天に聳ゆ 018

禁転載

雫は自分が立っている床の周囲を見回す。
そこには白墨のようなもので直径2メートルくらいの円が描かれていた。
それだけではなく、様々な文字や記号が一定の規則を持って書き込まれている。
雫は目の前に立っているメアと、隣にいるエリクを順に見やった。彼は魔法陣の外にいる魔法士に頷いてみせる。
「いいよ。始めてくれ」
彼の要請に応えて詠唱が始められた。
雫は辺りを失礼にならない程度にきょろきょろと見回しながら、びりっときたりしませんように、と願う。
所定の魔法契約手順を経て、メアが正式に雫の使い魔となったのはこの二十分後のことだった。

二人は一週間かけてコルワの町からカンデラの城都を目指して街道を移動した。
そして、途中にあった比較的大きな町で運良く契約を仲介できる魔法士を見つけ、雫はメアと契約を交わしたのだ。
本当は雫自身はそう言った主従のような関係ではなく、メアとはもっと友人のような仲間のような間柄でいたかったのだが、エリクは安全性の面から契約を強く勧め 、メアもそれを望んだ。どの道このままではメアは魔力の性質でエリクを他の人間から見分けることはできるが、魔力を持たない雫は判別がつかないのだという。
それを聞いては契約をしないわけにはいかない。
雫はメアの主人となり、エリクもまた雫に次いで非常時にはメアへの命令権限を持つ人間として契約に書き入れられた。
依頼を引き受けた魔法士は「近頃、中位魔族を使役する人間なんて珍しいよ」と驚いていたが、無事仕事は済ませてくれたようである。
二人は同じ町の食堂に移動すると昼食を取リ始めた。
「君が主人であることに馴れれば、自然と人の顔も判別できるようになるよ。魔族はその辺柔軟だから環境に適応する」
「そうなんですか」
雫はテーブルの隅で水の入った皿をつつくメアを見やる。緑色の瞳が雫を見上げた。
こうしていると元が少女の姿であったことを忘れそうにさえなる。彼女は指を伸ばしてメアの頭から背をそっと撫でた。
「カンデラの城都についたら一度情報を集めたほうがいいね。アンネリとロズサークがどうなっているかも気になる」
雫は広げられた地図を見つめる。そこには彼女自身の字でカタカナで国名が書き込まれていた。
今いるカンデラの国より南にあるアンネリは隣国ロズサークによって攻め落とされ、その影響で転移陣の封鎖が行われたのだ。
ファルサスまでどの国を通っていくか決める為にもその後の情勢がどうなっているか確認することは必要だろう。
雫はペンでカンデラの西隣の国名を叩いた。
「このまま西に行くと、えーと、これ何て読むんですか」
「ベブルス、その更に西がガンドナだ」
「ありがとうございます。その二つを越えればファルサスですよね」
「そう。だけど大国は出入国の審査が厳しいからね。ちょっと迷うところだよ」
エリクは雫のペンケースから赤ペンを取り出すと、地図に四つ丸を書いた。
一つはファルサス、もう一つはガンドナ、そしてガンドナの南と大陸北に一つずつ。
「この四つの国が四大国と言われる国だ。さすがにこれらの国の転移陣を使うのはちょっと準備がいるだろうね」
準備とは書類偽造の準備だろうか。雫は首を捻る。
エリクは少し考えると、ガンドナの南の大国をペンでつついた。
「まぁこの国……キスクっていうんだけど、ここはちょっと危ない国だ。だから出来れば避けて通りたい」
「治安でも悪いんですか?」
「治安はそうでもないんだけど、今の王族がちょっとおかしくてね。
 乱を好んで面倒ごとを起こす。気まぐれに民を使い、命を奪うこともざらだ。
 特に王妹オルティアは色んな物騒な話が付きまとってる人間で、苦言を呈した文官の目を抉り取ったなんて噂もある」
「うっわー。お近づきになりたくないなぁ、その人」
「うん。君なんか特に素性がばれたら、えらい目にあうかもね、人体実験とかで」
「嫌ああああああ」
そんな血生臭い評判の人とは絶対出会いたくない。雫は身震いすると温かいお茶を手に取った。口をつけて一口飲む。
紅茶に似ているが、風味がちょっと違う気もする。もっとも紅茶にも色々あるのだから、あまり詳しくない雫には本当に別物なのか分からなかった。
「たまーに、無性にファーストフードが食べたくなる現代人です」
「ファーストフードって何」
「栄養価が高いけど体にいいものが余り含まれていない、塩気の濃い食べ物と、私は認識しています」
「作れば」
「手作りしちゃったらそれはもうファーストフードじゃないんですよ!」
「ごめん、全然分からない」
雫はそこで不毛な会話を打ち切った。
基本的に野菜や穀物などは元の世界と共通しているものも多いようだ。精々異国に来たという感じだろうか。
ただ肉類に関しては、食べて「ああ、牛だな」と分かるものもあれば、何だか分からない、怖くて聞けないものもあった。
「豚はいないんですか?」と聞いたところ「大陸西部にはいるよ」と返ってきたからちょっと楽しみにしている。
逆に海際の国ではない為か、町の食堂などでは海魚は全然食べられない。それは島国に育った雫には残念なことだった。
彼女はシャープペンで大陸地図の海にあたるところにファンシーな巨大イカの絵を描きこむ。
エリクはそれを見て「クラーケンでも見たいの?」と呆れたように尋ねたのだった。

