失われた王妃 010

禁転載

ネビス湖はタリスとカンデラの国境となる山々を越えた先、カンデラ側の山麓に広がる青い湖である。
山あいに沿って緩く曲線を描く湖には1000年を遥かに越える昔、一人の水神がいたという。
近くにある三つの村は水神を祀り、彼の加護を得て日々を穏やかに暮らしていた。
といっても水神は人に干渉をするのではなく、ただ湖を恙無く護る。人間はその恩恵を間接的に得ていたに過ぎない。
まるで時が止まったかのように安穏とした生活はしかし、大陸が暗黒期に入るにあたって急激な変化を迎えた。
三つの村のうち二つが山を越えてきた隣国の支配下に置かれ、その間に軍の宿営地が築かれることになったのだ。
今ではもう国名も伝わっていないその軍は、当然のように湖に水や魚を求め、長年の間水神と村人たちの間にあった暗黙の境界を踏み越えて水場を荒らした。
そしてそれ故に水神の怒りを買い、一夜にして多くの兵士が湖に引きずり込まれ軍の半数が溺死したのである。
「当時、軍を率いていた王子は事態を重く見て宿営地を引き払おうとした。
 けれどそこに水神はある要求をつきつけたんだ」
「謝罪を求めたんですか?」
「謝罪と言えば謝罪かな」
エリクは少しだけ苦笑混じりの声で答える。
だがそれでも充分穏やかな声は夜気に染み入るように心地よく聞こえた。
「水神はね、王子が連れていた妹……王女を詫びとして差し出すように言ったんだよ。
 さもなければ軍の残りの半分も殺してしまうとね」
「うわぁ。人身御供だ」
雫は日本神話の弟橘姫を思い出す。
あの話では女性は妹ではなくヤマトタケルの妃であったが、海神の怒りを買った男の為に入水したという点では一緒だ。
自然と胸を痛める雫をよそに話は続く。
「王子はそれを躊躇った。けど王女は国の為に犠牲になるのも自分の義務と考えて水神のところに向かったんだね。
 結果として―――― 水神は彼女を殺さなかった。彼女を妻として迎えたんだよ」
「異類婚姻譚ですか」
「そう。ただ話はこれで終わりじゃない。残り半分の軍を国に帰した王子は妹を救う為に、少数の供と共に水神のところに向かった。
 そして苦闘の末に水神を殺すと幸せに暮らしていた妹を連れて帰る。ただ水神を失って湖は以後魚の棲めぬ湖になってしまった。
 ……というお話だよ。めでたしめでたし」
「ちょっと待ってください! あんまりめでたくなくない!?」
何だか「幸せに暮らしていた」とか聞こえた気がした。だとしたら兄の行いは王女にとっては裏目に出たのではないか。
雫の疑問にエリクは目を閉じたまま頷いた。
「うん。そもそも水神が王女を要求したのも彼女に恋をしたからだという話だ。
 それを知った彼女は水神を愛するようになったんだな。だからこの話は悲恋の話として大陸に広まっている」
「……そこを省いたら全然話が違っちゃうじゃないですか」
おまけに湖に魚が棲めなくなったのなら、まったくめでたくない。雫は憮然として口をとがらせた。
しかしエリクは平然と続ける。
「でもまぁ無難な話じゃない? どちらに問題があったかは分からないが水神は軍の半数を殺しているわけだ。
 そこを好きな女性と結婚して幸せに暮らした、では話の収まりが悪い。女性が殺した人間の国の王族なら尚更」
「そ、そうかもしれませんけど」
何だか誰も幸福になれない、釈然としない話に雫は眉根を寄せる。だが彼女はふとあることを思い出して聞き返した。
「それのどこが魔族のお話なんですか?」
「だから、水神が魔族なんだよ。上位魔族。
 この世界には神と呼ばれる存在は厳密には実在を確認されていないし、人によってはいないと思われている。
 暗黒期なんかには地方に実在し信仰されていた神々もいるけど、それらは皆上位魔族だ」
「わぁ……なるほど」
少し驚きはしたが雫はそれ程意外には思わない。
もとの世界で悪魔とされる存在の中にも、一神教によって否定された旧来の神が混ざっていると知っていたからだ。
この世界においても強力な力を持つ存在は人にとって善悪紙一重ということだろう。
「ただ元々上位魔族は人間には興味がないからね。こうして伝わる話もそう多くはない。
 人間界に現存している上位魔族は……もうファルサスの精霊くらいしかいないね」
「ファルサス!? に魔族がいるんですか?」
目的地である魔法大国の名に雫は思わず飛び起きそうになる。
ドラゴンがうろうろしているわけではないそうだが、神と言われるくらいの魔族はいるらしい。
怖いような興味があるような不思議な気分に彼女はなった。
「いるよ。昔魔女が連れて来た。今は代々王族の魔法士に使役されてる」
「魔女……」
また、魔女だ。
元の世界に帰る手がかりになるかもしれない事件。それに関わっていたかもしれない魔女。
「かもしれない」の謎ばかりが積み重なる話に彼女は自然と息を深く吐く。
いつか読んだ推理小説のように、全ての謎が明かされ元の世界に戻れる日は来るのだろうか。
家族も友達も知らないこの旅の終わりはどこにあるのだろう。
訪れた静寂にエリクは小さく苦笑したようだった。彼の表情は見ていないがそんな気がする。
優しい声が彼女の耳に響いた。
「ファルサスの王と魔女の話はまた別の御伽噺だ。気になるなら今度話すよ。今日はもうお休み」
男の言葉に雫は頷く。「ありがとう」と呟く。
そして彼女は降り注ぐような星の下、疲れ果てた体を抱えて眠りについた。

