アウラティカ 23

禁転載

轟音が、静まり返った草原に響き渡る。
あまりのことに皆が唖然として北東の方角を見やった。
クルースの軍の右翼後方から煙があがっている。
たちこめる白い煙の中から微かに聞こえるのは悲鳴と剣戟で…………間違いなく、何らかの戦いを知らしめる音だった。
「何事だ! 何があった!」
エトルスの厳しい声にアウラティカは我に返る。
彼女が事態を確かめようと馬上で身を乗り出しかけた時、また轟音が響き渡った。
突如、巨大な炎がクルースの後方で燃え上がる。
炎はそれ自体が意志あるもののように揺らぐと、逃げ惑う兵たちを飲み込み広がり始めた。
続けざまに幾つもの炎が陣中に投げ込まれる。
遠くで高揚の叫びが聞こえた。戦を前にした兵たちの叫び。
アウラティカもエトルスも、そしてウォルザの将軍たちも唖然としてその方角を眺める。
まるで油断していた両軍の側面に、いずこからともなく現れ襲い掛かったのは ―――― ダセルカの軍勢だった。

「やつら、いつの間に!」
「反撃せよ! 剣を取れ!」
驚愕を乗り越えると複数の指示が両軍を飛び交う。
動き始める軍勢の中、アウラティカは僅かに押されてよろめいた。その体をエトルスがウォルザの将軍へと押しやる。
「アウラティカ様をどうか!」
「承知した」
「ま、待って!」
伸ばした手。
しかしそれは何を掴むこともなく、彼女は襲い掛かるダセルカとは逆の方向へと連れ出される。
将軍に手綱を取られ、混乱の中、徐々に遠ざかる煙にアウラティカは振り返った。
「あれは何なの……」
言いながらしかし、彼女は自力で答にたどり着く。
サウマが持っていた魔法薬。彼はあれをダセルカの王子から貰ったといっていたではないか。
ならばもしかしたら、ダセルカは秘密裏に城に魔法を取り入れ……戦争に魔法士を投入するという試みに出たのかもしれない。
三度目の轟音が鳴り渡る。甲高い悲鳴が空をつんざいた。
圧倒的な異能の力。
炎の後ろから現れたダセルカの軍勢が、次々に向ってくる兵士たちを薙ぎ払い切り捨てる。
たちまち濃くなる血と肉の焼ける臭いに、草原は大きく震えた。
人馬の波を脱してしまうと、彼女に付き添っていた将軍は戦場を振り返る。
「王妃様……私は指揮に戻ります。護衛をつけますのでどうかご無事で逃げ延びください。陛下をよろしくお願いいたします」
アウラティカは目を瞠る。
それはまるで、敗北を覚悟しているかのような言葉だった。問い質す妃の視線に将軍は苦笑を浮かべる。
歴戦の彼の目には或いは、未知の攻撃と共に完全に不意を突かれたこの戦いの決着がどうなるのか、既に予想がついているのかもしれない。
アウラティカは素早く馬首を巡らした男の背に呼びかけた。
「待って! わたしも残るわ!」
「いけません、王妃様」
再び横から手綱を引いたのは護衛の騎士の一人だ。彼は軽く横に首を振ると半ば強引に彼女の馬を伴って走り出す。
たちまち遠ざかる戦線にアウラティカは唇を噛んだ。
「どうして……わたしも一緒に……」
「王妃様、貴女様は、陛下は、民の希望なのです。崇める人なくしてどうして我々は希望を持ちえましょう。
 どうか今は安全なところへお逃げ下さい」
民の真実。
王の真実。
食い違い思いあう真実にアウラティカはやりきれない感情を堪える。
「わたしたちは…………そんな…………」
沈み込む狂おしい声。
けれどその声は新しい爆発音にかき消され、誰の耳にも届かない。
そして、死と争いは全ての声を飲み込んで荒れ狂い始めるのだ。

戦場を離れ、ウォルザの野営地へと向った二騎はしかし、天幕の影が見え始めたところで慌てて馬を止めた。
遠めにも天幕の間を兵士たちが我が物顔で行き交っているのが見える。ウォルザではなくダセルカの兵士たちが。
王が戻っているはずの場所に代わりに敵がいる。
その事実にアウラティカは絶望を覚えた。
「何で……っ! セデウスは!?」
「きっとお逃げになったはずです。行きましょう王妃様、奴らに見つかる前に」
騎士は厳しい声で断ずると方向を変え走り出す。
どこを目指しているのか、このままウォルザまで逃げるつもりなのか。
混乱にぼんやりとした頭を振ったアウラティカに、不意にセデウスの声が甦った。
彼女は我に返ると前方を行く騎士を呼ぶ。
「そうだわ……クルースの城よ」
「クルースの?」
「そこで待ち合わせたのよ、セデウスと。彼はそこで待っているはずだわ」
はぐれたらあの庭園で落ち合おうと、必ず迎えに行くと、彼は言ってくれたのだ。
騎士は頷くと馬首をクルースの城都へと向けた。アウラティカも手綱をしっかりと取り直し、馬を駆る。
今はただ、セデウスにもう一度会うのだということだけが、彼女の頭の中を占めていた。
そうすればきっと、まだ間に合う。
何度でも苦しい時は越えられる。
彼はアウラティカの出来ないことを叶えてくれる、もう一人の王なのだから。

