禁じられた夢想 028

禁転載

反射的に角に隠れてしまったのは、自分の苗字が話の中に出てきていたからだ。
恐らくかなりの挙動不審で、隠れている側の廊下に人がいたらぎょっと引かれてしまっていただろう。
けれど幸い他には人がいない。彼女は息を殺してその場に留まった。
死角になる角の向こうから聞き覚えのある男子のさざめく声が響く。
「水瀬? どっちの水瀬?」
「姉の方だろ、普通。クラスメートなんだから」
「って言われてもなぁ。妹のがインパクトあるじゃん」
「水瀬妹きっついもんな。顔は可愛いんだけど」
「この前三年をやりこめてたぜ。怖ええの何のって」
「兄貴が言うには水瀬の一番上の姉さんは天然系の美人らしいよ」
「何だ。じゃあ真ん中が一番ぱっとしないんだな」
聞き慣れた会話。
それでも慣れきらない鈍痛。
俯いた彼女は唇をわななかせると――――

「勝手なことばっかり言ってんなっての!!」
叫びながら顔を上げた雫は、呆気に取られている男と至近で目が合い硬直した。
日本人にはない藍色の瞳、金色がかった茶色の髪。中性的な顔立ちが今は驚いている為かいつもより若く見える。
おそらくは転寝をしている彼女を覗き込んでいたのであろう男―――― エリクは一歩退くと神妙な顔で頷いた。
「勝手なことを言っているかもしれない。すまない」
「ち、ちがっ! 夢です、夢!」
「誰かを心のままに怒鳴りつける願望が表された夢を見ていたのか」
「だいぶ正解に近づいたけどそれでも違う! 昔の夢を見てたんですよ!」
「ああ、なるほど。誰かに勝手なことばかり言われたことがあるのか」
「正解」
変な起き方をしたせいか眠気はすっかり覚めている。雫は乱れた前髪をかきあげて眠気の残滓を振り払った。
周囲を見回してそこがカンデラ城都にとった宿屋の部屋であることを確認する。彼女は一息つきながら左だけ肩を竦めた。
「私は姉も妹も目立つ人間ですんで。比較してよく好き勝手言われました」
「へぇ。それに食ってかかってたわけか」
「かかってません。きりがないですし、放置してましたよ」
「夢に見るくらい悔しかったのなら言えばよかったのに」
清々しいくらいあっさりとした切り返しだ。雫はつい眉を寄せて言葉に詰まってしまった。
エリクの言うことは他人事のきらいはあるが、真実と言えば真実である。 言い返すかどうかは別として悔しかったのは本当なのだ。
けれど実際としては雫は沈黙することを選んだ。親しくもない人間の前に直接出て行ってまで文句を言おうとはしなかった。
そんなことをして何かが変わるとも思えなかったし、何より彼女以外の他の人間から見たら、あれもまた本当のことだと思っていたからだ。
雫はふてくされた顔で頬杖をつく。
あの時よりは今の方が遥かに他人の前で素直に感情を出せているという自覚はあったが、異世界にいるという訳の分からぬ非常事態であるからかもしれない。
彼女の対面に座ったエリクは、机の上に散乱した紙を整理しながら呟いた。
「大体、君より目立つってどんな人間なの。想像つかないな」
「私に対して誤解がありませんか? こんな地味な人間なのに」
「地味? どこが?」
雫としてはきわめて正直に言ったにもかかわらず、不思議そうに聞き返されてしまった。
彼女は答に困って―――― この世界では自分が変わった顔立ちをしていることを思い出す。空いている方の手で自分の顔を指差した。
「顔とか。姉とか妹と違って美人でも可愛くもないし。中身も突出したところがなく普通です。平凡のきわみですよ」
「そうなのか。僕は人の顔の美醜がよく分からないからな」
「わぁ」
突き抜けたことを言われてしまった。雫は頬杖から顔が半分ずり落ちかけて、慌てて直す。
はたして人間に興味がないとここまでいってしまうものなのだろうか。
この世界の美醜の感覚自体が雫のものと異なっているわけではないらしいということは、これまでの旅の中で彼女が美人だと思った人間を周囲の人間も美人と評価し ていたことで分かっている。けれど言われてみればエリクは美人でもそうでなくても態度にはまったく変わりがない。本当に相手が見えているのかと疑ってしまうく らいだ。
自身はかなり整った顔立ちをしている男は空中に視線をさまよわせる。
「そりゃ目鼻の均整がどうなっているかとかは分かるけど、そこまでだな。
 むしろ人の顔って人間の性格が滲み出てると思わない? そっちの方が気になる」
「確かにそういう人もいますけど……美人なのに性格悪い! って女性とかいません?」
「だから、性格が透けて見えて美人に見えない」
「あー」
分かるような分からないような感覚だ。むしろ二十二歳にしては達観しすぎている気もする。
雫は彼と出会ったワノープの町で、世話になったシセアが彼のことを「そっけなくて娘たちに人気が出ない」と評していたことを思い出した。
どんなに髪を弄り化粧をして外見を装ったとしても、彼が見ているものは皮膚の上のものではなく中身なのだ。 それは場合によっては確かにそっけなくとられるのかもしれな い。飾り甲斐がないにも程があるだろう。
そこまでぼんやり考えて……ふと顔を上げた雫は、エリクが自分をじっと見ていることに気づいてぎょっとした。
思わず逃げたくなって腰を浮かしかける。
「な、なんですか」
「別に。人形みたいに小さな顔をしているな、と思って」
「博多人形!?」
「何それ」
何と聞かれても説明しようがない。雫は椅子に座りなおすと机の隅で冷め切ってしまったお茶のカップを手に取った。
エリクは居心地の悪いことに、まだ彼女を見つめている。
何だか冷めたお茶の味が余計わからなくなるような落ち着かなさだ。雫はつい視線をそらす。
彼は最後に「君は自分が思っているより普通じゃないよ」と反応に困ることを言って―――― 結局話はそれきりになったのだった。

