禁転載
シャッターを押さないまま携帯を下ろした雫は、隣に立つ男を見た。
彼は広がる湖よりも沈んだ藍の目で彼女を見返す。雫はその色をまた綺麗だな、と思った。
「シャシン終わったの?」
「うーん……何と言うか。適応能力が高いんでしょうか、私」
「図太いとは思う。何、急に」
「ものは言い様だと早く分かってください」
彼女は男の失礼な発言にあっさりと返すと携帯をバッグに戻した。馬の背を撫でながら手綱を軽く引いて笑う。
「よし! 行きましょうか!」
「はいはい」
二人は再び馬上の人となるとゆっくりと山道を下りていった。
実質山が国境とされている為、もうタリス隣国のカンデラに入っているのだが、他には誰の姿もない。
こんな無用心に入国が出来ていいのだろうかとも彼女は思うが、戸籍をしっかり管理していない国もあるくらいだ、その辺りは鷹揚なのだろう。
青い湖に向かって緩やかに蛇行しながら近づいていくことに、雫は子供のように胸が躍るのを感じた。
「泳げるかな。ちょっと楽しみですね」
「泳ぐの?」
「結構得意なんですよ。子供の頃は祖父に河童って呼ばれてたくらい」
「カッパって何」
鬼なら通じたのに河童は通じなかった。ライオンなら通じるのにシマウマは通じないようなものだろうか。
雫は「水の中にいる伝説上の怪物です。手が百本あるのが魅力的」と真っ赤な嘘を教えておいた。手綱をしっかりと握り直す。
トルコ石の湖は日の光の下、神秘的な輝きを見せていた。雫は思わず自然のその色に見惚れる。
「シャシン」は今は要らない。
形として残さずとも、自分はきっとこの景色を忘れないだろうと彼女はこの時確信していたのだ。
ネビス湖の悲恋の御伽噺は大陸中に広まってはいるが、それらは皆少しずつ異なっている。
姫の髪や瞳の色から始まって、水神と王子の勝敗や姫の愛情の有無など、元は一つの話なのだろうが今や様々な差異を含んで枝分かれし人口に膾炙していた。
その中でもエリクが雫に教えたものはもっとも一般的とされる内容だ。
水神は死に、姫は束の間の夫に想いを残しながらも国へと帰る。
湖は以後生き物の棲めぬ場所となり、ただ澄んだ空だけを映し出すという結末。
物悲しさを感じさせる御伽噺は人の心を惹くものなのであろう。この話を元にした本なども何冊か書かれており人気は高かった。
そして今、千年以上昔の物語の舞台に雫は立っている。感嘆の声が冴えた空気に響いた。
「すごい! 澄んでる! 泳いでいいですか!」
「何がいるか分からないから推奨しない」
「河童とか?」
「手が千本あるんだっけ。そんなのどこにもいないよ」
「手の数、十倍になってます」
どこの千手観音だ、と言いたくなったが余計脱線しそうなので彼女は黙った。湖水を覗き込んでいた顔を上げ、数歩後ろに立つエリクの元へと戻る。
緩くカーブしている湖の水際は小さな丸みを帯びた小石でいっぱいだった。澄んだ水は大分先まで湖底が見渡せる。
それ以上遠くの水面は空の色と同じ泣きたいくらいの青だ。神秘的な景色に雫は陳腐な感想の言葉さえ持ち得なかった。
去り難さを如実に表情に出す彼女の額を男は握った指で軽く叩く。
「そろそろ行くよ。湖畔の町に宿を取ろう」
「はーい」
二人は近くの木に繋いでいた馬に乗ると、水際に沿って進んでいく。山から続く一本道は湖の外周を回っているようだった。
平坦になった道は馬も大分歩きやすいようである。上下の揺れも弱くなり雫にとってはありがたかった。
その時ふと、風が背後から彼女の耳をかすめる。
雫は振り返って波紋一つない鏡のような湖を眺めた。
「どうかした?」
「……今何か―――― いえ、何でもないです」
彼女は軽くかぶりを振ると前を向きなおす。
何だか誰かに声をかけられた気がしたのだ。
だがきっと気のせいだろう。ここには彼ら二人以外いないのだし、風の音に違いない。
彼女は一旦頭に巻いていたスカーフを解くと髪を整え巻き直す。
湖に沿って続く道の先に、町の建物の姿が見え始めていた。
ネビス湖の畔にあるコルワの町は、千年以上の昔から名前を変え、所属する国の名を変えながらも変わらず在り続けた珍しい町である。
その起源は件の悲恋話の舞台となった時代、水神を祀っていた三つの村のうち隣国に支配されなかったただ一つの村にまで遡る。
残ったその村は暗黒期、他の二つの村がなくなってまもなく一度場所を移動したのみで、あとは徐々に人を増やして大きくはないが平和な田舎町となった。
二人は町の入り口近くにあった厩舎に馬を預けると、宿を取りに町に入る。
決してこの町は、カンデラの中でも山間部にあり人通りが多い地域ではないのだが、ネビス湖を見に訪れる旅人は後を絶たないらしい。
エリクがいくつかある中から宿を選ぶと、二人はひとまずの休憩を取ることになった。
