転がる水滴 007

禁転載

宿の部屋には窓が一つしかない。
雫は深呼吸をする為、その窓を押し開けて外に顔を出した。息を深く吸いながら辺りを見回す。
時間はまだ朝と言っていい時間だ。遥か遠くにちらっと見える大通りも人気はあまり多くはなかった。
幼い子供の笑い声が聞こえて、彼女は遠くを見ていた視線を宿のすぐ近くへと移動させる。
ちょうど建物の裏にあたる路地では兄弟なのか二人の子供が遊んでいた。
上の子の方は5-6歳だろうか。 下の子は身長や歩き方から言って2歳くらいに見える。
彼らは細い道の真ん中にしゃがみこむと地面に何かを描いて遊び始めた。
兄が絵を描いては弟がそれを指して「花」や「うさぎ」など意気揚々と答える。実に微笑ましい光景だ。
雫はふと思い立つと身支度をする。念のためエリクの部屋のドアに置手紙をはさむと、そのまま彼女は外に出て行った。

イルマスについてから二日目の朝は、澄み切った空気の中、白い日の光が道に差し込みつつあった。
髪をスカーフで覆った雫は宿を出ると迷いなくその裏に回る。2度角を曲がり、路地裏にしゃがみこんでいる幼い兄弟に声をかけた。
「おはよう」
兄の方は突然現れた女に少し警戒した顔を見せたが、彼女がにっこり笑って目線を低くすると「おはよう」と返してくる。弟もそれにならった。
雫は彼らが座っている地面を覗き込む。路地の上に薄く積もった砂には石で絵が描かれていた。
「お絵かき? 私もまぜて」
「いいけど、お姉ちゃん、よその人? 怖い?」
母親に余所者と遊ぶなと言われているのかもしれない。家の近くといってもあまり治安がよくない町がゆえだろう。
若干用心したような子供に雫は笑顔で手を横に振った。
「怖くないよー。一緒に遊ぼう。お姉ちゃん、絵上手いよ」
言いながら石を取って絵を描き始めると、二人は食い入るようにそれを見つめた。
出来上がりかけたところで下の子が「ねこ!」と叫ぶ。
「あたり。じゃあ―――― これは何かな」
「きつね!」
「うんうん。これは?」
「しか!」
「ヤギだよ」
デフォルメ絵が得意でよくノートの隅などに小さな絵を書いている雫は、いわゆる子供に人気なキャラクターものもいくつか描けるのだが、それは通じないだろうと 思って主に動物の絵を描いていった。
上の子は当然ながら、そして下の子も言葉が早い子供らしく、特徴を捉えた絵は次々とあてられていく。
だが30分もそんな遊びをしていると、色々面白い事が分かってきた。
彼らはどうやら「しまうま」や「キリン」を知らないようなのだ。なら象やライオンはどうかと思うと、それは知っている。
まだ子供である二人が知らないだけという可能性もあるが、或いは雫の世界とは生態系が微妙に異なっているのかもしれない。
覚えていたら後でエリクに聞いてみよう、そう頭の中のメモに書き込んだ時、ふと3人で囲んでいる地面の上の日が翳った。
雫は何気なく空を見上げる。白い雲が水色の上空を流れていた。太陽は遮られていない。少なくとも雲によっては。
彼女は何が影を作っているのか気づくとぎょっとして立ち上がった。
反射的に子供たちを庇いながら振り返る。
そこには長身の、よく鍛えられた体を持つ男が面白がっているような表情で3人を眺めていた。

