天に聳ゆ 019

禁転載

メアを使い魔として契約した三日後、二人は買出しを済ませると町を出た。
ほどよく晴れた空の下、街道をのんびりと馬で移動していく。
町からすぐは人通りが割りと多かった道も、二時間も行くと引き離されたのか引き離したのか、他に人影が見えなくなっていた。
エリクはまるでその時を待っていたかのように、雫に質問を始める。それは言語について昨日の話の続きのようだった。
「君は異国語の聞き取りや発音が苦手みたいだけど、それは遺伝じゃないの?」
「遺伝的に駄目って思われるくらい私の発音がひどいことは伝わってきました。でも違います」
雫は風で乱れた髪を耳にかけなおした。そのままスカーフの中にねじこむ。
「日本語は母音も子音も西洋の……ドイツ語や英語に比べて種類が少ないんです。かなりの母音過多ですし。
 で、子供の頃言葉が身につくに従って使わない部分はなくなっちゃうんですね。聞き取りも発音も。
 日本語は種類が少ないから、そのまま成長すると外国語のいっぱいある発音の区別ができなくなってるようです。
 それでも後から学んで出来るようになる人は出来るみたいですけど……私は今のところ全く駄目ですね!」
「…………僕には聞いても分からないけど、君が自分の発音に非常に問題を感じていることは伝わってきた」
「ありがとうございます」
舌を出して答えた彼女は、肩の上の小鳥と目が合って笑顔になる。心地よい風を肺の中に吸い込んだ。
ころころと表情を変える少女をエリクは、未だ思考の中にいるような視線で見やる。
だが結局彼は
「君は……今の話を含めて、君の世界の言語について他の人間に言わない方がいい」
とだけ言うと、その理由も、そしてそれ以上のことも何も口にしなかったのだった。

次に二人が立ち寄ったのは、街道から少し山の麓に分け入ったところにある小さな村だった。
二人は夕方近くなってようやくこの村に着いたのだが、森の中にある村に迷わず辿りつけたのは地図がある為だけではなく、街道からも見える塔が村にはそびえてい たせいである。雫は太い煙突のような塔を遠目から見て「ラプンツェルでもいるのかな」と呟いた。
「ラプンツェルって何?」
「姫の名前です。あの、これ話し始めたら私また、山ほど突っ込まれないといけないんですか?」
「納得できる話なら突っ込まない」
「ならやめときます。姫は幸せになりました! 終わり!」
強く断言すると男は呆れ顔になる。何だかこういう表情をされることが多すぎて慣れてしまったくらいだ。
「君って結構、豪快な性格してるよね」
「桃を割ったような性格です」
「あれは中の子供は無事ではすまないと思う」
それについては雫も同感だったが、そもそも桃に子供が入っているところからおかしいので気にしないことにしている。
細く曲がりくねった道を馬で三十分程行くと村の入り口が見えてきた。
旅人が迷わないようにとの配慮なのだろう。入り口には宿屋の看板があり、厩舎が併設されている。
こんな小さな村でも宿屋があるのは街道から近い為だろうか。二人は無事馬を預け部屋を取ることができた。
「あ、このスープ美味しい! どうやって味つけてるんだろう」
「郷土料理ぽいから厨房に行けば多分教えてくれるよ」
時間がずれているのか宿屋の一階にある食堂には今は彼らだけである。
雫は薄紅色のスープに匙を差し入れながら暗い窓の外に視線を移した。
「あの塔なんでしょうね。気になるなぁ」
「気になるなら明日明るくなってから見に行けばいい。観光名所かもしれない。
 ……ああでも僕も行くよ。君を一人にするとよくないようだ」
「否定のしようもございません」
単独行動で今まで二度面倒ごとに巻き込まれているのだから何も言えない。
雫は今はテーブルの上にいる小鳥が自分を見上げているのに気づいて笑った。
終わりよければ全てよしではないが、彼女自身は今のこの状態でよかったと思っている。回り道も時にはプラスに働くのだ。
だが、だからと言って進んでエリクの迷惑になりそうな事態に直面するのは避けたかった。
雫はもう一匙スープを口に運ぶ。馴染みのない味。だが美味しいと素直に思えた。
―――― いずれこの旅が終わる時も、これでよかったと言えるのだろうか。
そうなればいいと、思う。
彼女は向かいに座る男をそっと盗み見る。
彼と別れる時、どんな挨拶を自分はするのだろう。
それはまだ、想像もつかない先の話に思えたのだ。