「魔法士を集めているだと?」
女は無造作に放り投げられた紙くずを手元で開くと紅い唇を曲げた。美しい容姿が禍々しく翳を帯びる。
魔法着からはみ出た白い足が乱暴に組まれるのを見て、紙くずを投げた老人は鼻で笑った。
「城も何を考えているやら。亡国の二の舞でもしようというのであろう。
 そのようなことをしても長い時間をかけて傾いた柱は戻らないというのにな」
老人の含んだような物言いは無知を嘲笑っているようにも聞こえる。陰謀を当然のものとして身に纏う気配がそこには漂っていた。
女は赤みを帯びた茶色の目を細める。
「構成に重きを置いているということは、大勢で大規模構成を組ませるつもりなのかもしれんな」
「つまり『あの構成』を動かそうということか」
静寂がいっとき、空間を満たした。
どろりとした思考が床に染みこんでいくような間。
その忌まわしさを照らすことに何の抵抗もない気軽さで女が指を弾くと、紙は赤い炎を上げて燃え始める。
フードの中に顔を包み込んだ老人はしわがれた声を上げて笑った。
「いずれにせよ、こちらにとっても好機だ。潜ませておいたあれを使う」
「分かった」
短い返事と共に女は立ち上がる。隠された部屋を出て行く彼女の顔には、善悪に拘泥せずただ何もかもを愉しむような笑みが浮かんでいたのだ。

