失われた王妃 016

禁転載

王は上位魔族としては大分変わった性格をしていた。
何しろ人間界の湖底に棲んでいるのだ。この時点で既に異例なことである。
上位魔族は普通人間に興味を持たない。召喚でもされない限り人間界に現出することもないのだ。
にもかかわらず彼は自らの意思で人間界に来て、湖に城を構えた。
そして自然の魔力が濃いため生き物が住めなかった湖を自分の領域として清め、箱庭を作るかのようにそこに水の生き物を放し、周囲の村々に感謝され神として祀られる日々を送っていたのである。
何故そんなことをするのか、メアは主に尋ねたことはない。主のすることに疑問を持つ程の自由意志が彼女にはなかったからだ。
ただ彼女は城での穏やかな暮らしに心地よさを感じていた。好きだったと言ってもいいだろう。
いつまでも続くように思われた時間の果て、しかしある日一人の女性が現れる。
壊れ物のように儚い美しさを持つ彼女は、王にメアを紹介された時「初めまして。これからよろしくお願いいたします」と微笑んだ。
まるで湖と同じ透き通った微笑。
メアはその時初めて、人間とはこんなに綺麗な生き物だったのかと―――― そう思ったのだ。

「貴女様はレイリア様です」
強く断言され雫は困惑した。
だがそうは言われても違うものは違うのだ。
自分はこの世界の人間ですらない。何としても誤解を解いて地上に戻らねばならなかった。
雫はメアから視線をはずさぬまま、再度口を開く。
「私は生まれてから18年しか経ってないんです。でもレイリアって人がいたのは千年以上も前のことなんでしょう?
 人違いです。私は水瀬雫。レイリアという名前ではありません!」
「なら何故、その名を知っておられるのです」
鋭い声音の切り返しに雫は言葉に詰まった。
何故知っているのかと問われても自分でも分からない。ただ知っているだけなのだ。
だがここで押されては自分がレイリアということにされてしまう。彼女は迷ったが婉曲に答えた。
「水神と王女の話は御伽噺として広まってます。私が王女の名前を知っててもおかしくないです」
「違う!」
突然の叫びに雫は目を瞠る。
メアは初めて感情を顕わにして彼女を見上げていた。
怒りか、悲しみか、戸惑いか、それともそれら全てか。渾然とした狂乱が少女の造作に立ち込めている。
雫はインクの染みが白い布の上に落ちるように、危機感が自分の意識に影を落とすのを感じた。
少女の緑の瞳は鮮やかに輝いている。それがもう人のものではないことは明らかだ。
異様な空気が張り詰める広間に少女の声が響く。
「レイリア様の名を他の人間が知るはずがないのです。あの方の名は、隠されてしまったのだから」
逃げたほうがいいのかもしれない、と雫は思う。
だがここは湖底の城だ。どこへ逃げても限界はある。
それに…………何だかメアはひどく不安げな頼りない様子にも見えたのだ。彼女は逡巡を一瞬で押し切ると聞き返す。
「隠されたのは何故?」
「あの方は……王を愛されていた。だから人間に、裏切り者と罵られて……それで…………」
「それで?」
メアは沈黙する。石像のように動かなくなる。
時間と空間までもが凍りついてしまった如き錯覚。
雫が緊張のままゆっくりと息を吐いた時、少女は今までの問答自体がなかったかのように滑らかな動作で頭を下げた。
「お帰りをお待ちしておりました。お妃様。王がお待ちです。さぁ」
「…………メア」
これは悪い夢に似ている。雫は背筋を滑り落ちる悪寒に身を震わせた。
越えても越えてもまた同じところに戻ってくる夢。覚めたくとも覚めない夢。
だがこれは、彼女の夢ではない。
もしかしてこの夢は…………
雫は祭壇を見やる。王は一体どこにいるのか。王ならば彼女が自分の妃ではないと分かるはずだ。
しかし奥には大きな石の祭壇以外は何もない。メアは頭を下げたままだ。彼女は焦りそうになる精神の手綱を引いて辺りを見回した。
何度目かに祭壇を見て、不意に少女の言葉を思い出す。
確か彼女は「妃が王を目覚めさせる日を待っていた」と言っていたのだ。
雫はある疑いを持って祭壇に歩み寄った。
大きな石の祭壇は横にぐるりと一周彫刻が施されており、中央に見覚えのある紋章が刻まれている。よく見るとその下に切れ目の線が入っていた。
