失われた王妃 017

禁転載

それがまだかろうじて人の骨だと分かったのは、劣化防止の魔法が幾許かかけられていた為なのかもしれない。
だがそれでも千年以上もの風化に耐え切れなかったのだろう、雫は朽ちた亡骸を哀切の目で見下ろした。
棺の中から目を離せないでいる雫の耳を、少女の壊れかけた声が打つ。
「レイリア様…………レイリア様は……」
その名が最早雫を呼んでいるのではないことは明らかだった。
雫は棺の蓋に掘られていた百合の紋章に目をやる。彼女が最初に通された部屋にもあった紋章。これがおそらくレイリアの紋章なのだろう。
祭壇に実は中があるのだと気づいた時、紋章の意味を考えた時、彼女はここに本当のレイリアが眠っているのではないかと思いついたのだ。
すぐ傍で男の溜息が聞こえる。
エリクは、床にへたり込んだメアに攻撃の意思がないと判断したのか短剣を鞘に戻しているところだった。藍色の瞳が雫を捉える。
「これが真実か」
率直な、しかしどこか憐憫を感じさせる声音。
雫は頷こうとして、伏せた顔を上げられなかった。
御伽噺で国に帰ったことになっていた姫は湖底の城で死んでいた。
何があったのか、何故彼女の遺骸がここにあるのかは分からない。
それでもメアの言葉の数々を思い返すと、雫は当時の出来事がいくらか分かるような気がした。
妹を取り戻しに来た王子か彼に付き従ってきた者たちは、おそらく姫が水神を愛していることを知って、裏切り者と罵ったのだ。
そして多分 ―――― 故意か事故かは分からないが、姫は彼らによって殺されてしまったのだろう。
水神を愛した彼女の名はその死と共に隠され、代わりにフェデリカという女が国に戻された。
妃を喪った湖の王もまた伝承通り殺されたのか違うのかまでは不明だが、もうこの城にいないことだけは確かだ。
ただメアだけがここに居て、死んだはずの妃が戻ってくるのを待っていた。
人は死ねば何も残らないのだと、そのことに耐えられなかった魔族の少女は、妃の死そのものを否定し続けたのだ。

メアは床の上に座り込んで泣いていた。
涙は流れていない。嗚咽も零れない。
けれど空虚な目で天井を見上げる少女は確かに泣いていた。
分かってはいたのだ。レイリアはとうに亡くなり戻ってこないと。
王が彼女の亡骸を棺に入れ、冷え切った頬に触れながら泣いていたのをメアは見ていたのだから。
妃が来たことで温かく穏やかな世界となったこの城は、束の間の幸福を経て彼女が死んだ時、修復も不可能な程凍りついた時の中に閉ざされた。
王妃が失われ王が消えた城に一人残った少女。
彼女はただ、二人の笑顔をもう一度見たいと願った。
かつてレイリアがこの城に来た時のように彼女が戻って来さえすれば、あの時間もまた戻ってくるのではないかと思っていたのだ。
だが千年に渡り作られてきた虚構の時も今や動き出した。
失われたものはもう決して戻らないのだという厳然とした事実だけが眼前に開けていく。
メアは棺の蓋を元通り閉める二人の人間をぼんやりと眺めた。
彼らのせいだとは、あの人間の少女のせいだとは思わない。
彼女の存在を欲したのは誰よりも自分だからだ。
誰も耳に留めない呼びかけが彼女に届いた時、彼女が隠された名を言葉に乗せた時、メアは狂いそうなばかりに喜んだ。
これで永きに渡る孤独が拭われるのだと、ようやく分かち合えるのだと思ったのだ。
だが、それも今は、何を分かち合えると思ったのかよく分からない。
―――― とても疲れた。
このまま意識が、自分を留める概念が流れ出してしまうような気がする。
それでもいいと、思った。
本当は自分の役目はもうずっと前に終わっていたのだ。それを受け入れられないでいただけ。
だからもう、壊れてしまってもいい。
誰も帰って来ない、待っても仕方ないのだから。
メアは目を閉じる。
石の床に横になる。
彼女の諦観と呼応して、城の奥底が微かに振動した。
少女は体に伝わる振動に全てを委ねる。
だがその時、すぐ近くで女の声がした。
「メア」
少女を呼ぶ声。
温かな人の響き。
メアは目を開ける。
そこにはしゃがみこんで心配そうに彼女を見つめている雫の姿があった。
彼女は少し淋しそうに微笑みながら手を差し伸べてくる。
メアはそれを何だかよく分からないもののように見上げた。
一体何だというのか。
これ以上何が続くというのか。
全てはもう形にも残らない昔に終わってしまっているというのに。
メアは差し出された手と、彼女の顔を見上げる。
何も反応が返ってこないことに、けれど人間の少女は戸惑いながらも手を引っ込めようとはしない。
雫はそして少しはにかむと、メアに向かって
「一人が嫌なら、一緒に行こうか?」
と言ったのだった。

