱が走った。
「ッあああああ……っ!」
つい数日前にも味わった苦痛。
頭が真っ白になる痛みに全身を引き攣らせながら彼女が視線を動かすと、細い右肩に深々と一本の矢が突き立っていた。
同時に重いものが落ちる音がしてアウラティカは目を瞠る。
すぐ前方、触れ合うほどの近く。
そこには今彼女に体当たりしてきた男が、草原の上にぐったりとうつ伏せになって横たわっていた。
彼の首の後ろにもまた、矢が半ばまで食い込んでいる。剣を取り落とした男の手が二、三度わなないて動きを止めた。
草原に血の染みが広がっていく。
あまりにも鮮やかな赤に、彼女は目を奪われた。
「あ……ああ……」
アウラティカは全てを理解すると、自らを庇って命を落とした男に向かって両手を伸ばす。
怪我を忘れ馬を下りようとする彼女を、けれどようやく前に着いたウォルザの将軍が手を伸ばして留めた。
「王妃様! お手当てを!」
「はなして」
「ここは危ないのです! お妃様!」
将軍は彼女をウォルザの陣中に押し戻そうとしながら、クルースの陣営を鋭い眼光で射抜く。
矢はクルースの中からアウラティカを狙って放たれたのだ。
エトルスの「誰が撃った!」という怒号が人の中に響いている。
困惑と後悔に顔を曇らすクルース軍とは対照的に、仲裁に入ろうとした王妃を傷つけられたウォルザ軍は再び戦意を高揚させつつあった。

「離して! 離しなさい!」
「王妃様!」
「離しなさい! わたしの命よ!」
アウラティカは身を捩って将軍の腕から逃れると、再び前方に躍り出た。
肩に刺さったままの矢を左手で掴む。
何をするのか息を飲む兵たちの目の前で、彼女は歯を食いしばると一息でその矢を抜きさった。
鮮血が飛沫となって空中に飛び散る。赤い雫は紅玉のように光を反射して煌いた。
気を失いそうなほどの激痛に、彼女の美しい顔は歪む。
けれどアウラティカは己の精神全てを振り絞って、悲鳴を上げることさえ堪えた。
痛みなど、所詮自分だけのことでしかない。
もっと多くのものが、今の彼女にはかかっているのだ。
自らの血にてらてらと濡れた矢を持ったまま、アウラティカは荒い呼吸を整えた。
女王の為に殉じた兵士を見下ろし、彼女は両目を閉じる。
「感謝と、祝福を。私の騎士に」
短い祈りの言葉。
だがその澄んだ響きは辺りを水を打ったように静まり返らせた。
アウラティカは金の瞳をゆっくりと開く。
彼女の目に映る世界はとても残酷で―――― そして、あるがままに美しい。
多くの人の生きる世界。
悲しみと裏切りの広がる生はけれど、それだけでも決してないのだ。
「聞きなさい」
女王の声は届くはずもない戦場の隅々にまで響き渡る。
そうして、歴史の上に残されぬ最後の一幕が始まった。