その晩雫は不思議な夢を見た。
がらんとした広い空間、壁のない白い床だけが続く空間に彼女は立っている。
目の前には一つ机が置かれていて、それも白い。
机の上には三冊の大きな本が乗っていた。その内の一冊、紺色のカバーの本に雫はそっと手を伸ばし触れてみる。
紙ではない。皮でできているのだろうか。滑らかな手触りは不思議とひんやりとしていた。
表紙を縁取る銀の装飾を指でなぞると雫は本を開く。
少し黄色がかったページに書かれていた文字は見覚えのないものであった。
日本語でもアルファベットでもない、見たことのない文字。強いて言えばアルファベットの筆記体に似ている気もする。
だが彼女はそれをすらすらと読む事が出来た。立ったまま紙に指を伸ばし横書きの文章をなぞっていく。
「……レイリアは湖底の城に到着した時、己が死を予感していた。
 けれどそれに勝るのは王女としての矜持と決意である。
 彼女は自国の兵の為に命を捧げるのだと、それだけを繰り返し自らに言い聞かせた。
 王女が歩みし長い廊下の果て、ついに扉が開く。
 そこに水の神と呼ばれる男は待っていた。自らが望んだ花嫁を迎えるために……」
どこかで聞いたような話だ。
それは、聞いたばかりのようにも、もっとずっと初めから知っていたかのようにも思える。
だが何故その話に既視感を覚えるのか彼女は思い出せない。
雫はただその本を読んでいく。
不思議な紺色の本は、捲っても捲ってもちっともページが進まないように思えた。

翌日、日が昇り明るくなってから二人は出発した。
人はほとんど通らないという山道はしかし、幸いなことに緩やかにくねる道が出来ている。
二人はのんびり馬を歩かせ、道が細く険しい部分は下りて手綱を引きながら山を登っていった。
雫は小学生の頃、遠足で山を登ったことを思い出す。
あの時は途中までバスで行き、峠を越えただけにも拘らずひどく疲れた。多分体力がまだあまりない年齢だったからだろう。
今も息が上がっていると言えば上がっているが、せいぜいジョギングくらいだ。
それも度を過ぎそうになるとエリクがすぐに気づいて休憩を入れてくれるので、今のところ不安はない。
振り返ると二人はいつの間にか、随分高いところまで上ってきていた。遥か下の山の麓から昨日通ってきた街道が地平の向こうまで伸びているのが見える。
見晴らしのよさに思わず高らかに叫びたくなったが、そんなことをすれば同行者から冷ややかな突っ込みがくることは明らかだったので、雫は黙って歩を進めた。
「順調にいけばあと三時間も歩けば山を下りる。休憩を差し引いても夜にはカンデラの村に着けるかな」
「頑張ります」
彼女はただ一歩一歩前を見据える。石の転がる坂道が今は自分の道らしく思える。
疲労が溜まっていく足を奮い立たせた彼女が、山道の峠に到着したのはそれから二時間弱後のことだった。

「ぜ、絶景ですね。写真撮っていいですか」
「シャシンって? ……ああ、あれか」
雫は頷いて馬の背にくくったバッグから携帯を取り出す。
眼下に広がるのは青い山の連なりとその中を縫うようにして横たわる山よりももっと青い湖。
透明度が高いのだろう。まるでトルコ石のようだ、と彼女は思った。
ずっと切ってあった電源をいれるとディスプレイに明かりが灯る。雫はそれをひどく懐かしい思いで見やった。
何だかもうずっとこういう機械から離れたところで暮らしていたのだ。
彼女に元の世界を思い出させるものはエリクに教えている文字だけで、それは本とノートとペンさえあればできてしまうことである。
携帯カメラを構えて風景をその中に入れた雫は、シャッターボタンに指を置いたまま茫洋と携帯を動かした。何とか湖の全貌を入れようと角度を変える。
―――― 何だか違和感を覚える。
雫は目を凝らしてディスプレイに映る風景を見つめた。
元の世界にいた時は、少し目を引くものを携帯で撮っておくことは普通だった。
後から友達と回し見することも出来るし、気に入ったものは印刷したりパソコンに移して取っておくことができる。
とても便利だし、これなら些細な思いも写真と共に保存できるような気がしていたのだ。
しかし今、彼女は妙な落ち着かなさを覚えてシャッターを切れないでいる。
風景のせいではない。こんな美しい景色は滅多に見れないと思ったからこそ写真を撮ろうと思った。それは間違いない。
ならば何故以前していたように出来ないのか。彼女はディスプレイではなく手の中の機械そのものに目を落とした。
真っ白い四角い機体。異世界に迷い込んだ雫にとって、とても大事な自分の存在を証明する一欠けら。
手に馴染んでいるはずの道具をだが雫はこの時、自分でも不思議なほど異物として認識していた。