禁転載
数字を知らないと言った雫にシセアは驚きの目を向けたが、苦笑すると文字を教えてくれた。
縦棒と横棒を組み合わせて作られた文字はローマ数字に似ており、規則性もあって覚えやすい。
何より十進法だということに雫は安心した。ついでにお金の単位や貨幣の数え方も教えてもらう。
「あんた本当に何も知らないんだねぇ。どんなところから来たんだい?」
「鉄の塊が空を飛ぶ世界です」
シセアは目を丸くしたが冗談と思ったのか笑い出した。
雫は少しほろ苦くも微笑む。
この世界からすれば元の世界も充分「魔法の世界」なのかもしれない。
ただ雫には元の世界の文明をこちらに持ち込む技術も知識もなかった。
あるのは携帯と、大学の図書館から借りた文献に辞書、筆記用具や音楽プレイヤー、その他小物など、普段持ち歩いているものしかない。
文明の機器も混ざってはいるが、その仕組みを説明することはできないのだ。せめて理系だったらよかったのに、と彼女は思う。
だが今となってはそれらも自分の身分を証明する為に重要なものだろう。大事にしなければならない。
初めて食べる料理、けれど温かく美味しい昼食を綺麗に食してしまうと、雫はシセアに連れられてアルバイトをする為に家を出た。
案内された店は小さなパン屋だった。
焼きたてのいい匂い漂う店に、この世界にもパンはあるのだなと雫は感心する。
ただ雫の知っているパン屋ほど種類は多くない。角パンと丸パン、棒状のものなどせいぜい10種類ほどだ。
菓子パンも置けばいいのにと思うのだが需要がないのだろうか。
「こんな感じで売り子して。いい?」
「分かりました。頑張ります」
40代程に見える男の店主がパンを作る為に厨房に引っ込んでしまうと、彼女は小さく「よし!」と呟いて気合をいれた。
それを見計らったかのように中年の女性が二人入ってくる。
「あら、新しい子じゃない。見ない顔ね」
「雫と言います。よろしくお願いします!」
「元気がいいわ。若い子がいると華やぐわね」
彼女たちはくすくすと笑いあうと角パンを買っていく。
雫は覚えたばかりのことをフル回転させて会計にあたり商品を紙で包んだ。
やってくる客は皆彼女を見てはじめ驚き、次に笑顔で歓迎してくれる。
中には「いつもこれを買うから覚えて」と言ってくる客も居て、雫は大学受験以来久しぶりに必死で記憶力を働かせることとなった。
約束の時間はあっという間に過ぎ去った。
半ば高揚の中にあった彼女はほぼ全てのパンが売れきった店内を見回して息をつく。
町の生活に密着したパン屋は毎日皆がどれくらいパンを買っていくのか経験で分かっているのだろう。
厨房から出てきた主人はまだ温かいパンを雫に差し出した。
「はい、ご苦労様。シセアと食べな」
「ありがとうございます!」
「あと今日の給金。明日もよろしくね」
主人は雫の手に5枚の硬貨を落とす。青銅色の硬貨の1枚が10セラということを雫は覚えたが、これが現代日本でどれくらいの金額に相当するかは分からなかった。
礼を言って夕暮れの中帰路につきながらぶつぶつと呟いて考えを纏める。
「ファーストフードで時給750円で働いたとして……今日は5時間くらい働いたから、1時間10セラ。
750円が10セラだと、75円が1セラ……か、な? …………よく分かんない」
そもそもファーストフード店の時給を基準にすることが間違っている気がする。
ただ手の平より一回り大きいくらいの丸パンが1つ3セラだ。
1時間働けば丸パンが3個買える、と結論づけると雫はそこで計算を切り上げた。
細かいことまで日本に照らし合わせていてはきりがない。郷に入っては郷に従えばいいのだ。
家に戻った雫は、シセアに宿代と食費を合わせて1日20セラを支払うことを申し出たが、彼女はそんなに要らない! と断ってきた。
だが口ぶりから言ってもシセアの性格から言っても、それが相場より高すぎるからというわけではなく好意の為であることは雫にはよく分かる。
家を空けがちな夫の帰りを待って一人暮らすシセアからすると、突然の居候は妹が出来たみたいで嬉しいのだろう。
二人の押し問答と相談の結果、結局雫は1日10セラを払い、代わりに家事も手伝うことになった。
夕食後、並んで洗い物をしながらシセアは皿を拭く雫に笑いかける。
「仕事はどうだった?」
「忙しかったけれど、楽しかったです。皆さんいい人ですね」
「田舎町だからね。あんたもゆっくりしながら帰るあてを探すといいよ。気だけ急いてもよくないからね」
「はい」
見知らぬ場所に放り出された雫の気持ちを温かく包んでくれようとするシセアの優しさが嬉しかった。
だから、こんな夏休みもいいかもしれないと、少し思う。