構成図は雫が描く。
それは既に二人の間で合意をみたところであったが、まず構成自体を考えるのに時間がかかるらしい。
幸い期限までにはまだあと一週間以上あるということで、エリクが構成を練る間、雫は辞書を作ったりレポートの為の文献に目を通したりしていた。
既にこの世界にきてから二ヶ月以上が経っている。もし元の世界と時間の流れが同じだとしたら夏休みはとうに終わっているだろう。
にもかかわらずまだレポートに手をつけようとするのは、それが携帯などよりこの世界で違和感を覚えない、それでいて元の世界に所属するものだからなのかもしれ なかった。
要点をルーズリーフに書き出しながら勉強していた雫は、部屋に入ってきたエリクに気づいて顔を上げる。
構成が決まったのかとも思ったがそうではないらしい。彼は無言で軽く手を上げ挨拶すると、自分の分と雫の分、お茶を淹れ始めた。
「お疲れですか?」
「煮詰まったから。ちょっと気分転換」
「眉間に皺がよってますね」
言われてエリクは苦笑し表情を崩した。今まで気分転換というわりには、何かを考え込んでいるような顔つきをしていたのだ。
彼は適当に淹れた為か若干色の薄いお茶を二つのカップに注ぐと、片方を雫に向って差し出した。彼女は礼を言ってそれを受け取る。
二人はしばらくそれぞれお茶の味を楽しんだ。
温かい飲み物とはそれだけで心身の緊張をほぐしてくれる気がする。
エリクは、雫が書き込みを加えている本とルーズリーフを興味深そうに眺めた。
「今、何をやってるの?」
「二千年以上前のテキストについてレポートを。……ここは、文字批判のくだりですね」
「文字批判」
その言葉は文字を専門とするエリクの好奇心を煽ったらしい。目で続きを促してくる男に雫は苦笑した。
「ここでは要約すると文字についてこう批判されてます。
 ―――― 文字を勉強すると、人は書かれたものに頼って忘れっぽくなってしまう。
 それは、自分の中の記憶を思い出そうとしないで、外の書かれたものに触れて思い出そうとするからなんだそうです。
 書かれた言葉は、読む人にいつでも同じものしか返さないし、誤読された時は書き手の助けが必要になる。
 だから書かれた言葉っていうのは、人が語る魂を持った言葉の影にしかすぎない、という話です」
「…………なるほど。一理ある」
エリクの機嫌を損ねてしまうのではないかと少しだけ雫は思っていたのだが、彼は感心したように頷いただけだった。
彼は雫の開いている文庫本を指差す。
「で、その言葉は本によって今まで残されたと」
「です」
二人は視線を合わせて苦笑する。
文字を批判する内容が文字によって伝えられたという部分に皮肉を感じ取ったのだ。
けれどそんなことは二千年以上前に批判を書いた当人も分かっていたことに違いない。エリクはお茶のカップを置いた。
「言葉というのはつまり、よくも悪くも認識者である人の思惟を表す道具に過ぎないということだね。
 個人の記憶については仰る通りだとも思うけど、大きな目で見ればその本の言う『語る言葉』も『書かれた言葉』も使いようとしか言いようがない。
 口伝で知識を伝えるには限界があるから。
 ―――― だから道具に依存しすぎず自らの研鑽を怠るなという意味も、それは含んでいるんじゃないかな」
「道具……ですか」
「うん。文字については、いつでも同じものしか返さないということが有用に働くこともある。
 その代わり語る言葉より永く広く、そして変わらず残る。語り言葉は大体その逆かな。
 でもね、誤解される可能性っていったら語り言葉もそうだし……言葉っていうのは本来不自由なものなんだ」
エリクの言うことは難しくて頭がこんがらがる。
それでも雫は折角彼がつきあってくれているのだからと、授業に臨むような気分でメモを取りながら聞き返した。
「不自由なんですか? 便利じゃないですか」
「便利だよ。でも限界はある。それを忘れちゃいけない」
彼はそう言うと、机の上にあった消しゴムを手に取った。白く小さな消しゴムはまだ使い始めたばかりである。
エリクはそれを摘んで雫に見せる。
「これ、何色?」
「白です」
「うん、僕も白に見える。でもこれって本当に同じ色に見えてるってことなのかな?」
「…………どういうことですか?」
さすがについていけない雫が眉を寄せてしまうとエリクは可笑しそうに笑った。
笑いながらもしかし、彼は丁寧に説明してくれる。
「つまり、仮にだけど僕の目にこれは『赤』に見えるとしよう。けれど僕は『赤』を『白』という言葉で表現するものと思っている。
 この場合君の目にはこの小さいのは『白』、僕の目には『赤』に見えるけれど、言葉にされたものは二人とも同じ『白』だ」
例を上げられた雫は一拍置いてぽんと手を打った。
もやもやとした疑問に答が出る。
「あああー、なるほど! 言葉の意味がそれぞれの人で食い違ってる可能性があるってことですか」
「そう。でも僕たちは相手の心の中を直接覗き込むことができない以上、食い違ってるかどうか確かめたくても言葉を使うしかない。
 そして言葉を使って確かめようとしている限り―――― 食い違いの存在は完全には否定できないんだよ。
 語るにせよ書くにせよ、言葉が他人に少しの齟齬もなく完全に伝わるってことは、だからありえないんだ」
少しのほろ苦さと冷徹さを絡み合わせた彼の意見。
雫はその内容を理解して……瞬間途方もなさに愕然とした。
―――― 例えば誰かから「愛しい」と言われても、相手の「愛しい」が自分の「愛しい」と同じとは限らない。
ならば「愛しい」とは何なのか。
無数の言葉を尽くして相手の気持ちを知ろうとしても、尽くす言葉のそこかしこに食い違いがあれば、二人の抱く意味はいつ まで経っても同じ場所にはたどり着けない。
まるで無限の迷路をさまようような孤独。
人が人である以上逃れられない限界。
それを知った彼女は今…………とても、不安になった。
この世界に来てもっとも安堵したのは言葉が通じるということだ。けれどそれは、通じていると安心していて本当によかったのだろうか。
同じ言語を繰っていても食い違いが否定できない以上、世界が違う彼らとの間に食い違いがないはずがない。
雫は何だか久しぶりに自分が異邦人である心細さを思い出して肩を落とした。
エリクはその様子に気づいて、表情は変わらないならがも幾分慌てたように片手を振る。
「極論を言えば、という話だよ。世の中には完全に否定でき得るものってそう多くはないし、何にでも限界はある。
 実際には名詞とかの平易な言葉は意図通り通じていると思っていいだろう」
「はい……」
「だから、言葉という道具を使う時にはそのことを知っていなければならないってだけだよ。
 限界を知っていればこそ、言葉は強力に働くんだ」
エリクはそう結ぶと、雫の少しほっとしたような微笑を見て自分も安心したらしい。
「じゃ、僕はもうちょっと作業してくる」と席を立つ。
休憩に来たのか議論に来たのか分からないが、彼としては満足そうな顔をしていたから気分転換にはなったのだろう。
雫は彼が残していった空のカップを見やり、言葉にならない思いを巡らす。
それは彼女の他に誰も触れることのできない、彼女だけの世界なのだ。