天に聳ゆ 023

禁転載

「忘れ物ない?」
そう聞かれて雫は部屋を見回した。大丈夫だ。何も忘れていない。自分のバッグを持ち直す。
彼女は廊下で待っていたエリクに続いて五日を過ごした宿の部屋を後にした。
今日、これから言送陣のテストに立ち会って、そのまま城都に向って出発するのだ。
雫は廊下の窓から見える塔に、つい気を取られる。
塔には何もないから壊すよう勧めたエリクに対し、結局クレアは自嘲を浮かべただけだった。
老齢の母親がいるという彼女は、塔を壊すようなお金も、村を出て新しい土地で暮らす気もないのだという。
あまり明るい未来が待っているように見えない彼女のこれからに、唯一救いがあるとしたら偏見に囚われていない恋人の存在であろうか。
自然と物憂げな顔になってしまった雫は、前を行くエリクが「後でクレアのところにも挨拶に行こうか」と突然言ったので、考えていたことを読まれてしまったのか と目を丸くした。だがすぐにそんなはずはないと我に返る。
「いいですね、それ。行きましょう」
「うん」
前を見たまま頷くエリクは、どうも塔の件に関していつになく積極的になっているように見えた。
一体何が原因なのだろう。少なくともオルヤの家で親子喧嘩の仲裁をさせられた時までは、ひどく嫌そうに見えた。
順を追って考えると、彼が自ら動いたのはクレアに会った時からだろうか。雫はわずかに眉を寄せる。
―――― もしかして彼女が美人だからだろうか。
ついそんなことを考えてしまって、雫は不快に口を曲げた。自分がつまらない勘繰りをしたことに苛立ちが生まれたのだ。
けれどそれだけではなく、素直に言えばその考え自体が彼女を何故か落ち着かなくさせたのもまた確かだった。
雫は無意識のうちに髪をまとめるスカーフに手をやる。零れた髪に指を絡めた。
元の世界に戻れば、クローゼットにもっと可愛い服が入っている。アクセサリも、髪留めも。
大学に通い始めたばかりの頃、姿見の中で見た自分の姿を思い出し、彼女は我知らず溜息をついた。
だが物思いに沈み込みかけていた彼女の思考は、突然の衝撃に中断させられる。
「ぐぅ」
急に足を止め振り返ったエリクに衝突した雫は、情けないうめき声をあげて鼻を抑えた。上から男の呆れた声が降ってくる。
「何してるんだか」
「止まる時は止まるって言ってくれるとお互い幸せになれます」
「止まった」
「遅いです」
エリクは軽く作った拳で雫の頭をコンコンと叩いた。
「顔上げて。君は人の気分が伝染しやすいみたいだ」
「あ……はい」
彼は再び踵を返して歩き出す。叩かれた頭を押さえた雫は、思わず姿勢のよい男の姿に気を取られた。
多分……エリクには彼女の溜息が聞こえたのだろう。だから彼女の様子を確認してくれたのだ。
雫は妙な歯がゆさを覚えてかぶりを振る。
今、彼女の心の中に残っているのは不思議な温かさで、つい先ほど感じたばかりの苛立ちは、何故か日の下の雪のように綺麗に溶け去ってしまっていた。

テストにはオルヤと、息子のダルス、そしてエリクと雫が立ち会うことになった。
中は狭い為、雫はすぐ外の廊下で壁によりかかりながらエリクを待つ。興味はあったが、自分がしゃしゃり出でも邪魔になるだけであろう。
そう思ったのはダルスも同様だったのか、彼は雫の正面の壁によりかかって言送陣の方を見やるに留まっていた。
彼女は失礼にならないよう意識しながらも改めて男を眺める。
彼は一見生真面目そうに見えた。雫にも気を使って笑顔を見せてくれる。
だが、その笑顔という表層の下には、何か思い込みが激しそうな性質が隠れているように思えるのは彼女の気のせいだろうか。
それは彼が小声で「クレアに会ったんだってね。いい娘だろう? もうすぐ結婚する約束をしているんだ」と言った為かもしれない。
少なくとも昨日会ったクレアは結婚を楽しみにしている女性のようには見えなかった。
彼のことについて触れた時も、まるで傷ついたような目をしていたのだ。
二人の間には本当に相互理解が成り立っているのだろうか、そんなことを考えて雫は馬鹿馬鹿しさに唇を曲げる。
ろくに彼らのことを知りもしない若輩の自分が心配できるようなことだろうか、と気づいたからだ。
いかんせんお節介にも度が過ぎている。彼女は生まれかけた疑惑を振り払うとダルスに笑って返した。
「結婚式って見てみたかったです。クレアさんはドレスが似合うでしょうね」
「僕もそう思うよ。君たちは今日出発するんだろう? 近くに来る事があったらまた寄ってみて」
「はい」
返事はしてみたものの、再会の可能性はあまり高いとは思えなかった。
雫はこれからファルサスに行き、そして元の世界に戻ることを望んでいる。
どうやってこの世界に来たのかは分からないが、帰ってしまえば自由に戻って来られるとはあまり期待していなかった。
これから先、何人の人と出会うのか。そして何人に別れを告げなければならないのか。雫は溜息未満の息を嚥下する。
その時、場の転換を促す声が廊下まで洩れ聞こえた。彼女は思わず体を捻って部屋を覗き込む。
今いる四人の誰のものでもない男の声は、エリクが直した言送陣から響くものだった。