食堂から宿屋の部屋へと戻った二人は、さほど広くはないテーブルに本やノートを広げた。
雫は薄いドイツ語の教科書を開きながらノートに動詞の表を書き出す。
「英語もそういうところは少し残っているんですが、ドイツ語は語尾変化が激しいです。
 人称ごと……って分かりますか?」
「分かる」
「その人称ごとと複数単数があるので、動詞は現在を示す場合で全部で六種、変化します。英語は三人称単数だけ」
「なるほど。合理的だね」
メモを取りながらの男の感想を雫は怪訝に思った。彼女からすると面倒としか思えないのに何故だろう。
「合理的なんですか?」
「複雑な文章を書いても主語が分かりやすいじゃないか。単語一つの持つ情報量が増えれば読み解きやすい」
「単語一つの持つ情報量を覚えなければならないのが大変なんですよ! まだこれに時制とか色々あるんですよ」
「そうかもね。でもニホンゴの方も充分覚えること多いと思うけど」
「母国語でよかった!」
エリクはどうやら言葉を読み書きできるようになりたい、というわけではなく言葉の仕組みや法則がどうなっているのか知りたいらしい。
文法の説明を求められて一番困るのは実は日本語だ。
あまりにも言葉自体が多様すぎる上に、日本語の文法について習ったことをよく覚えていない雫は、彼に質問されると五回のうち三回は「……そういうものらしいです」と言う羽目になっていた。
だがエリクはこれに関しては彼女に呆れた視線を送らない。
むしろ彼女の上手く説明できない「何となく感じている」雰囲気を含めてメモをとっているようだった。
雫は動詞の基本変化の例を一つ挙げると、説明を続ける。
「で、変化にはある程度規則がありますが、不規則なのはかなり不規則ですね。
 特にbe動詞とか……主語と補語を結んで主語は何であるかを表す動詞は、英語もドイツ語も凄い変化になります」
雫は言いながらさりげなくテーブルの下に手を伸ばし、バッグから独和辞典を取り出した。
不規則動詞の変化がぱっと思い出せなかったからなのだが、エリクはむしろ辞書自体を見て目を丸くする。
「何その本。凶器?」
「凶器にもなりそうですけど違います。辞書ですよ。ドイツ語を日本語に対応させる辞書。
 ―――― まさかこの世界には辞書がないってことないですよね」
「ある。けど、見せて」
差し出された手に雫は独和辞典を乗せた。エリクは受け取った辞書をパラパラと捲り始める。
ページに差し入れられる長い指が綺麗だな、とぼんやり思っていた雫は彼が急に顔を上げたことでぎょっと引いてしまった。
藍色の瞳には探るような色が浮かんでいる。彼は辞書を開いたまま押し出すと、大き目の文字で書かれている項目を指差した。
「これ、最初ドイツ語だよね。l,e,r,n,e,n」
「ですね。英語のlearnかな。学ぶって意味です」
「これは? 変な形してるけど」
「発音記号です。どう発音するかっていうのを表してます」
エリクは眉を寄せた。考えを纏めているかのように何度か首を傾けると、今度は辞書の例文を指し示す。
「ちょっとこれ読んでみて」
「発音って苦手なんですけど……いっひ れるね やぱーにっしゅ!」
「………………」
静寂が訪れる。
さすがに酷い発音だったか、と雫は項垂れた。こてこての日本語的発音だが、彼女自身にはもう如何ともしがたい。
自分の発音が酷いという自覚はあったので、エリクに文法を教えるにあたっても訳文の方を読み上げるだけで、例文自体はほとんど紙に書き示し発音してこなかった のだが、ついにはっきりばれてしまった。
雫は虚しさを味わいながら浮上しようと顔を上げた。しかし、彼女を待っていたのは真剣そのもののエリクの目である。
彼は珍しくも少し迷っているようだったが、彼女がきょとんとしているのを見て口を開いた。
「前からちょっとおかしいと思ってたんだけど、英語とドイツ語って発音が全然違うね。訛っているで済まされないくらい」
「そ、そうですね。一応違う言語ですから」
「しかも僕には何だか分からない未知の呪文みたいに聞こえることがよくある」
「私の発音が大問題って気もしますが、私も聞き取りは苦手です」
「………………ちょっと確認させてもらっていい?」
「はい」
何をそんな真剣になる必要があるのだろう、と思ったが、余計な質問をしては墓穴を掘るだけになりそうなので雫はただ頷いた。
エリクはペンの先で規則的にテーブルを叩きながら問うてくる。
「ドイツ語とか英語を使う人たちは、この言語で会話をしている?」
「そりゃしてますよ。ドイツ人はドイツ語で会話します」
「ドイツ語のうち何割が、未知の呪文みたいな発音なの?」
随分酷い言われようだ。自覚はあってもさすがに凹む。
しかし、雫は肩を落としながら「全部ですよ。本場の人の発音はもっとずっと滑らかですけどね!」と返した 。
エリクはきわめて真面目な顔で頷く。
「じゃ、君はそれらを聞いて理解できるんだよね?」
「いやだから聞き取りは苦手って言ったじゃないですか。未知の呪文に聞こえますって」
男の目が驚愕に見開く。雫は何が会話の問題点なのか分からず眉をしかめてしまった。
意味のある沈黙。
その果てに、彼は硬質の声で呟く。
「―――― 聞いて理解できない言語が存在している世界なのか?」
まるで未知の事実を発見したような言葉。
それをぶつけられた雫は彼の驚嘆を頭の中で何度か反芻して―――― そしてようやく、彼と自分では言葉に対する認識がずれているのだと、そのことに気づいたのだ った。