「ど、どちらさまですか」
思わず声に緊張が滲んでしまったのは、エリクに揉め事が多い町だと注意を受けていた為でもあり、また何より相手の男が剣を帯びていた為である。
彼は雫を頭の上から足の先まで眺めると曖昧な笑顔を浮かべた。
「何歳? 14-5?」
「……18です」
これは人種差というものだろうか。雫は警戒も忘れ、むすっとした顔になった。男は少し驚いたようだったが、すぐに笑い出す。
「そっかそっか。悪いな。滅多に見ない顔してたから。お嬢さんはどこの国の出身?」
不味い。
雫は一瞬言葉に詰まった。
異世界から来たなどと誰にでも言えるはずがない。ましてや初対面の怪しい男なら尚更だ。
だが嘘をつくとしても雫はこの世界の国名などほとんど知らないし、その中から選んだとしても自分の顔立ちで嘘が通るとは思えなかった。
迷った末、しかし沈黙しすぎて怪しまれないよう彼女は口を開く。
「東の国から」
「東? 東の大陸?」
「もっとずっと東の……島国です」
「へぇ。遠くからよく来たな」
何とか誤魔化せただろうか、と疑いながらも雫は頷いた。背後にいる子供たちも立ち上がり、不安そうに彼女を見上げている。
雫は顔半分だけ振り返ると彼らに「楽しかったよ。またね」と帰ることを促した。弟の方の肩を軽く押し、兄に寄せる。
二人はどこか釈然としていない顔をしていたが、結局軽く手を振ると「またね」と近くの家の戸口に吸い込まれていった。
「何だ。姉弟じゃなかったのか」
「違います。どう見てもあの子たち、町の子じゃないですか」
「そうだな。顔立ちが違う」
男は言うと同時に手を伸ばしてきた。
勿論雫は彼の一連の動作を目にしていたのだが、何の反応も出来ない。
よく分からない事態に緊張して身が竦んでいたというのもあるが、それ以上に男の動きは速く、隙がなかった。
顎を捕まれ上を向かされる。生まれて初めて味わう男のぞんざいな力に雫は怒りと恐怖が混濁した表情になった。
緑の瞳の精悍な顔立ちの男は、いささか不躾に彼女の顔を見つめる。
「少し日に焼けてる。惜しい。本当はもっと肌が白そうだな」
確かに彼女の顔は大分、日に焼けてしまっていた。
最低限の日焼け止めしか塗っていない状況で一日目から砂漠に放り出されたのだから無理もない。
だがそれにしても、男の言葉は彼女の中の怒りと恐怖の比率を変えるに充分な、失礼なものだった。
雫は唇の両端を上げて笑う。口元だけで。
「初対面の人間に日焼けをどうこう言われる筋合いはないので、とっとと離して下さい」
男は目を丸くする。
まさか子供に見える彼女が喧嘩腰に切り返してくるとは思っていなかったのだろう。緑色の瞳に興味が弾けた。
彼はそれでも手を離さないまま皮肉に笑ってみせる。
「あいにく初対面じゃない。覚えていないか?」
「まったく。全然」
きっぱり否定しながらも雫は一応記憶を探ってみた。が、本当に覚えがない。
多くの人と顔を合わせたのはパン屋で働いていた時のことだが、あの時は客の顔を覚えようと必死だったのだ。
こんな目立つ男と会っていたなら忘れるはずがない。
一向に離す気がないらしき男の手に雫は自分の両手をかける。だがそれ程力を込めているようは見えないのに彼の手はぴくりとも動かなかった。
再び彼女の中に恐れが湧き上がってくる。
このまま顎ではなく首を捻り潰されてしまうのではないか、そんな錯覚を雫は抱いた。
だがそう蒼ざめた時、男はようやく手を離す。雫は慌てて数歩下がり距離を取ると解放された箇所を触って確かめた。
彼はそんな彼女の様子を検分するかのように眺める。
「確かにお前はあの魔法士しか見てなかったな。としてもまったく俺が目に入っていなかったとは思わなかった」
「キャッチセールスならお断りです。手相も勘弁」
「何だそれは」
雫は徐々に後ずさりながらわき道を確認する。
きっと大丈夫だ。この男が立ちふさがっている、来た道を通らなくても宿には帰れる。
しかしそれは彼女の足でこの男を振り切れなければ不可能なことでもあった。
だから武器を持っていればよかったんじゃないの? と頭の中で誰かが囁く。けれど彼女はそれを否定した。
まだ何とでもなる。男が本当に彼女をどうにかするつもりなら悲鳴をあげたっていいのだ。
警戒心をむき出しにした雫に、彼は広い肩をわざとらしく竦めて見せた。
「そう嫌がるな。いい話がある。お前、俺とファルサスに行かないか?」
「……は?」
「行きたいんだろう? いい伝手がある。直通でファルサスに門を開ける魔法士を知ってる」
「何で私がファルサスに行くって知ってるんです?」
「そう話していたからだ」
こいつはストーカーかもしれない。雫はその可能性に思い当たった。
彼女にスカーフをくれた時、エリクは何人かが彼女の変わった顔立ちに目を留めていたと言っていたのだ。
この男はその一人で、彼らの話を盗み聞いていたのかもしれない。
雫はまた一歩、後ろに下がった。
「何でだからって私を誘うんです? 一人で行けばいいじゃないですか」
「女の子が困ってるなら助けるのはそう不自然じゃない、とは思わないか?」
「今、困ってますので放っておいてください」
にべもない言葉に男は笑う。
「結構気が強いな。 名前は? あの魔法士はお前の名を一度も呼ばなかった」
男は徐々に離れていく雫に気づいていないはずがないが、開いていく距離を埋めようとはしない。
それとも多少のハンデがあっても簡単に彼女を捕まえられると思っているのだろうか。
「名前を知らない人に名乗る名前はありません」
「ああ。俺はターキスという。で、お前は?」
「私は―――― 」
雫はそこで言葉を切った。身を翻してわき道に飛び込む。後ろを振り返らぬままスピードを上げ、でたらめに角を曲がった。
急に走り出したので呼吸が喉をつきやぶりそうだ。それ以上に鼓動が速い。しかし彼女はもつれそうになる足を止めなかった。
あの男が追いかけてきているかは分からない。確認しようとして速度を落としたくはない。
ただひたすら全力で走って、曲がって、そうして元の場所から遠く離れた場所で、ようやく足を緩めた彼女は振り返る。
人通りが増え始めた路地の途中。雫の背後には誰も追って来ている人間はいなかった。

エリクは宿の1階にある休憩所でなにやら書類を読んでいるようだった。
人の気配に気づくと彼は顔をあげ、雫を手招きする。
「ようやく戻ってきたな。もう少し遅かったら探しに行こうかと思ってた」
「ごめんなさい。ちょっと運動してて」
「君は変なところで健康的だな。それより問題が発生した。緊急事態だ」
「問題?」
首を傾げる雫にエリクは持っていた紙を差し出してくる。彼女は受け取ったものの文だけの書類は何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。
エリクの声が紙の上を滑る。
「これから行こうと思っていた国……アンネリが攻め落とされた。
 戦争の余波で出国の転移陣は全て封鎖される」
雫は呆然として彼の言葉を反芻する。
彼女がその意味を理解するには、もうあと数十秒が必要だった。