昼に見る塔は、何だか地面に刺さった棒のように異様だった。
雫は少し離れた場所から石塔を眺める。どうやら観光名所というわけではないらしい。それにしては少し薄汚れたイメージを抱かせるのだ。
「物見塔か何かですかね」
「それにしては窓が小さい。どちらかというと幽閉というか……」
「あれは産所だよ。ノイ家の産所」
突然後ろからかけられた女の声に雫は驚いて振り返ったが、エリクは塔を見上げたまま「そうなんですか」と相槌を打っている。
そこに立っていたのは雫の母親と同じくらいの年に見える中年の女だった。忌々しげな表情の女は雫を見て、少し驚いた顔になる。
「あんた変わった顔立ちだねぇ。どこから来たの?」
「タリスからです」
「へぇ。ゆっくりしてきなよ」
ゆっくりと言われても、村には何か他にあるようには見えない。せいぜい「産所」という塔があるだけだ。
それにしても塔が産所とは変わっている。この世界の風習なのだろうか。
そのことを問おうと口を開きかけた時、しかし女は振り返ったエリクの格好を見て表情を変えた。
「ひょっとして魔法士かい?」
「一応」
「ちょうどよかった! うちの魔法具の調子をちょっとみてくれないかい?
 半年前に村の魔法士が亡くなってね。旅人でも魔法士でここに立ち寄る人間は少ないし、困ってたんだ」
「構いませんけど、直せるかどうかは分かりません」
「いいよいいよ、駄目もとで」
女はそう言うと顎をしゃくりあげながら踵を返した。ついて来いということだろう。
二人は顔を一瞬見合わせると塔を背に歩き出す。
けれど、遠ざかる彼らの姿を塔の小窓から見ていた人影がいたことに、この時二人のどちらもが気づいていなかったのだ。

女は古い木の家に二人を招くと、小さな部屋に彼らを案内した。
窓のない小さな部屋には何の家具もない。ただよく見ると木の床に人が一人座れそうな大きさの銀板がはめ込まれていた。
円状の紋様を見るだに、どうやら魔法陣のようである。雫は身を屈めて複雑な紋様を目で追った。エリクは彼女の後ろから覗き込む。
「言送陣ですか。かなり古い魔法具ですね」
「そうなんだよ。そのせいか行商に来た職人に聞いたら、城の魔法士とかに頼まないと直せないって言われてさ。
 値段も手間もかかるし困ってたんだ。どうだい? 直せそうか?」
「時間を頂ければ。結構かかりそうです」
「頼むよ。礼はするから」
エリクは雫に代わって前に出ると、彼女の肩に乗っていた小鳥を呼んだ。
「メア。魔力貸して」
小鳥は小さく鳴くと男の肩に乗り移った。何をしているべきか迷う雫に、女は「あんたはこっちで待ってな。お菓子あげるから」と手招く。
一体自分は何歳に思われているのか、釈然としないものがあったが、エリクが「頂いてて」と言うので彼女は素直についていく。
雫は食卓らしきテーブルでクッキーとお茶を出されると、女に尋ねた。
「あの塔って産所にしか使わないんですか? お産をするところですよね」
「そうだよ。あそこはノイ家の持ち物だ。他の人間は近くに寄ることもできない。
 なんせ呪われた家の塔だからね。見られちゃ不味いものがあるんだよ」
忌々しげに吐き捨てられた言葉に雫はクッキーが喉につかえそうになった。
かろうじて「呪い?」と聞き返したが、物騒な話この上ない。
中年の女は自分のカップに乱暴にお茶を注ぎながら、雫の問いに応えて説明しようとした。しかしそれを別の男の声がたしなめる。
「母さん、やめてくれ。よその家の悪口なんて恥ずかしい」
いつの間にか戸口に立っていたのは若い男だった。おそらく雫よりは年上であろう。
母さん、と呼ばれた女は「本当のことを言って何が悪いのさ」と開き直る。
険悪な雰囲気に雫は所在無さを感じたが、男と目が合うと「お邪魔してます」と頭を下げた。男もまた会釈で返してくる。
「君、旅の人?」
「魔法士の人に言送陣の修理を頼んでるのさ。その間連れの子が暇だろうと思って」
「なるほど。ごめんね、時間取らせて」
まるで子供に言うようにそう言われて、雫は本当に自分は何歳に見えるのだろうと悩みかけた。
しかし、母子間に漂う何だか微妙な空気に彼女は「そんなことありません」と言っただけで後は沈黙を保つ。
男がいなくなった後、母親は誰にともなく、しかし本当は雫に聞かせたいのだろう、刺々しい言葉を漏らした。
「まったくろくでもないよ……ノイ家の女にたぶらかされて……」
雫は驚いて顔を上げる。しかし当然ながら男の姿はもう見えない。
ただ廊下を挟んで向こうの窓に細い塔がそびえているだけだった。

「愛している」
思い出す真剣な言葉がどこか絵空事のように聞こえるのは何故なのだろう。
クレアは激しい耳鳴りを感じて両耳を押さえた。
大陸は広い。それを越える世界はもっと。
けれど彼女の「世界」はこの小さな村でしかないのだ。もっというならばこの細長い塔だけがそうなのかもしれない。
塔の中は空気が上手く流れない。淀んだ暗い匂いがする。
暗闇の中から彼女を捕らえようと忍び寄ってくる匂いに、古い血臭が混ざっている気がしてクレアは口元を押さえた。
耳鳴りがひどい。
視界が傾く。
彼女はどこにも逃げられない。
クレアは小さな窓から外を眺む。
冷たい窓。石の枠。
細身の彼女であっても体全ては通り抜けられないその「出口」から、クレアはふと、このまま身を投げてしまいたい、と思った。