雫は自分の推察が正しかったことを知って、途端に心臓の鼓動が早くなる。
つまりこれは祭壇ではなく、大きな石の箱なのだ。そうまるで棺のような……。
棺に入れられ眠っていたのは、眠り姫だったろうか白雪姫だったろうか。
緊張に混濁する思考を抱えて彼女は石の蓋に両手をかけた。力を込めようとした瞬間、背後から伸びてきた腕が手にかけられる。
「いけません!」
体格にそぐわない腕力で雫を引き剥がしたのは、つい一瞬前まで頭を下げていたはずのメアだ。
少女の指は雫の腕にぐいぐいと食い込んでいく。まともな意思の感じられない空虚な貌に、雫は悲鳴を上げそうになった。
「だ、だって王がこの中にいるんでしょう?」
「これは違います。王は……」
「どこにいるんですか?」
「王は…………あの時…………」
メアの指が緩む。雫が慌てて腕を引き抜くと、少女は両手で自分の顔を覆った。判然としない呟きが両手の指の間から零れる。
雫は何が何だかよく分からなかったが、動くならこの隙しかないとも思った。
彼女は再び石の蓋に飛びつく。この中にはおそらく何かがあるのだ。それが解決の糸口になるかもしれない。
精一杯の力を込めて蓋を押す。重い石は少しだけ向こう側にずれた。足に力を込めて踏みとどまるともう一度力を込める。
次の瞬間雫は、自分の体がふわりと宙に浮くような感覚を味わっていた。押していた蓋が急に遠ざかる。
まるでスローモーションのように感じられる時間。
何か見えない力によって自分が跳ね飛ばされているのだということを雫は直感した。
正気を失ったメアの瞳。緑の髪が波打っている。雫の白いドレスの裾が空気を孕んだ。
―――― これは、不味いかもしれない。ちゃんと受身を取れるだろうか。
床に叩きつけられる衝撃に備えて雫は身を硬くする。頭を庇おうと両手を上げようとした。
だが、落下した彼女が実際感じたのは石の床の硬さではなく、もっと弾力のある―――― そして濡れた何かだった。
ぎゅっと目をつぶっていた彼女にさらりと声がかけられる。
「間に合った。大丈夫?」
雫は目を開けた。信じられない思いで背後を見上げる。
床に叩きつけられる彼女を受け止めたのは、何故か全身ずぶ濡れになっている旅の連れの魔法士だった。

雫は自分が心から安心するのを感じた。張っていた気が解れていく。
両腕で背後から彼女を抱きとめたエリクは、明るい茶色の髪から水を滴らせながら彼女を見下ろしていた。
藍色の瞳には呆れと、ほんの少しの安堵が内包されている。
彼女は礼を言うべきか謝罪を言うべきか迷って、結局全然違うことを口にした。
「あの、何でずぶ濡れ」
「君だって何その格好」
「いやこれは着せられて……」
事情を説明しようとした時、雫は急に男の背後に回されて目を丸くした。男の背中越しに前を覗くとメアが二人を睨んでいる。
エメラルドを嵌めこんだような双眸が蛍光を帯びて異彩を放っており、彼女は無意識に男の服を強く掴んだ。
エリクの表情は角度的に見えないが、いつもと大して変わらぬ声が降ってくる。
「中位魔族か。参ったね」
「た、戦うんですか?」
「無理。僕、そういう魔法士じゃないし、勝てないよ。転移陣を動かしてきたから逃げよう」
見ると彼は一人である。その上ずぶ濡れということは、まさか泳いでここまで来たのだろうか。
雫は背後を振り返る。扉まではあと十数メートルといったところだ。
彼女は自分を庇う男をもう一度見上げて、祭壇の前にいるメアに視線を戻した。
まったく魔法の分からぬ彼女でも、少女の周囲に異様な空気が渦巻いているのが分かる。
エリクは少女を見たまま雫を一歩下がらせた。
「僕が時間稼ぐから。合図したら走って。廊下の突き当たりを右」
「ちょっと待ってください! 危ないじゃないですか」
「一応防御系の魔法具は持ってきてるから。何とかなると思う」
そう言いながら更に後ろに彼女を押しやろうとする男に雫が異議を唱えようとした時、低い少女の声が広間に響いた。
「人間、レイリア様から離れなさい」
殺気混じりの宣告と共に広間に風が吹き始める。だがその風以上に、呼ばれた名にエリクはきょとんとした。背後の雫をつい振り返る。
「何がどうなってるの?」
「それが、人違いされてるんですよ。御伽噺の王女と……」
