禁転載
エリクが選んだ宿は町の西にある小さいが手入れが行き届いた感じのよい宿だった。
一人用の部屋を隣り合わせで二つ取ると、彼は「ここにいて」と行ってすぐ出かけていく。
30分程で帰って来た彼は若草色のスカーフを手にしていた。それを雫に渡してくる。
「髪を覆った方がいい。君のそれは少し目立つ」
「髪? 色が?」
雫は自分の髪に手を差し入れる。染めてはいない茶色がかった黒髪。日本人としてはごく一般的な髪色だ。
これがそれ程目立つものなのだろうか。ワノープではただシセアをはじめ何人かの女性に「綺麗な髪だねぇ」と言われただけである。
しかしエリクは首を振って彼女の疑問を否定した。
「色はそうでもない。髪と目、両方黒の人間は珍しいが全くいないわけじゃないからな。
それより長さ。こっちの世界では普通女性の髪は長いんだ」
「え?」
言われて雫は今まで出会った女性たちを思い浮かべる。
そう言えば髪をまとめあげていた人が多かったから気づかなかった。が、長いと言われれば長かった気もした。
彼女は自分の肩につくくらいのセミロングの髪に指を通す。
「気づかなくて悪かった。君は顔立ちも変わってるし、何人か通りすがりに君を見ている人間がいたんだ。
ワノープの町の人間は皆、君がどこか遠くから来たと知っていたから思っても何も言わなかったんだろう」
「し、知らなかった。ありがとう」
彼女は髪ゴムで簡単に髪をまとめるとその上からスカーフをかぶった。
顎の下で縛って、部屋に鏡はなく確認できないが多分おとぎ話に出てくる女の子みたいになっただろう。エリクはそれを見て頷く。
「申請書類はもう出してきた。どこか外に行きたいなら付き合うよ」
「外……」
ついさっき通ってきた人通りの多いにぎやかな町を彼女は思い出す。
3日もあるのだ。確かに興味はあった。
「じゃあ、お願いしていいですか。町を一回りして感じを掴みたいです。道を覚えれば一人でも行き来できますし」
「そう言うと思った。この町の地図も貰ってきた」
藁半紙に似た紙をエリクは差し出してくる。礼を言って受け取ると町は大体円状になっていた。
中央にある大きな建物から放射状に大通りが広がっている。エリクが書き込んだのか、二人がいる宿の部分には丸がついていた。
「これ真ん中の建物は何なんですか?」
「転移陣の管理局。イルマスはタリス西部の転移網の要所なんだ。だから色んな人間が集まってくる」
「ああ、この辺の玄関口なんですね」
「そう。その分揉め事も多いと言えば多いから気をつけて」
雫は大きく頷く。ただでさえ異世界だ。危ないことは避けて通りたい。それでエリクに迷惑をかけるのも嫌だった。
ふと彼女は部屋に一つだけある窓を見やる。
藍を水で薄めたような薄青さを湛える空はどこまで続いているのか、見当もつかなかった。
反時計回りにイルマスを1時間かけて半周した二人は、ちょうど中心をはさんで宿と反対側にある広場でひとまずの休憩をとることになった。
ここまで歩いてきたわかったことだが、人通りが激しいのは放射状に広がる大通りだけで、それらを結ぶ横の通路はそれ程混雑しているわけでもない。
もっと時間がかかるかと思った雫は安心したが、代わりに途中の道には露店などはほとんど出ていなかった。
広場にあった露店でクレープに似た菓子を買った彼女は、何だか分からない果物を挟んだいまいち甘みの足りないそれを食べながら地図を指でなぞる。
「ここをこうして来た訳ですね」
「あたり。君、結構方向感覚いいね」
「18年間一度も迷子になったことはありません」
それだけは彼女は胸を張って言える。雫は天性のものなのか方向感覚が優れているのだ。
知らない道でも大体の方角を選んで目的地に到達する事が出来る。修学旅行の自由時間などでは彼女の班はどれほど細いわき道に入り込んでも、別の近道を通って
集合地点に戻って来るので、話を聞いた教師たちが驚いたほどだ。
雫は持ってきたバッグからシャープペンを出すと地図にいくつか気になる店を書き込んだ。エリクはそれを面白そうに眺める。
「エリクはこの町に来たことがあるんですか? 随分詳しいけれど」
「あるよ。昔ファルサスに行った事がある。その時に通った」
「あるんですか!?」
「なきゃ案内するの大変だよ。あそこ広いから」
当然のように言ってのける男に、雫は大きな目を瞠ってテーブルの上に半ば乗り出す。
「どんな国でした? 人が空を飛んでたり、ドラゴンがうろうろしてたり?」
「……それが君のファルサスの想像? やだよ、そんな国」