「ここから更に北西に向かってカンデラの城都を目指す。そこについたら転移陣を使うか、西に伸びる街道を使うか決めよう」
「了解です。城都って遠いんですか?」
「まぁまぁ遠いと思う。僕も行ったことないけど。順調に行って2週間くらいかな」
雫は広げられた大陸地図を指でなぞった。まだ出発して間もないのだから仕方ないが、ほんの少し西に移動しただけでファルサスまではまだまだある。
何だか西遊記を連想するが、妖怪と戦う予定はまったくない。雫は、自分が沙悟浄でエリクが三蔵法師だとしても、
役者が足りないな、などとぼんやり考えた。
テーブルを挟んで向かいに座る男が不審そうに彼女を見やる。
「何、にやにや笑ってるの。何か企んでる?」
「そんなまさか! 何も考えていませんよ。エリクの髪を全部剃ったらどうなるかとか」
「ここに置いて帰っていいかな?」
「すみませんでした。私が悪うございました」
彼はもっともらしく頷いた。何故そんな想像をしていたかは聞く気も起こらないらしい。
雫はなおも綺麗な顔立ちなのだから人種の違いに目を瞑れば三蔵法師が似合いそうなのに、と思ったが、人種の違いが最大のネックだろう。
二人は夕食までをそれぞれの自由時間としてお互いの部屋に戻った。ちょうどお湯が使える時間だというので雫は風呂に入る。
それ程広いわけではないが宿の浴場は彼女一人しかおらず、のんびりと手足を伸ばすことが出来た。
「つ、疲れた……」
それ程体は疲労してはいないと思ってはいるのだが、神経を張っているのか矢張り山登りは堪えたのか、お湯の中で落ち着くと同時に疲れが押し寄せてくる。
吸い込む湯気が肺の中にしっとりと沈殿していくのを感じて雫は深呼吸した。
両肩を順番にもみほぐし、ふくらはぎにも手をやった。少し筋肉が張っているかもしれない。
湿り気を帯びた前髪から水滴がぽたりと落ちた。彼女は髪をかき上げ水面を覗き込む。一瞬ぼんやりと映りこんだ自分の顔に、雫は呟いた。
「……帰りたいな」
この世界では彼女の他にまったく見ない日本人の顔立ち。
以前は家族の誰とも余り似ていないように思えていた容姿に、この時はしかし不思議と家族の顔が重なった。
随分と彼らに会っていない気がする。もともと家を出て暮らし始めていたのだ。最後に家族と共に過ごしたのはゴールデンウィークで、
その時から雫の体感も合わせて既に五ヶ月
近くが経過してしまっていた。今頃皆が自分を探して奔走しているのかもしれないと思うと、何だか泣きたくなる。
今の自分は充分幸運なのだと、恵まれているのだと分かっている。
そうでなければ勝手の分からない世界で、とっくに野垂れ死んでいたり、もっと酷い目に遭っていただろう。
だがそれでも異世界に迷い込むことなく夏休みを過ごしたであろう友人たちや姉妹と比べて、果たして自分は幸運と言えるのだろうか。
何故、自分だけがこんなところで異邦人となっているのだろう。
―――― そんなことを考えかけて慌てて雫は生まれかけた思考を打ち消した。
マイナス思考に囚われることはよくない。自分にとっても、そしてこの旅につきあってくれているエリクにも。
本当にファルサスに到着すれば帰れるのか、不安を抱いていた彼女に彼は言ってくれたのだ。
「……もしあの240年前の不可解な事件の原因をファルサスが知っているなら、それを使って君を帰せるかもしれない。
つまり……君の過去の記憶を現出させればいいんだ。元の世界のね。
それでその中央にいることができれば現象が収まった時、その場所に飛ばされるだろう? 君の世界に」
雫はそれを聞いて、「ああ! なるほど!」と手を叩いた。具体的な帰還の可能性に心から安堵したのだ。
だから、まだ落ち込む時ではない。蹲る必要はない。前を向いて歩いていけるのだ。
もしこの世界に来たのが姉ならば、もっと多くの人に頼り、支えられ、難なくファルサスについたかもしれない。
逆に妹ならば自ら率先して事態を切り回し、最善を見出したような気がする。
ならば自分はどうだろう。
水瀬雫はどうやって現状を乗り越えていくのか。
雫は湯気にけぶる天井を見上げる。伸ばした四肢に血の流れを感じた。
たとえ要領を得なくても、無様に足掻こうとも、諦めないで踏み出し続ければきっとこの旅は自分にとってプラスになる。
いつかは過ぎ去った貴重な思い出の一つとして振り返ることが出来るだろう。そう信じて雫は微笑んだ。
「……大丈夫。私は、私を作ることができる……」
彼女は湯気に溶け入る息を吐き出す。
白い靄の中、一瞬不確定な未来が、輪郭だけ浮かんだ気がした。
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