天に聳ゆ 024

禁転載

「みんなみんなこの塔を嫌がるの。何でかしら」
クレアは口元に手をあてておかしそうに笑う。その白い手首に赤い手形がついているのと相まって、彼女を取り巻く光景は実に奇怪な絵となっていた。
―――― 何かがおかしい。あるいは何もかもか。
雫は走ってきた為だけではない息苦しさに喉を押さえる。
だが一歩後ずさりたい気持ちを堪えて、彼女は逆に踏み出した。
「下りましょう。外で、お茶でも飲みながら話しましょう。その方がきっといいはずです」
決して怖くないわけではない。
呪いがあると聞いてからはなおさらだ。
けれど雫は、ここで負けてしまってはいけないような気がして、意識を強く保った。 クレアの瞳を飲まれそうになりながらも見つめ返す。
雫が人であるように、クレアも、ダルスもただの人だ。
そして呪いが魔法であるならば、それもまた単なる生きた人間の技だ。
だから、気持ちでは負けない。
初めから諦めたりはしない。
まだ諦めるような時ではないのだ。
クレアは雫の真っ直ぐな目に笑顔のまま顔を歪める。
怒っているようにも泣いているようにも見えるその表情は、彼女が精神的に瀬戸際に追い詰められているのではないか、という疑いを雫にもたらした。
呪いが本当にあるというのなら、それは彼女にとってどのような効果を与えているのだろう。
エリクにそれを聞きたいような、今聞いては不味いような不安が雫の心中を占めている。
振り返りたい気持ちを抑えて、彼女はまたもう一歩前に出た。
「クレアさん、下りましょう」
「駄目よ。だって私、ここの子なんですもの」
「空気が悪いです。気分に影響しますから」
再三の誘いに、しかしクレアは首を縦に振らない。背後からはまだダルスの罵りが聞こえてきていた。
「ねぇ、あなたたちは昨日、ここには呪いがないって言ったわよね?」
「それは……」
「ならここにあるのは人の罪だわ。そうでしょう? 私たちの家の女は、男の子が生まれたらこの塔の窓から投げ捨てていたんだから」
雫は思わず顔色と、言葉を失くす。
沈黙がゆっくりと波打つ中、クレアの軽い笑い声だけが塔の中に響いていた。

まるで現実味のない悪夢のような数瞬。それを打ち破ったのは意外にも落ち着いたダルスの声だった。
「僕の母が何か言ったのか? 君まで噂を真に受けてどうするんだ」
「噂じゃないわ。本当だもの」
クレアはそこで言葉を切ると振り返った。塔の窓から外を眺める。
「私にはね? 兄がいたのよ。私が生まれる三年前に身篭った母はこの塔の中に引きこもった……だから村のみんなは知っているの。
 でもその子は産声だけを塔から響かせていなくなった。この窓から投げ捨てられて、殺されてしまったのよ。
 ダルス、あなたは知らなかったの?」
可笑しそうに笑いながらクレアは窓から下を覗き込む。
ダルスは、彼女の言うとおり知らなかったのだろう。雫が振り返るとエリクの手を離れ、信じられないといった表情でクレアを見つめていた。
嘘か真実か、しかし衝撃の告白にエリクは少し眉をしかめて何かを考えている。雫は恐れよりも困惑が勝って、もう一度クレアを振り返った。
「ノイ家はね、自分で自分を呪っているのよ。呪いを恐れて塔の中に逃げ込んで、男の子が生まれると呪いを呼び込んでしまうからって殺すの。
 その行為こそが呪いそのものなのだと何故分からないのかしら……。まったく度し難いわ」
クレアは言いながらも窓から身を乗り出す。左肩が外に出た。彼女は石の窓枠にもたれかかるように体を預ける。
―――― 彼女を苛んでいるのが呪いではなく、兄の死であり積み重ねられた罪そのものであるのなら、どうやってそれを拭えばいいのか。
気にするなと、彼女には関係ないと、いくつもの言葉が雫の中に浮かんでは消える。
どんな言葉なら今の彼女に届くのか。雫は道を探して空気を求めるように喘いだ。
代わりにダルスの苦い声が洩れ聞こえる。
「だとしても君の罪じゃない。気に病んでも仕方ないだろう……」
「仕方ない!?」
金属的な叫びと共にクレアは塔の中に残る右手で石壁に爪を立てた。爪は石壁の溝に引っかかって見る間に血が滲む。
だが彼女は痛みをまるで感じていないかのようにそのまま壁をかきむしった。全身で拒否を表しながら天に向って哄笑する。
「なら生まれてすぐ殺された子の無念はどうなるの? 最初に殺された女の呪詛は?
 全てなかったことにして忘れてしまえばそれでいいの? 誰も罪を背負わないと言うの!?」
ダルスは咄嗟に何も答えられないようだった。それは、彼女に理を認めたというより、恋人の異様な様子に飲まれたと言った様子である。
彼女は人間に背を向けて、塔の中から外へ向って強く手を伸ばしていた。
「私は塔で生まれた子。生まれながら罪によって呪われた子なのよ。
 罪が、私を見つめている。ここが私の世界で…………ここから何処へも行くことは赦されない!」
クレアはまだ塔の中にあった右手をも窓の外に出そうと身を捩る。
石枠につかえた肩は加えられる力に限界を越えてよじれ―――― 少しの間の後に関節のはずれる嫌な音がした。
ぶらさがった腕をそれでも彼女は窓へと押し込む。
両肩が歪み、腕が石枠にこすれて血が滲みながらもクレアはその行為をやめようとはしなかった。
床を何度も蹴り、声を上げて笑いながらただ前へとのめっていく。
雫は理解を越えたいびつさに愕然とした。
不味い事態だということは分かるのだが、あまりの光景にただ彼女から目が離せない。
奇妙にねじれながら窓の外に全身を出そうと足掻く女の姿は、塔から逃げられないと言いながらもまるで、卵から外界へ孵ろうとする雛のようだった。