「造作もないな」
馬上から戦場を眺めていた男は、圧倒的な勝ち戦の光景に鼻で笑った。
死体の焼ける臭いに満足そうに目を細めると、隣に戻ってきた女を見下ろす。
騎兵が多い男の周囲で彼女だけは素足に徒歩であり、傷だらけの足に巻きついた鎖は背後に佇む騎士の手へと繋がっていた。
男は尊大な態度で彼女をねぎらう。
「ご苦労だったな、カサンドラ。予想以上の出来だ」
「…………」
「喜べ。お前一人の力で千の命を葬った。これからはより多くの屍がお前の前に積み上げられるだろう」
女は俯いたまま答えない。
男はその態度に怒るわけでもなく、興味をなくしたかのように顔を上げると、背後の側近に命じた。
「アウラティカは見つけたら捕らえろ。あの金の瞳が欲しい」
「かしこまりました」
「ウォルザ王は殺して構わん。ああ……サウマは失敗したらしいがな。まったく使えん駒だった」
俺はもう国に戻る、とだけ言ってダセルカの王子は戦場を後にする。
その背後を重い足取りでついていく女を、側近の一人は顔をしかめて見送ったのだった。

アウラティカは走る。
自らの重い足を必死で動かして、熱に浮かされた体を引き摺って。
人気のない城の廊下をただ独り走る。
護衛の騎士は、途中で追ってきたダセルカの兵から彼女を逃がす為、一人残った。
そして、何とかクルースの城都にたどり着いた彼女が見たものは
―――― あの日よりももっと苛烈に、ダセルカの兵によって焼き尽くされ略奪される己の国の姿だった。
別働隊なのであろうダセルカの軍は数は決して多くないが、徹底的に建物に火を放ち、男を殺し、女を犯して装飾品を奪い取る。
悪夢のような光景に立ち尽くしたアウラティカは、けれど一人の兵に発見されて急いで裏道に逃げ込んだのだ。
曲がりくねる小道を抜け、古い酒蔵の奥から城への抜け道に入り込む。
限られた者しか知らぬ通路を駆け抜け、まだ敵兵の到達していない城の中を走った。
このまま、体は破裂して死んでしまうのかもしれない。
そう思えるくらいの激しい動悸に細い体を動かして、アウラティカはようやく城の中庭へと走り出た。

けぶる木々。
柔らかな風。
懐かしい彼女の王国。
アウラティカは長く伸びた芝の上、足を引き摺って小さな庭を目指す。
一歩一歩、進むごとに時が巻き戻っていくような気がした。
「セデウス……」
小さな声で彼の名を呼ぶ。
彼はいつも先にいた。先に来て彼女を待っていてくれた。
そうして笑って手を伸ばして、その手がとても大きく、温かかった。
ずっと傍にいてくれた人。
約束を交わし、そして別れた男。
命を共にする男の名を呼んで、アウラティカは彼の姿を探す。

豊かな緑が木陰をつくる。
草の向こうに小さな噴水が見える。
アウラティカは王国を覆う葉々をかきわけ、中に踏み入った。
「セデウス、来たわ」
答える声はない。
葉ずれの音が耳をくすぐる。
アウラティカはゆっくりと、誰もいない噴水に向って歩を進めた。
「セデウス。わたし、ようやく来たのよ。あなたのところに」
小さな庭園の中央。
二人だけの王国の中心に彼女はたどり着く。
噴水の縁に手をかけ覗き込むと……そこには澄んだ水が、風に波打ちながら満たされていた。
微かなせせらぎが聞こえる。
アウラティカは白い手を差し伸べ、手の平に水を汲み取った。滴る雫に唇をつける。
透明なはずのその水は、何故か血と涙の味がした。
アウラティカはじっと水の中を見つめる。
底で何かが煌いたような気がしたのだ。
手を奥まで伸ばし、光る何かを掴み取る。
取り出してみるとそれは、大粒のサファイアをはめ込んだ飾り気のない金の腕輪だった。
内側を見ると何やら文字が彫ってある。彼女は腕輪を目の上にかざした。

―――― 愛しいアウラティカへ。貴女の自由と未来の為に。

彼はいつも、待っていてくれた。見守っていてくれた。
彼女が迷わないでいられるように。笑っていられるように。
何よりも優しい時。今はもう決して帰らない時間。
だが確かにあの頃この小さな庭園は…………紛れもない幸福に浸されていた。
「セデウス……。アウラティカよ。どこにいるの?」
彼女はか細い声で、彼を呼ぶ。
愛しくて憎くて、そして愛しい男の名を。
小さな手にただ彼の言葉を握り締めて。

遠くで男たちの怒号が交差する。
粗野な足音がいくつも近づいてくる。
アウラティカは手元の腕輪にじっと目を落とす。
澄んだ青の石の上、熱い雫が音もなく滴り―――― 彼女の手の中に零れ落ちていった。