禁じられた夢想 026

禁転載

「エリク……?」
戸惑いが濃い雫の言葉は口の中で僅かに呟かれたのみで、呼ばれた当人には届いていないようだった。
もっとも普段の、雫のことを常に気遣ってくれているエリクであれば気づいたのかもしれない。
けれど今の彼はただ射竦めるような視線を目の前の男に向けているだけで、纏う雰囲気さえ色を変えているように思えた。
「何かを為すだって? 人が一人で何が出来ると思っているんだ。名でも上げたいだけなら彼女に関わるのは見当違いだ」
言われたターキスは片目を細める。そこには若干の失望が含まれているようだった。
「随分冷めたことを言うやつだな……。一人であってもやろうと思えば色々出来るものだろう」
「そう思い込んでいるだけだ。自分一人で何かが出来ると信じ込んでいる時ほど人間は危うい方向に走り出す」
ばっさりと切り捨てる氷の如き声にターキスは不愉快そうな表情を浮かべた。改めて会話についていけていない雫を一瞥する。
「どうだ? こんなつまらない男より俺と来た方が楽しいと思わないか?」
雫がその誘いを即座に拒絶できなかったのは、ターキスのさしのべる手に魅力を感じたというより、彼女がただ驚いていたからに他ならなかった。
彼女の知るエリクとは、学ぶことに貪欲で、意外と行動力があり、人間に興味がないと言いながらも人を見捨てることはしない、翳りの無い自分のスタイルを持って いる人間だった。彼は彼女の意を汲んで背中を押してくれる。その彼と、人の努力の限界を冷然に言い放つ今の彼がどうしても結びつかないのだ。
答を口にしない雫にエリクは振り返る。
普段誠実を感じさせる藍色の瞳が何故か苦渋に満ちている気がして、雫は思わず口を開いた。
「―――― っ」
だが彼女の口からは、どうしても言葉が続かない。何を言えばいいのか見つからない。
ただ空を食むように唇をわななかせる雫に、エリクはひどく冷めた……諦観の漂う微笑を浮かべた。
「別にいいよ。君がこの男と」
「ああああ! ストップ!!」
今度はすんなりと声が出た。雫はそのことに安堵する。
代わりに半分裏返って、自分でもおかしく思う声になってしまったがそこは目をつむるべきところだろう。
両手を前に押しとどめる彼女に向かってエリクは目を丸くした。
「そういうのは言わないで下さい。悲しくなっちゃいますから。
 私を見捨てないで下さい。そりゃ物知らずだし、甘いところあるし、使い魔のこともよくわかってない問題児ですけど……。
 最後まで付き合ってください。お願いします」
雫は言い終わると深く頭を下げた。
本当に頼みたいことについては態度からして分かるよう誠意を尽くすべきだと、かつて祖母から聞いた事がある。
そしてその教えを彼女は今までずっと守ってきたのだ。
純朴とも言える雫の態度を腰が低いと苦笑する友人もいたが、だからといって間違っているとは彼女自身思っていなかった。
時間としては決して長い期間ではないだろうが、彼女は今までずっとエリクに助けられてきたのだ。
そもそもこの旅も彼の言葉がなかったら始まらなかった。
その彼がたとえ今、少しの翳を見せていたとしても、理由の分からぬそれだけで別の人間と共に行こうとは思わない。
雫にとってエリクとは既に代わりのきく人間ではないのである。
だから彼女は誠意を尽くす。どうか変わらず共に旅を続けてくれるようにと。
それはごく自然な、当たり前の行動だと彼女は思っていた。

下げたままの頭の上に、男の嘆息が聞こえる。
それは、彼女と旅路を共にする魔法士のものだった。
「ごめん。僕が悪かった。頭を上げて」
「エリク……」
「どうも調子が狂ったみたいだ。気を使わせちゃったね。いつもと逆だ」
「とんでもない! 私も私で頑張りますし、よかったら頼っちゃってください」
「うん。ありがとう」
元通りの空気に雫はほっと微笑む。エリクもまた少し笑って……そして、真顔に戻るとターキスを見た。
「そういうわけだから。彼女は君とは行かない」
ターキスは顔を斜めにして人の悪い笑みを浮かべている。その腰に長剣があることを意識して雫は緊張に唇を噛んだ。
彼はおそらく職業的に戦いなれている男なのだろう。自分に自信がある表情が小憎らしいほどだ。
彼女は肩の上の小鳥を意識する。
雫一人であれば戦力外も甚だしい。むしろ足手まといだ。その上エリクは戦うことは不得手な魔法士である。
二対一など形だけのことで、ターキスがその気になれば力で彼らに勝利することも充分可能と思えた。
けれど彼女にはメアがいる。彼女の意のままに動く使い魔がいるのだ……。その力の程はつい先ほど思い知った。
半壊した塔の最上階。その散々な光景を見た時、雫ははじめ驚き―――― 後から怖くなった。
これ程の力が自分の意志で揮えるということ。それは武器を持つことを拒否した彼女にとって、短剣以上の戦慄をもたらしたのだ。
力の使いどころを誤ってはならない。ましてや人に対してこの力を揮うことなどあってはならないことだ。
たとえ得体の知れない、何となく好きになれない男に対してもそれは例外ではない。
頼るべきは争いを避ける頭であり言葉である。彼女は他人に道を譲らせる為にメアの力を使うことはしたくなかった。
雫は腰が引けそうになる自分を意志の力で奮い立たせながらターキスを睨み返す。
何を言おうか、そう考えた時、しかし男は肩を竦めた。
「分かった分かった。今は退こう。
 だが、気が変わったら声をかけるといい。適材適所とは言うが、いずれ俺のような力を必要とする日が来るかもしれないからな」
ターキスは雫に向って軽く手を振ると手綱を鳴らす。
彼を乗せた馬はあっという間に速度を上げ、緩やかに曲がる街道の向こうに消え去った。
雫は息を飲んで馬影を見送っていたが、それが完全に見えなくなるとほっと安堵して隣にいる男を見る。
「よ、よかった」
「うん。けどまぁ行き先は同じだろうし、また会うかもね」
「二度と御免です!」
力強く力説するとエリクは苦笑した。その笑顔がいつもよりほろ苦いものに見えるのは雫の気のせいなのだろう。
四歳年上の彼は、彼女とは違う世界、違う道のりを生きてきた。
本来交わるはずのない生を行く二人が今ここで同じ道を歩んでいることこそが、奇跡のようなものなのかもしれない。
雫は少しだけ、あの黒い穴に感謝する。
エリクに出会えてよかったと、この時彼女は確かに思えているのだから。