「何でまた」
それが雫にも明確には分からないのだから説明しにくい。
ただ、今の彼女には一つの推論があった。握ったままのエリクの服を引っ張って囁く。
「腹案があります。聞いてください」
「うん。言ってみて」
雫はメアの様子を窺いながら手短に自分の考えを説明した。彼は黙ってそれを聞いていたが、最後に顔をしかめる。
「それ大丈夫? 火に油を注ぐことにならない?」
「絶対、とは言えませんが……可能性はあるんじゃないかなーと。彼女も本当はきっと分かっているんですよ」
「ふむ。なら、君に任せる」
短く了承を出すとエリクは両手に持った二つの水晶球を発動させた。二人の眼前に結界が張られる。
メアから沸き起こる魔力の風を結界は遮断し、左右に受け流した。彼は懐からまた別のものを取り出す。
「手、出して」
「はい」
雫が素直に両手の平を揃えて前に出すと、エリクは無造作に左手の中指に指輪を嵌めた。
彼女は装飾部が内側にきてしまっている指輪を見て目を丸くする。
それはイルマスの魔法具屋で彼女が手にとってみたいと思った、あの指輪だった。
「これ……」
「欲しがってたみたいだし、守護の魔法具だから丁度いい。ただあんまり強い力は防ぎきれないから気をつけて」
「あ、ありがとうございます!」
雫は指輪を回すと左手を一度軽く握った。
大丈夫だ。きっと上手くいく。そう思えば何かはプラスに働くのだ。
意を決して彼女は微笑む。顔を上げるとメアと目が合った。
「レイリア様、こちらにいらしてください。人間は貴女様を謗り、害そうとしているのです。
 所詮人間は自分の許容できるものしか見ようとしない。その為にそぐわぬものを排除し、言葉で正しさを装うのです」
「耳が痛いね」
エリクは腰の短剣を引き抜く。いつか彼女に渡そうとしていた剣だ。
それを携えて彼がメアに向かって踏み出すと、少女の顔が怒りに歪んだ。
「おのれ……またお前たちは……」
「一応訂正しておくけど初対面。僕も彼女もね。君の知っている王女がいた時から世は既に千年以上が経過している。
 もうこの辺りには当時の国は一つも残っていないよ」
「黙れ!」
風が急激に強まる。結界ごと押されてエリクは足を踏みしめた。
その時、打ち合わせ通り、彼の背後から雫が駆け出す。
メアは彼女を巻き込むことを恐れて慌てて風を退かせた。
魔族の少女は、出口へでも祭壇へでもなく祭壇から見て右の広間の端へと走る雫と、祭壇に向かって真っ直ぐ歩いてくる男に視線を走らせる。
対応を迷ったのはほんの数秒。
メアは男を排除しようと手の中に光球を生んだ。躊躇なくエリクへと光を打ち出す。
広間の壁に着きそうだった雫が、方向を変え祭壇に向かって走り出したのは、その直後だ。
彼女の意図が分からず混乱するメアに、エリクは短剣を掲げると剣の平で光球を受ける。
弾かれた球が床に落ちて小さな破裂音を立てると同時に、彼は剣の煌く切っ先を少女へと向けた。
「射て」
命を受けて魔法具が発動する。
切っ先から小さな不可視の矢が数本放たれた。メアは左に跳んで矢を避ける。
矢は移動した少女を追って僅かに弧を描いたが、射程距離を行過ぎたのか単なる魔力となって空気中に消えた。
エリクは剣の方向を変えるとメア目がけてもう一度矢を放つ。少女は更に左後方へと跳び退る。
彼の間断ない牽制は、いつの間にか徐々にメアを祭壇から引き離していた。
その時――――反対側からドレスを引いて走ってきた雫が祭壇に到達する。
彼女は少しずれている蓋に両手をかけた。全身の力を使って蓋を押しやる。それに気づいたメアが顔色を変えた。
「動け……っ!!」
「開けるな!」
二人の叫びが交差する。
雫に向かって光球が放たれた。
彼女は思わず目を閉じそうになる。
しかし光が彼女にぶつかる直前エリクがぎりぎりで割って入った。剣で攻撃を弾く。
男に感謝しながら雫はもう一度、精一杯百合の紋章が彫られた蓋を押した。
蓋が奥へと動く。中に光が差し込む。
「見ないで!」
少女の悲鳴が停滞した時を切り裂く。
僅かに出来た隙間から中を覗き込んだ雫が見たものは――――
―――― 元は何色だったのだろう、茶色に風化しぼろぼろになったドレスと、ほぼ崩れ去って形を留めていない人の骨だった。