果たしてこれもまた呪いなのだろうか。
小さな窓から這い出そうとする女の凄絶な光景に雫は束の間自失する。
けれど彼女がそうしていたのは本人が思っていたよりずっと短い時間でしかなかった。
雫はクレアに駆け寄ると、まだ塔の中にある彼女の腰を掴む。
「駄目です……っ! 落ちちゃうから!」
実際にこの窓から外に出ることが可能かどうかは分からない。けれど雫はクレアの望むのとは逆に彼女の体を押さ込んだ。
本当は塔の中へと引っ張りたかったが、それをしては今以上に彼女の体を傷つけてしまうようで躊躇われたのだ。
雫は必死でクレアの体を抱きしめながら、後ろの男二人に助けを求めようと口を開きかける。
しかしそれより早く、誰かが後ろから彼女の襟首をつかんだ。
「雫、メアを使え」
彼女の名を呼ぶ声。
強い、澄んだ言葉。
雫はほんの刹那、全身を高揚が駆け巡るのを感じる。
胸が熱い。迷いを全て灼く程に。
真っ白になりかけた頭で、それでも彼女は最善を求めた。
肩の上にいる小鳥に向って叫ぶ。
「―――― メア、お願い…………窓を、壊して!」
力が、溢れ出す。
雫はクレアの背中へと飛びついた。
しっかりと抱きしめ、そのまま誰かによって彼女ごと後ろに引っ張られる。
目を閉じた顔に砂嵐がぶつかり、小さな痛みがあちこちに生まれた。
声が出せない。何がどうなったかも分からない。ただクレアを抱きしめる手だけに力を込める。
けれど、ひどく長く感じられた時間の後、「もういいよ」と耳元で囁かれた彼女が恐る恐る目を開けると…………
辺りは、外からの風が部屋に立ち込めていた空気を押し流し、日の光が余すことなく小さな部屋全てを照らしている、そんな状態だったのだ。

「君の命令が大雑把だということはよく分かった」
エリクはもはや部屋の様相を呈していない周囲を見回す。
雫は何の反論もできなかったので、とりあえず誤魔化そうと笑い出した。
「窓を壊して」と頼んだのはクレアの体をこれ以上傷つけないようにである。咄嗟にそれ以上のことが思い浮かばなかったのだ。
そして使い魔であるメアは―――― その命令を十全に遂行した。
かくして窓は粉々に破壊され、ついでに壁と天井も半分ほど吹き飛んだのだ。
本当に物見台のようになってしまった見晴らしのよい塔に、ダルスは腰をぬかしているくらいである。
雫はやらかしてしまった証拠である外の景色から目を逸らすと、すぐ前に倒れこんでいたクレアを覗き込んだ。
捻じ曲がった腕の痛ましさに彼女は顔を曇らせる。
「メア、ええと……治せるのかな?」
「無理。彼女は治癒を使えないみたいだ。僕がやるから魔力を貸して」
エリクは片膝をつくとクレアの上に手をかざす。彼の肩にメアが飛び移った。
けれど治療を始めようと詠唱が為されたその時、弾かれたようにクレアは顔を上げると無事な左手でエリクの手を振り払う。
「構わないで! それよりあなたたちは何てことを……」
「確かに乱暴だとは思うけど、この塔は壊すべき塔だ」
「この塔がなければ皆が忘れてしまうのよ! 私たちの罪も、殺された人のこともみんな……」
「でもこの塔があり続ければ、また罪が重ねられるかもしれない。
 君は自分が何故この塔を守ろうと思うのか、その真の理由を考えてはみないのか?
 本当は君は誰よりも、塔から逃げ出したいと思っているのに」
エリクはそれだけ言うと詠唱を再開した。
謎の疑問を投げかけられたクレアは、理解不能な言語を聞いたかのように唇を震わせる。
彼女はそのまましばらく何かを堪えるように歯を食いしばっていたが、ふと血の滲む自分の爪に目を落とし、そして広がる空を見上げた。
眩しそうに細められた両眼にうっすら涙が滲む。
「私は……けれど、兄は…………」
「何だ何だ。急に塔が吹き飛んだが、どうかしたのか?」
新たなる声に全員が入り口を振り返る。
開け放たれたままの扉。雫はそこに現れた男を見てあんぐりと口を開けた。
いつ塔に入ってきたのか、長身の帯剣した男は腕組みをしたままおもしろがっているような目で四人を見回す。
特に彼は雫を見つけて口笛を吹きたそうな顔になったが、何も言わずにクレアに視線を固定するとにやりと笑った。
「よう。初めましてか? 俺の妹」
「……え?」
事態を把握しきれない何人かの声が重なる。
なかでも雫は、今すぐこの場からダッシュして逃げ出したい気分に強く支配されていた。
暗茶色の髪に緑の瞳。鍛えられた体から隙の無い雰囲気をかもしだしているこの男は、ある意味彼女がもっとも会いたくなかった男――――
こともあろうにイルマスの町で雫に声を掛けてきた、ターキスと名乗る傭兵だったのである。