帰る頃にはどんな自分になれているのか。姉や妹に沢山の土産話をしてやろうと思った。
それから二週間、雫は毎日アルバイトと家事に明け暮れる。
ようやくこの生活や世界にも慣れてきた、そう思った頃、転機は訪れたのだ。
「元気そうだ、異世界人」
いらっしゃいませ! と声を上げかけた雫は久しぶりに見る魔法士の男に口を開けたまま止まってしまった。
その隙に彼から返って来た挨拶は、事実ではあるがあんまりなものである。彼女は口をとがらせた。
「異世界人です。いらっしゃいませ。何をお求めですか」
「パンを。パン以外あるのか?」
「スマイル0円です」
そう言って雫はわざとらしい笑顔を作ったが、エリクには当然ながら通じなかったらしい。
軽く無視され、彼女は笑顔のままこめかみを引き攣らせる羽目になった。
エリクは迷いもせず丸パンを二つ指し示す。無言で紙袋にパンを詰める雫に、男は感情の読めない声をかけた。
「君は元の世界に帰りたいんじゃなかったのか?」
「帰りたいですよ。でも今のところ方法が分かりませんし、何をするにしても軍資金と基礎知識は必要ですから」
「無謀なのか現実的なのか分からないな」
「やることやってりゃ気も紛れます」
少しだけ本音が滲み出た言葉にエリクは片眉を上げた。藍色の目が不透明な思考を孕む。
彼はふっと息を吐くと、懐から硬貨を取り出しながら、教授がテキストを読み上げるような淡々とした声で続けた。
「あたれるだけの文献にあたったが、異世界からこの大陸に来訪者が来たという記録は残っていない。
せいぜい違う位階の……上位魔族などが現出するくらいだ。
ただ、御伽噺の範疇のようなものだが、この世界の法則に反するような事例はいくつか過去に記されている。
もしかしたらそれが、君を帰す鍵になるかもしれない」
雫はパンを入れた袋を握ったまま顔を上げた。
大きな、驚愕に満ちた目がエリクを見上げる。
「…………信じてくれてたの?」
「信じないとでも思ったのか? あんな泣き方をしていたくせに」
触れて欲しくないところに触れられた、と彼女は思った。
知らない世界で弱いところを見せたくなかった。
それでも嫌な気はしない。
こんな見も知らぬ人間の戯言を、荒唐無稽な話を、彼は信じて調べてくれていたのだ。
胸が温かくなる。まるで小さな蝋燭を灯したかのように。
雫は深く息を吸って ―――― それを吐き出すと、本当の笑顔で笑った。
「ありがとう。エリクさん」
「エリクでいい」
人が優しいばかりではないと、大人になりきっていない雫でも知っている。
だが彼女はまた人は優しい生き物でもあると分かっていた。
そうでなければもっと世界は哀しく、無彩色だ。
鮮やかな世界に自分が立っていることを彼女は嬉しく思う。
―――― もし帰ることが出来たなら文章を書こう。雫は何となくこの時そう思った。
新しいノートの白いページに、この世界の物語を。
小説など書いたこともない。作文も人並みだ。
だが自分で考えて、全てを記そうと彼女は決意した。
そうすれば将来どれ程過去の記憶が薄れようとも、彼女の旅は色のある言葉として残り続ける。
ページを捲れば世界が甦る。
それはとても、素敵なことに思えたのだ。
エリクとパン屋で再会してから3日後、雫はバイトが休みの日に自分のバッグを持って図書館を訪れていた。
昼でも薄暗い中を足音を忍ばせて進む。入り口にはちらほらいた人も奥にいくほど姿を見なくなった。静寂が存在感を持って沈殿している。
待ち合わせをしていた男は、図書館のもっとも北の部分、日の差し込まぬ一角で彼女を待っていた。
広い机には青白い光を放つカンテラが置かれている。
重いバッグを隣の席に置いて座りながら雫は眉をしかめた。
「目が悪くなりますよ。もっと明かりを取らないと」
「強い光は本を傷める」
自分の視力よりも本を優先する男に彼女はあきれを隠せない。
「エリクの目が悪くなる分にはいいけれど、私は悪くなりたくないです。コンタクトとかしたくない」
「コンタクトって何? 眼鏡に破壊力がついたもの?」
「何で破壊力が必要なの……目の中にいれるレンズ。眼鏡の代わり」
「目の中に? 凄いな。埋め込むの?」
「埋め込みません」
そんなコンタクトレンズは一生したくない。雫はそこで会話を打ち切るとカンテラに手を伸ばした。
どこかで光量が調整できないかと思ったからなのだが、生憎それらしいものは見つからない。
その時、エリクが無造作に手を伸ばすと口の中で小さく詠唱した。途端に光が一度消え、より明るい光がつきなおす。
「……す、ごい。どうやったの?」
「だから魔法。魔法士なら初歩の初歩だ」
「他に何が出来るの?」
「人のことより自分のこと」
的確な注意を受けて雫は口をとがらす。