エリクは呆れた顔を隠そうともせず溜息をつく。
そんなことを言われても魔法大国など上手く想像できない。雫は頬を膨らませた。
「じゃあ教えてくださいよ。気になるじゃないですか」
「いくらファルサスと言っても飛べる魔法士もそう多くはないし、普段から飛んでる人間なんか皆無だ。
ドラゴンはそもそも人里にはいない。僕も実物は見たことない」
「え。私見たことありますよ」
「本当!? どこで!」
先程までの呆れ顔はどこへやら、途端に彼は驚きに目を丸くする。
興味があるのだろう。エリクは日本語の文字について聞いた時と同じ、どこか少年のような表情をしていた。
雫はこみあげてくる笑いを堪えて教えてやる。
「はじめてこの世界に来た時に、砂漠で。遠目だったけど大きさから言って多分そうじゃないかな」
「スイト砂漠か……凄いな。南の山脈にはまだいるらしいけど、砂漠になんて普通いないよ。僕も見たかった」
自然と声に熱がこもっていた彼は、しかし雫の視線に気づくと我に返る。少しばつの悪い顔で椅子の背もたれによりかかった。
「ファルサスはね、活気のある国だな。文化の水準も高い。民も富んでいて魔法がよく浸透している」
「日常的に魔法が使われているんですか?」
「そうだね。例えば君はパン屋で働いていたけど、釜の調節なんかをファルサスは魔法で自動化している。
城都では街の中を移動する為の転移陣がいくつも設置されているし、他にも魔法を込めた魔法具が当然の生活用品になっている」
「わぁ、おもしろそう」
素直な感嘆の声。
だがエリクは無邪気に顔を明るくする雫とは対照的に芳しい表情をしなかった。
苦さが見える整った男の顔に彼女は少し不安になる。
「何か不味い国なんですか?」
「うーん……これは君に言っていいことがどうか分からないけどね。
―――― 僕はファルサスは怖い国だと思っている」
「怖い国?」
それはいまいち雫には理解できない言葉だった。
魔法士である彼が魔法大国を何故「怖い」と言うのだろう。彼女の疑問を当然と思ったのかエリクは藍色の瞳を伏せて笑う。
「ファルサスは4つの大国の中でも突出した力を持った国だ。そしてそれは魔法大国であるという為だけではない。
もともとファルサスはね、武力の国だったんだよ。魔法大国となったのはここ100年のことだ」
「100年……」
それが国を変えるのに決して短い期間ではないと、戦後の高度経済成長を経た国に生まれた雫は知っている。
神妙な表情になった彼女に男は微笑というには棘のある表情を見せた。
「今のファルサスは武力と魔力の両方を兼ね備えていて、比肩する国がない。ここ数百年小競り合いを含めてもあの国に勝てた国はないんだ。
でも僕が怖いと思うのはそれだけじゃなくて、そんな国の決定権が王一人にあることだ。
あの国の王はただの王じゃない。魔法士を殺すことに特化した人間が代々王を務めている。
だからもし……王が狂ったとしても、それを止めることは周囲の人間には困難だ。
現に60年ほど前にそれで他国が一つ滅ぼされ、ファルサス内には王族同士の争いが起きている。
ファルサスはそういう……個人の性格に頼る危うさを持った国なんだよ」
雫はすぐには何も言えなかった。
彼女は王制には馴染みがない。だが彼の言わんとするところは分かる。
ファルサスという魔法大国、強大な力を持つ国をどう動かすかは全て王の意思のままに左右されることなのだ。
人は人である以上完全ではいられない。
もし、王自身が強力な力を持ち、意見する他者を退けられるなら、そしてその王が道を誤るのなら、その時国の歯車は狂いだすのだろう。
重い唾を飲み込む雫に、エリクは少しの申し訳なさを漂わせて微笑した。
「まぁ君はそれ程怖がる必要はない。今のファルサス王は比較的寛大な王だと有名だからね。
あくまで僕の意見だ。先入観を与えてしまったならすまない」
「いえ、ありがとうございます」
聞かなければよかったとは彼女は思わない。
エリクがそういうのなら、それもまたファルサスの一面なのだろう。
人も国もまるで複雑な多面体だ。どの面を見るか、どの距離から見るかで全く異なってくる。
そして、彼女自身の前にファルサスは一体どんな姿を以って現れるのかはまだ分からないのだ。
雫は70%の不安と20%の期待、そして残りよく分からない10%を抱いて目を閉じる。
穏やかな陽光が沈黙する二人に変わらぬ光を注いでいた。
残り半周、帰りは地図を手に雫が道を選ぶことになった。
蛇行するように角を曲がりながら、雫は時折小さな店に入ってみる。
