禁じられた夢想 031

禁転載

全身を襲う疲労感に落とされた肩の上で小鳥が鳴く。幾分普段より鋭いその声は、威嚇と警戒を兼ねているようだった。
主人である雫の命令があれば、いつでも目の前の男を排除するということなのだろう。雫はそれを留める為、手を上げてメアの背を撫でる。
「分かってくれたのなら、私は帰りますから」
自分でも棘があると分かる声で彼女が返すと、ターキスは少し眉を上げた。怒っているわけでも驚いているわけでもない、真面目な表情になる。
この男がこんな顔をしたところなど見たことがない。立ち去りかけた雫はつい男に目を留めてしまった。
ターキスは腕を伸ばすと―――― また捕まえられるのかと身を竦めかけた彼女の頭に、ぽんと大きな手を置いた。
「あのな、雫。あー……まぁ俺の言い方が悪いんだろうが、そう卑下する必要はないぞ」
「…………別に卑下はしてない、けど」
口ではそう言ったが、雫には本当に自分が自分を卑下していないかどうか自信はなかった。
諦めることには慣れている。それは必要ではない、拘泥するべきではないと思っていることを切り捨てられるだけで、何もかも諦めてしまうわけではない。
だが、彼女が諦めるか否かの判断をすぐに決する人間であることもまた確かだった。
自分は特別な人間ではない。姉とも妹とも違う。あんな風にはなれない。
だから―――― わだかまりを抱え込むことは避けて、別の道を探そうとする。そのままの自分を認識する。
それは果たして、前向きな判断であるのだろうか。
男は雫の頭に手を置いたまま身を屈めて彼女を覗き込む。
「はったりでも何でも言ってみると面白いぞ。出来るって思えば案外出来るようになったりするし、自分を高く売ることも時に必要だ」
乗せられた手を振り払えなかったのは、ターキスの言葉が普段のからかうような口調ではなく、真面目に諭すものであったからだろう。
近くに見える男の瞳は、その色が緑がかった灰であるのだと初めて気づかせる。雫は居心地の悪さを感じて目を逸らした。
「そんなはったり吹かして、後で話が違うってなったらどうすんのよ」
「だから努力するんだろ。限界は高く持つもんだぞ?」 
「持って届かなかったら?」
「その時はその時さ」
一体、この男は何歳なのだろう。
ただ少なくとも、元の世界で平穏に暮らしていた雫よりは何かしらの苦労をしてきているのだということは、少し苦味のある声から感じ取れた。
ターキスはスカーフごしに、まるで子供にするように雫の頭をわしわしと撫でる。
「だから、もっと自信持て。お前は頑張ってるよ」
何故そんなことを言うのか。何を分かっているというのか。
ただ、男の言葉に偽りはないと感じる分それは―――― 少しだけ、嬉しかった。

「もう帰る」と言うとターキスは意外なほどすんなりと雫を解放した。
ストーカーまがいの押しは何だったのかと拍子抜けもしたが、彼女が男に対しほんの僅か印象を変えたように、向こうもそうだったのかもしれない。
また会いたいとまではまったく思わないが、ターキスの方は「またな」と言って去っていった。
男の長身の頭が人込みの中見えなくなると、雫はようやく張っていた気を緩める。
「頑張って……るのかな。私」
この旅はまるで、子供の頃山に登った時の遠足のようだ。
先が見えなくて少し息苦しくて、でも隣り合う友達と話しながら黙々と足を動かし続ける。
そうしていればいつか必ず終わりには着くはずなのだ。そして後には元通りの日常が待っている。
もしちゃんと戻れたのなら。違う世界で旅をしてきたのだと言ったなら。
家族は、友人たちは笑うだろうか。正気を疑うのだろうか。
―――― それでももし誰かが「頑張ったね」と思ってくれるのなら。
雫は、違う世界、見知らぬ人々の間を小走りで帰っていく。この旅を意味あるものとする次の一歩を、踏み出す為に。

「揃った」
唐突な声はだが、待ち望まれていた声でもある。立ち並ぶ人間たちは緊張に居住いを正した。
彼らの前を硬質な足音を立てて往復する男は、ある一点で足を止めると壁にかけられた紙の上を指で叩く。
劣化防止の魔法がかけられている為、長年の経過にも色褪せないそれは、巨大な一つの構成を描き出した構成図だった。
「キスクはひとまずロズサークとナドラスへの介入をやめたようだが、いつ次があるか分からぬ。
 大国の寝返り一つ恐れていては、遅かれ早かれ我らに未来はないだろう。ならば今、やらねばならぬ」
男の指は複雑な構成図の外枠をゆっくりとなぞっていく。まるで恋焦がれているかのように執拗に。
「集まった魔法士たちは五つの組に分け、構成の各部位を担当させよ。全体を掴ませないよう監視は怠るな」
了承の声が複数上がる。男はそれでも構成図を見たままだ。
「完成の後は、魔法士たちは障りがあるなら好きに処分せよ。取り込もうが殺そうが構わん。後顧の憂いだけはなくしておけ」
人を道具と見ることに慣れきった言葉に、けれど異を唱える者はいない。
集まった人間たちは暗黙のうちに頭を垂れ、それぞれの思惑のまま為すべきことへと向って散っていったのだった。