「私もね、一人と言えば一人なの。ここじゃない別の世界から来たから。
 でもって今は彼に付き合ってもらってファルサスに向かっているところ。帰る方法を探しに」
だから、一緒に外に出てみない? と彼女は問う。
何だかおかしな人間だ。
レイリアとも、彼女を迎えに来た人間たちとも違う。
ごく普通の感情を、普通ではない自分に向かって示している。
どうしてそんなことができるのか。
まるで無知なのか、人がよいのか、それとも強い人間なのかメアには判別がつかない。
一人きりであることを思い出した魔族の少女は、自分よりももしかしたらずっと異質なのかもしれない少女を見つめた。
黒く大きな瞳が躊躇いがちな光を宿している。それでも彼女はメアから視線をはずさなかった。
薄紅の唇が微笑みを湛えている。
メアは自分でもよく分からぬ感慨が内に息づくのを感じた。
長い沈黙の後に、彼女は震える手を伸ばす。
同様に緊張に固い手でメアの手を取った雫は、何故だか一瞬泣いているような顔で笑った。
そしてメアはその表情を―――― とても綺麗だと、思ったのだ。

自分がメアを連れて行きたいということは、子供が子供を連れて行きたいというようなものだとは分かっていた。
異世界人としてこの世界のこともまだよく分からないのに、更に人間のこと自体がよく分からない魔族の少女をカバーしきれるはずがない。
だから雫は駄目もとでエリクに聞いてみた。
メアを外に誘っては駄目かと。
男はそれを聞いて目を瞠った。そしてすぐに難しい顔になる。
「君は、魔族が怖くないの? 傷つけられるかもしれないよ」
「それは怖いですけど。でもよく分からないと言ったら私もおんなじ、だし。
 それに…………あの子、ずっと淋しそうだったんですよ」
「言わんとしているところは分かる。けど君はやはり人間で、彼女は違う。僕は賛成しないよ」
「う。やっぱり」
雫は消沈する気持ちを苦笑に変えた。
きっと種族間のことは単なる同情でどうこうできる問題ではないのだ。失われた王妃の存在がそれを象徴している。
ただ雫は割り切れなかっただけだ。御伽噺の真実が、そしてメアの孤独がひどくやるせなかった。
何とかなればいいのにと思っても過去はもう変えられない。だがメアにならまだ手が届くのだ。
ほろ苦い表情になった雫にエリクは頷く。
「君のそういうところは美点かもしれないけど命取りにもなる。
 僕は可能な限りなら君に手を貸すけれど、最終的に君の命運を左右するのは君の決断で、君自身だ」
「はい」
「それが分かっているなら好きにすればいい」
「え?」
彼の言葉はそっけなくも突き放すようでもなかった。「好きな料理を選べば?」というくらいの重さ。
しかしそれは決して軽いわけではなく、本当に彼はそう思っているのだというだけのことだ。
雫は目を瞠る。言われたことを咀嚼した。
自分は弱い。そして無知だ。自分一人さえ上手く守ることができていない。
危機感が足りないと思う。そして無責任だ。
でも ――――
彼女は自分の両手を見る。
この体は、自分の自由になるものだ。今の彼女の唯一と言っていい財産だ。
出来ることは余りにも少なくて、ままならないこの世界。
それでも誰かの手を握ることはできる。言葉を交わすことも。
とても些細な可能性―――― だから、その可能性を貴んでいたかった。
いずれ自分の決断によって、自分が危機にさらされることがあるかもしれない。
けれど、まだ絶対ではない未来を恐れて踏み出さないより、やってみたいことを選ぶ。
何よりも自分がそうしてみたいのだ。これから造形される自分の為にも。
雫は手を何度か握ってみる。
エリクを見上げて、そして笑った。
「じゃあ、声をかけたいです」
「うん、いいよ」
「ご迷惑をおかけします。よろしくお願いします」
深く頭を下げ、再び彼女は顔を上げる。
見えるのは過去と共に消えていこうと伏している少女。
雫は彼女に向かって歩き出す。
まだ彼女にも可能性が残っているのだと、そう強く意識しながら。