折角生まれて初めて魔法を見たのだ。もっと見たいと気になるのは仕方ないだろう。
だがエリクはもう何もする気はないようだった。手元にあった厚い本を雫の目の前に差し出してくる。
「ほら、ここの話だ。約240年ほど前、ヤルダという国でおかしな事件が頻発した。
限られた範囲内の空間のみだが、まったく違う場所や時間が現出する。
幻ではなく実体を伴ったもので、現出したものは物だけではなく生物もだった。死者も出ている。146人」
「な、なるほど?」
そう説明されても雫にはどこがどうおかしいのか分からない。
魔法自体が彼女にとってはおかしなことなのだ。どこまでがこの世界の常識でどこからが違うのか判断がつかなかった。
エリクは挙動不審な女の様子に補足の必要を感じたのか最初から付け足すつもりだったのか、説明を続ける。
「先に言っておくと魔法にも法則がある。法則外のことはどれほど強い魔法士でも不可能だ。
で、この事件はその法則に反している」
「単に発見されていない法則ってわけじゃなくて?」
「違う。魔法は無から有を作ることは出来ないんだ。
手元に物を転移させたり、自然の成分を呼んだり作り変えて炎や氷を作ることはできるけれど……
例えば何もないところから林檎を作ったりは出来ない」
「うーん? つまりシルクハットからウサギを出したりはできないわけですか」
「何それ」
どうにもエリクの性格のせいか共通常識がないせいか、話が上手く転がらない。
なら雫も余計な合いの手を入れなければいいのだが、黙っているのも息苦しいのでつい口を挟んでしまうのだ。
彼は白い目で彼女を一瞥しただけで、話題を戻した。
「もう一つ、魔法では時間遡行が出来ない。他にも色々あるが、この二つの点でヤルダの事件は異常だとされている」
「過去にタイムスリップはできないってことですね……その事件では出来た人がいたの?」
何だかさっぱり飲み込めない。もっと具体例を上げて話して欲しいと雫が思った時、エリクは本を指でなぞりながら読み上げた。
「……この日、カドス砦周辺に突然軍隊が現れた。
おおよそ15万人ほどの軍勢はまるで今までずっと戦い続けていたかのように二軍に分かれて争い始めた。
砦もまた攻められ応戦したが、彼らは確かに存在する人間であったと魔法士も含め複数の証言がされている。
百人を越える死者を出した突然の戦争はしかし、彼らが現れてから三時間程が経過した時、急に終わりを迎えた。
彼らは現れた時と同様何の痕跡も残さず消え去ったのだ。ただカドス砦周辺には彼らとの戦いで戦死したヤルダ兵の死体が残るのみである。
皆が困惑する中、カドス砦に駐留していた一人の老兵、旧の大国タァイーリから亡命してきた人間が証言した。
あの軍勢、あの戦いは、自分が10年前に経験したタァイーリとメディアルの興亡をかけた戦いの光景とまったく同じであったと」
「ミ、ミステリー……?」
ビクビクする雫にエリクは軽く頷く。今度は別の箇所を指差した。
「他にも一連の事件について研究を行った当時のファルサスの魔法士が出した仮定は、
限定された空間内に人の過去の記憶を現実のものとして存在させる何らかの力が働いたのではないかと、結論づけている」
「すみません、分かりやすく言ってください」
「つまり、人の記憶が現実になるんだ。例えば君が鍵だったら、君が昨日パン屋で働いていた、その光景が突然ここに現れる。
パン屋の建物も客も勿論君も、現実のものとして」
「何それ! ミステリーすぎる!」
理解は出来たが怪奇事件そのものだ。
そういえば元の世界にも未だに原因が分からない不思議な事件がいくつもある。雫は何となくそれらを思い出していた。
ようやく腑に落ちた彼女はしかし、納得すると同時に首を傾げた。
「それが私とどう関係するの?」
「……このカドス砦の件、実は行方不明者が出ている。砦を離れ敵軍の中に切り込んでいた将軍と兵53人、魔法士5人だ。
彼らは一週間後、タァイーリとメディアルが本当に戦った平野、つまり遠く離れた過去の本当の戦場で発見された。
魔法士たちは転移の構成などは何も働いていなかったと証言している。気がついたらその場所にいたのだと」
「あー……私と、似てます、ね」
「大陸内での移動だからまったく同じではないが、解明できない移動という点では一緒だな。
だからこの件をつきつめて調べれば何か糸口があるかもしれない」
エリクはそこで言葉を切るとじっと雫を見つめた。
彼女は思わず息を呑む。
急に自分の手の中に抱えきれないほどの謎を乗せられた、そんな気がしていた。
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