「オルヤ? 聞こえるか」
「聞こえるよ。ちゃんと直ってる」
「それはよかった八ヶ月ぶりだな。これで仕事も元通り流れる」
声だけが聞こえる男は、城都に住む親戚で、城の出入り職人なのだとダルスが説明してくれた。
時折、オルヤにこの辺りで取れる木材の調達を頼んでいたのだと言う。
雫は重なるダルスの話とオルヤの声、両方を聞きながらもただエリクの修理が無事終わったことに安堵していた。
彼は普段魔法具を使わない魔法を見せてくれることはほとんどないし、自分は魔法士としては落ちこぼれなのだと言って憚らない。
けれど雫にとっては充分、エリクは頼りになるすごい魔法使いなのだ。難しいと言われた修理もやってのけることができる。
彼女はほっと微笑んで肩の上のメアの頭を撫でた。
これで後はクレアに挨拶して出発するだけだろうか。
だがそう思ってエリクの隣に歩み寄ろうとした矢先、事態は急変した。雫は予想だにしない方向から軽く押されてよろめく。
それに気づいたエリクが表情を変えて彼女に手を伸ばした。雫を押しのけて部屋に入ったダルスは母親の肩に手をかける。
「母さん! 何だ今の話は!」
「うるさい子だね。聞いただろう。お前の妻になる女の紹介を前から頼んでいたんだよ。お前もそろそろ結婚しどきだろう」
「僕にはクレアがいる!」
「何言ってんだい、馬鹿な子だね……。ノイ家の女なんか迎えるもんじゃないよ!」
「母さんに彼女の何が分かるんだ! 呪いなんて馬鹿馬鹿しい!」
危うく転びそうになったところをエリクの手によって事なきを得た雫は、親子喧嘩はどこの世界も一緒だな、とぼんやりと思っていた。
だがそれがのんきな感想で済まなくなったのは、ダルスが
「もういい。話しても分からないなら僕はこの家を出る!」
と叫んで駆け出した時である。
止める間もなく、雫たちがいるのとは逆方向へと廊下を走り去った男に、エリクは顔をしかめて呟いた。
「不味いな。追った方がいい」
「え」
「行くよ」
言うなり彼は雫の手を引いて走り出す。荷物は食卓に置いたままだが取りに行っている暇はないらしい。
彼女は目を白黒させながらも自分の足を動かしてエリクと二人でダルスを追った。
向う先は塔。おそらくはクレアのいる場所だ。
頭の中がぐちゃぐちゃになりながらも走ることに集中しようとしている雫に、エリクの苦々しい声が届く。
「僕は昨日、嘘をついた」
「ど、んな、うそを、ですか」
全力疾走しながらの途切れ途切れな相槌に、彼は走っていることの影響をまったく受けていない声で答えた。
「呪いはあるんだ。あの塔でクレアと今の彼を会わせては不味い」
「―――― え?」
呪いが、ある。
雫は彼の言葉を頭の中で繰り返し、意味を把握しようとした。
誤解で殺された女がかけた呪い。生まれた男児は奪われるという呪詛。
それが本当に存在していると、彼は言っているのだろうか。
息が切れる。わき腹が痛くなってくる。だがそれでも雫は足を動かし続ける。
曇天の中そびえたつ塔はもうすぐそこに迫っていた。

二人が塔の下に到着した時、扉は乱暴に開け放たれたままだった。雫はふと上を見上げるが、小窓からは誰の姿も覗いていない。
エリクが階段を上る足音に気づいて意識を戻すと、彼女は息を整え再び走り始めた。何とか一段抜かしで彼の後ろに追いつく。
「呪い、って、いつから、それに、気づいて、たんですか」
「ここに入ったときから。正確には上に上った時から。だけど僕には何とかできるような代物じゃなかった。だから……」
「だから、壊せって」
「そう」
思えば「何でもないから塔を壊した方がいい」などと彼にしては随分乱暴なことを言うな、と感じたのだ。
何でもないのなら放っておけばいい。それが出来ないのは…………呪いが本当だからなのだろう。
雫は緊張に生唾を飲みかけたが、呼吸が上がっていてそんなことはできなかった。だが出来ていてもむせてしまっただけだろう。
今はただ階段を上ることに集中する。やがて男女の言い争う声が聞こえてきた。エリクの上る速度が上がる。
あっという間に置いていかれた雫が、言うことを聞かない足の膝を押さえて最上階に到達した時、エリクはちょうどダルスの腕を押さえてねじ上げているところだっ た。一見、力があるように見えない魔法士に押さえ込まれたダルスは、憎憎しげな表情でエリクを睨む。
「何だ! 邪魔しないでくれ!」
「彼女にあたっても仕方がない。話し合いなら外に出てすればいい」
「放っておいてくれ! 君には関係ない」
クレアは窓の前で腕を押さえて立ち尽くしている。細い手首には赤い手形が浮き上がっていた。
おそらくダルスに手を掴まれていたところをエリクが割って入ったのだろう。
雫は呼吸を整えると、クレアを庇うように前に立った。肩の上でメアが小さく鳴く。
何をするべきか、彼女が困ってエリクを見ると彼は顎で階段を指し示した。クレアを連れて外に出ろということらしい。
雫は振り返ってクレアに向き直る。
「あ、あの。ここから、出ましょう……」
「どうして? ここが私の生まれた場所なのに」
彼女の様子に気圧されて雫は絶句する。
いつの間にか…………クレアは楽しそうに笑っていた。
まるで場違いな、あでやかな笑顔。
それはとても―――― いびつで、恐ろしかった。