まるで赤子のような目で雫に手を引かれて戻ってきた少女の全身を男は見回した。顎に指をかけて頷く。
「本当は使い魔として契約した方が安心なんだけど、君は魔力がないしね。やるとしても仲介できる魔法士が要るな。
 まぁおいおい決めよう。とりあえずその外見は不味いから…………変えられる?」
メアはこくりと頷く。
次の瞬間彼女は、まるで緑の絵の具をつけた筆を空中で一閃したように形を変えた。
小さな緑玉色の鳥となって雫の肩の上にとまる。
「す、すごい」
「上位魔族じゃかえってこういうことは出来ないけど、幸い中位だしね。あの髪色で人間の姿をされてると目立つ」
「え。緑の髪の人間っていないんですか?」
魔法がある世界だからそれくらい居てもおかしくないと思っていた雫は、この質問でエリクの心底呆れたような視線を浴びる羽目になった。
彼は広間の出口に向かって歩き出しながら肩をすくめる。
「もしかして君の世界にはあんな髪色の人間がいたとか? すごいな」
「ちょっ……待ってください。行き違いがあると思います」
「髪が逆立ってる人間とかもいたりして」
「それはたまにいるけど決して自然法則に逆らっているわけではなく……」
他愛無い会話を交わしながら、男を追って広間を出て行く少女。
彼女の肩の上で小鳥は棺を振り返る。
その緑の目には瞬間透明な感情が溢れ、そして一滴の涙となって石畳の上に落ちたのだった。

転移陣は城の隅の部屋、ほぼ水中に没したところにあった。
雫は何故エリクがずぶ濡れだったのかを理解して頭を抱える。
床は坂状に徐々に水中へと下っており、肝心なところはおよそ水深2メートルといったところだろうか。澄んだ水底に円状の模様が描かれているのが見えた。
「君、その格好で溺れない? 大丈夫?」
「あはははは……多分、ちょっとなら大丈夫です。水中でしばらく静止とかないですよね」
「入った瞬間発動するから」
エリクは言いながら躊躇いもなく水中へと踏み込んでいく。雫は肩の上の小鳥に「鳥で大丈夫?」と聞いたが小鳥は二度頷いて返してきた。
意を決すると雫はドレスのまま水へと足を差し入れた。最初は空気を含んで水面に浮かび上がったスカート部も、彼女が押し込むと水の中にたなびく。
完全に潜って目を開けると、エリクが転移陣の前で雫に向かって手を伸ばしているところだった。彼女もまた手を伸ばす。腕を強く引かれ、体を抱き取られる。
目の裏を白く焼かれるような衝撃。
世界がたわむような違和感。
閉じていた目を開いた時、雫は全身ずぶ濡れで湖畔の林の中に立っていた。
「も、戻ってきた!」
初めての転移で半ば放心していた雫の耳に、聞きなれない声が飛び込んでくる。
見ると二人の男と一人の少年が、転移してきた男女を驚愕の目で見つめていた。雫は少年の顔に既視感を覚えて「あ……」と呟く。
確か石碑の前で会った子だ。表情からすると心配してくれていたのだろう。
雫は彼らにお礼言おうと頭を下げかけた。その時湖の方から鈍い振動音が聞こえる。
「何だ!?」
エリクを除いて全員が湖を振り返る中、遥か遠くの水面で大きな波が立った。
波は湖面を乱し、波紋として広がりながら徐々にその高さを減じていく。
白い泡を立てて水際に打ち寄せ、それが何度か続いた頃にはいつの間にか振動もやみ、水は元の静寂を取り戻そうとしているようだった。
きょとんとしている雫に、エリクは彼女だけにしか聞こえない程の声で囁く。
「彼女がね、あの城の要そのものだったんだ。連れ出したから城が崩れたんだよ」
「え、嘘、それって……まずいですよね」
「別に構わないんじゃない? どうせ誰も入れない城だし」
男は嘯くと穏やかな目で笑った。嘘のない、安心できる笑顔。
雫はまだ繋いだままの彼の手に視線を落とす。自分に自由をくれる彼に自然な思いが零れ、
「―――― ありがとう」
と呟いたのだった。

失われた王妃の記憶は城と共に湖底に眠る。
もはや魂も残っていない彼女のお話に死後の慰めを乗せることはできない。生者はただ受け止め、飲み込んでいくだけだ。
作られた御伽噺は今日も世界のどこかで語られるのだろう。親から子に子から孫に、眠る為の物悲しいお話として。
それが残酷か、それとも救いなのかは、死した存在には関係のない話だ。
だから雫は割り切れない思いを今は飲み込む。死の無情を嘆かない。
そうやって知った上に立つことで、もっとこの世界に近づきたいと、彼女は思い始めていた。