「え、ってことは、聞いて理解できない言語がないんですか?」
「ない。というか皆、口にする言語は共通だ。多少の訛りがあっても聞けば分かる」
「うっわぁ……」
ずっと感じていた違和感、その原因たる食い違いが分かった雫は感嘆の声を上げた。
言われてみればエリクは発音についてまったく今まで問わなかった。時折雫が単語を読み上げると変な顔をしただけだ。
だがそれも彼にとっては、aをエイ、bをビー、と読むようなものだと思っていたのだろう。何かの用語かと思っていたのかもしれない。
雫が発音に引け目を感じてほとんど読みを口にしなかったが為に、二人はそれぞれの思い込みを引きずったままここまで来てしまったのだ。
エリクは大きく息を吐くと、ペンでこの世界の字をノートの余白に数個書いた。
「この世界はね、異国語って言ったら文字のことだけを指すんだ。発音は全部一緒だけど、文字や記述の文法は多少差異がある。
 だから君の世界もそうだと思ってたんだが……」
「他国は文字も、発音も全然違います。知識がない限り言葉は通じません」
雫は初めてこの世界に来た時のことを思い出す。
彼女自身は周囲の人間と言葉が通じることに驚いたが、他の人間は変わった顔立ちの彼女と会話ができることを何も不思議に思っていないようだった。
異世界人であることを打ち明けたエリクでさえ気にも留めていない。
つまり、この世界の人間にとっては「聞いて分からない言語」自体が存在しておらず、その為まったく違う発音の言語など想像もつかないものだったのだろう。
人間であれば誰もが言葉が通じると彼らは思っているのだ。
「それ、ずっと昔からそうなんですか? 千年前は発音が違ったとか」
「ないない。同じ。文字は変化しても音声言語はずっと同じだったんだ。聞いて分からないのなんて固有名詞くらいだ」
「便利そうだ……いいな」
それだったら雫も発音に悩まなくて済む。羨ましいことこの上ない。
エリクはしかし難しい顔をしたままだった。
「むしろ君の世界の方が不思議だ。何で音声言語まで分かれるんだ? 遺伝が影響してる?」
「それは遠いからですし……でも遺伝じゃないですよ。日本人でもドイツで育てばドイツ語ペラペラになりますんで」
雫は半ば上の空で答えながら、全部の言語が統一されているという大陸に思いを馳せた。
よくは分からないが凄いことのような気がする。本当にここは異世界なのだ。何だか心が浮き立つような気分だった。
彼女は両手の指を組んで天井を見上げる。自然と笑みが零れた。
「この世界にはバベルの塔がなかったんですね」
「バベル?」
「そういうお話があるんです、こっちの世界では。神話ですけどね。
 ずーっと昔はまだ言葉がみんな同じだったんですけど、ある時人が集まって高ーい塔を建て始めたんです。天まで届けーって。
 でもそれを見た神様が、こういうことしちゃうのは言葉が同じだからだ! って言って、みんなの言葉を乱したんですよ。違う言葉になるように。
 それで人々は世界各地に散らばって……今に至る、というお話」
それは人間の高慢を諌める話なのかもしれない。或いは人間の限界を示しているのかも。
だがこの世界にはそれがない。
大陸がどれくらいの広さなのか、東の大陸までも全部そうなのかは分からないが、言葉は乱れていないのだ。言葉が分かれるという概 念さえない。
人の魂は死後残らないと聞いた時と似た種類の、しかし反対の感慨が雫の中に溢れてくる。この世界の違っているところが面白い。
機嫌よく笑顔になる雫に対して、エリクはまだ何か考えているようだったが、やがて彼女につられたのか苦笑した。
二人の間で緑の小鳥が小さく鳴く。
それはまるで、伝わらないことを楽しんでいるような、澄んだ声だった。