二人がカンデラの城都についたのは、それから十二日後のことだった。
いくつかの村を過ぎ、宿を取りながら着いた都は雫が今まで見たどの町よりも大きく、活気に溢れている。
洗練された高い建物と様々な服装を着た人々の波。商人たちの掛け声や微かな音楽の音など空に響き渡る喧騒は都の規模を惜しむことなく伝えてきた。
遥か向こうに見える灰色の城に雫は意味もなく両手を上げて驚きを示す。それは昔絵本で見たような、本当のお城だった。
そのまま固まっている彼女に当然ながらエリクは真顔で問うてくる。
「何やってるの」
「感動を形に」
「君の世界にはそういう慣習があったんだ」
「あったかもしれないけど、多分ないです」
「つまり君が変なのか」
「だから物は言い様ですって!」
定番になりつつある掛け合いを済ますと二人は馬を預け、宿を選ぶ。
ここから城都を出て更に北西へと街道を移動するか、もしくは城都の転移陣を使うかを決めねばならない。
転移陣を使えれば早いが、近くの国で戦争があったばかりで情勢は不安定であり、それでなくとも城都から他国への移動は審査が厳しい。
ならば引き続き北西へ街道を進むという手もあるが、エリクによるとこの先は少し治安が悪くなるのだという。
その為彼らはとりあえず城都の様子を窺いながら、審査に通れそうかどうかを探ることにしたのだ。

「漢字って面白いね」
二つの世界の単語を対応させる辞書を作っている現在、エリクは単語の成り立ちに興味を持っているらしい。
ドイツ語と英語の類似点や接頭・接尾辞、語源などを含む単語の構成、そして漢字の意味を雫に尋ねては辞書とは別にメモを取っている。
今、彼は雫に頼んでさんずいの漢字をノートに並べてもらい、感心の声を上げているところだった。
「へぇ。『注』は注ぐから、水系の漢字なのか。これって表意文字なの?」
「その辺はよく分かりませんが、一概に表意文字とは言えないみたいです。音だけを重視した当て字とかも結構ありますし」
「なるほどね。でも一つの目安にはなるわけか」
彼はペンの背でこめかみを押しながら漢字を眺める。その中の一つを指して雫は笑った。
「これ、私の姉の名前です。『海』」
「ああ。お姉さんがいるんだっけね。共通性のある名前をつけてるのか」
「うちは苗字……家名も『水瀬』で水系ですから。妹は『澪』で水路って意味です」
「雫は?」
突然名前を呼ばれて彼女は一瞬ぎょっとしたが、漢字のことを聞かれているのだと気づき苦笑する。
エリクは普段彼女を名前で呼ぶことがほとんどないので何だか動揺してしまったのだ。
雫は二つの漢字を手元の紙に記し、それを彼の方に押しやった。片方をシャープペンでつつく。
「単語自体は『滴』とも書きますが、私の名前はこっち。『雫』です」
「さんずいじゃないんだ」
「雨の下って書くんですよ」
実はこれは雫が自分の名前の漢字を覚えたての頃、密かに気にしていたことでもあったのだ。
姉と妹はさんずいのつく漢字なのに自分にはそれがない。何故両親は『滴』の方にしてくれなかったのだと思ったほどである。
けれど今となってはこの字でよかったと思うし、自分の名前を気に入っている。
ただ姉や妹とつい比較してしまう時、何となく自分の色々なことについて、気持ちがぼやけてしまうことがあるだけだった。
エリクは二つの漢字を見比べると『雫』の字を見て頷く。
「うん。いいね。綺麗だね」
「―――― え」
雫は思わず固まった。
名前の字のことを言われているのだと、分かっていてもさらりとした誉め言葉に心が浮くような気恥ずかしさを感じたのだ。
動揺を表したくないという意思に反して、熱を帯びる頬を押さえると彼女はうつむく。
「そんなこと言われたことないから驚きますよ」
「そうかな? 普通の感想だと思うけど」
「普通の基準が違うんです」
「なるほど」
雫はそういうことにして気を取り直すと、頬を軽く叩き文字を並べる作業へと戻る。
少し照れの残る彼女の顔をエリクはじっと見つめていたが、やがて我に返ったかのようにかぶりを振ると彼も作業に手を出し始めた。
それはカンデラの城都について一日目の、夕方のことである。