何だか分からないものから元の世界でも見覚えがあるものまで、聞けばエリクが教えてくれた。
「ここは魔法具の店。そう強力なものはないが、あまり触らない方がいい」
「まじっくあいてむ! 胸躍る響きですね」
「いや全然」
冷水というほどではないが、水をさす彼の突っ込みにもそろそろ慣れてきた。
雫はまったくへこたれず狭く薄暗い店内をきょろきょろと見回す。
どこかアンティークショップに似た雑然さ。ところ狭しと置かれたアクセサリーや武器に目が引かれた。
エリクはエリクで時折彼女の挙動を確認しながら自分は陳列棚を眺めている。
店の中央のテーブルの上、深い紅色の布に並べられた指輪の一つを雫はどうしても手にとってみたくなった。
複雑な銀細工の指輪。中心には小さな青い宝石が嵌められている。彼女は間近で美しい指輪をじっと見つめた。
振り返り彼に尋ねる。
「これ触っていいですか?」
「どれ? ……ああ守護の指輪か。平気だよ。でもそれよりこれ」
言いながら彼は棒状の物を差し出してくる。雫は怪訝に思いながらもそれを受け取った。
皮の鞘につつまれた先から鈍い銀色の持ち柄が出ている。
恐る恐る抜いてみると、それは刃渡り30センチ程の短剣だった。雫は思わず息を止める。
「何ですか、これ」
「買ってあげるから持って行くといい」
「何で。要りません。私、刃物なんて」
それは人を傷つける為のものだ。雫のいた小さな世界では不要とされるもの。
彼女は出来れば武器を手に取りたくなかった。出発の時もシセアに聞かれたが要らないと言って笑ってきたのだ。
なぜなら、もし武器を手にとれば、そしてそれで人を傷つけることを考えてしまえば、まだ作りかけの柔らかい自分が変質してしまうような気がしていたからだ。
自分はこの世界にあっても言葉が通じる。人と話が出来る。
ならば言葉を使えばいいのだ。力を以って人と相対する必要などない。
徒に刃物を振りかざす人間は好きではない。それで人が言うことを聞くと思っている人間も。
だから彼女は自分がそうはなりたくなかった。唇をきゅっと結んでエリクを見据える。
彼は雫の拒絶に少し驚いたようだったが、彼女がつき返している短剣を受け取ろうとはしなかった。
「君がどういう世界から来たのか、僕はよく知らない。
だけどね、もし君がどうしても元の世界に帰りたいのだと、そう思うのなら持って行くんだ。
この世界の人間は決して優しい人間ばかりではない」
「優しくなければ武器を向けてもいいというんですか?」
「彼らが先に君に武器を向けたらどうする。僕は無抵抗を美徳と思わない」
「美徳だとは思っていません。ただ嫌なんです。人を傷つける可能性を当然と思ってしまうのが……」
雫はそのまま沈黙する。
自分の中でも何だかもやもやと形にならない。
甘えているのかもしれないし、覚悟が足りないのかもしれない。
けれど彼女はまだ、そこを踏み越えることができなかった。そして踏み越えていいとも思えなかったのだ。
人の為に自分が犠牲になってもいいと思っているわけではない。多分不当に殴られたなら殴り返すくらいのことはするだろう。
ただそれと、刃物とは違う。
一度武器を持てば、逆に自分の為に人を犠牲にしようと思ってしまうのではないか。
その欲求を避けられるのか、暴力に触れた事のない彼女には自信がなかった。
頑なに短剣を差し出しままの彼女をエリクは静かな目で見つめる。
怒っているのかいないのか分からない目を雫は微動だにせず見返した。
ややあって彼は腕を伸ばすと、短剣に手を添える。
「……剣は武器であるが、武器は道具だ。そして人間は道具を統御し使うことが出来る生き物だ。
そこを履き違える人間はままいるが、君はそうならないんじゃないかと僕は思っている。
―――― けどまぁ嫌ならいい。代わりに僕が持っているよ。必要になったら言って」
「なりたくないと、思っています」
「どうだろう。果物の皮を剥きたくなる時がくるかもしれない」
雫は意表を突かれて目を丸くする。だが既に彼女に背を向けたエリクは受け取った短剣を店の主人に差し出すと代価を払うところだった。
何と言っていいのか分からない。どんな顔をすればいいのだろう。
だが振り返った彼はいつも通り少しだけ笑うと、「帰ろうか」と優しく声をかけてきてくれた。
雫は頷く。
まるで自分がずっと昔、幼い子供だった頃に戻ったような、そんな気がした。
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