審査の結果は一両日中に張り出されるということだった。
ひとまず書類の提出を負え、宿に帰ってきたエリクは、雫と二人、本を広げこまごまとした文字の勉強に取り掛かり始める。
その中の薄い一冊、ドイツ語で書かれたテキストを読んでいた彼は、おもむろに顔を上げると日常単語の辞書を作っている雫に声をかけた。
「このドイツ語ってさ、エーゴと同じ傾向だっていうけど、エーゴに比べて妙に長い単語が混じってない?」
「ああ。ドイツ語って合成語を作るんですよ。日本語もそうなんですけど。単語をどんどん繋げて新しい単語を作るっていう……」
雫はシャープペンを手に取ると、ノートに「東京特許許可局」と書いた。「東京」と「特許」と「許可」と「局」の間に線を入れる。
「こういう風に……複数の単語をそのまま並べて一つの単語にするんです」
「へぇ。これで分かるの?」
「もう慣れてるんで。さすがに限度はありますけど……」
あまり画数の多い漢字がずらっと連なっているとさすがに身構えてしまう。だが、大抵のものは見ればすぐ判断がつくといっていいだろう。
雫はエリクが読んでいるドイツ語の副読本を指差した。
「それなんかは語学の教科書ですから平易ですけど、勉強で使っている専門書の原書とか、もっと酷いですよ。
 ドイツ語は単語だけじゃなく文も延々と繋げたりしますからね。ぎっちり十行くらい書かれてても一文とかあります」
やっぱり日本語もそうですけど、と付け足すとエリクは何故か笑い出す。珍しく声を上げて笑っている彼に、雫はきょとんとした。
「何ですか一体。私おもしろいこと言いました?」
「いや……苦労してる、って顔してたから」
「…………してますよ」
原書読解は教授か上級生、院生が主に担当しているが、だからと言ってただ漫然と聞いていていいものでもない。
最初から投げている一年生も多いが、雫は辞書を片手に毎回テキストにかじりついていっているのだ。
単語の意味を拾うだけでもやらないよりはましだ。頻繁に出てくるテクニカルタームはもう覚えてきた。
いずれは自分の力で訳せなければいけなくなるなら、今から努力しておいて損はないと彼女などは思っている。
―――― 思ってはいるが、大変なことは確かだった。
「そういう原書……は、持ってきていませんけど、それと比べれば教科書は読みやすいです。
 題材も皆が知っているようなものですしね」
「これは何について書いてあるの?」
「ハーメルンの笛吹きっていう童話についてです。私の世界ではメジャーなんですけど」
雫は簡単に童話についてエリクに説明してやる。町にはびこるネズミを笛でおびき出した男が約束された報酬をもらえず、代わりに町中の子供を笛の音で操って連れ 去ってしまったという話を。彼はずっと興味深げな顔で話を聞いていたが、話が終わるとパラパラと薄い本をめくって挿絵を見た。
「なるほど。これは童話なのか」
「それがテーマではありますが、本の内容自体はその事件の真相はどうなのか? って話なんです。
 八百年くらい前に子供がこの町で百三十人いなくなった、この事件自体は日付まで記録としてちゃんと残っているんですよね」
「原因は残っていないの?」
「謎のままです。諸説あるんですけどね。実はいなくなったのは子供じゃなくて移民だったとか。
 ……この本では子供たちは山に遊びに行って、次々と底なし沼に落ち込んでしまったんじゃないかとか書かれてました」
「ぞっとしない話だね」
彼の感想には雫も同感だ。一体何があったのか、それは今でも様々な説が飛び交うミステリーと言っていいだろう。
だが、八百年も昔のことの真相が今更明らかになるとは思えない。人の世の長い歴史には少なからずこういった怪奇事件が含まれているものなのだ。
―――― ちょうど彼らをファルサスへと向かわせる切っ掛けとなった二百四十年前の怪奇事件が、その真実を明らかにしていないように。
ほとんど表情の変わらないエリクもまた、同じ事を考えていたらしい。雫の視線に気づくと「八百年前に比べれば、調べやすい」と苦笑する。
それは間違いのないことであろう。少なくとも事件の魔女についての記述を消したファルサスは何かを知っているはずなのだ。
もし、人の記憶を現実化させるメカニズムをファルサスが掴んでいるのなら、雫は自分の記憶を使って元の世界へと戻れる……という可能性もあるだろう。
不確かな、けれど縋るしかない期待に息を詰めた雫は、お茶と共に重苦しさを嚥下した。真向かいに座る男に向かって笑ってみせる。
「あの事件では行方不明者は別の場所で発見されましたけど……見つからなかった事件とか、あったりするんですか?」
「あるよ。そういう事件はいっぱい。原因が分かっているものも分からないものもある」
「分かっているものって何だったんですか!」
つい好奇心に目を輝かせた少女にエリクは苦笑した。ドイツ語の本を閉じ、一本指を立てて空中を指差す。
「他国の陰謀とか自然現象とか色々あるけどね。ああ、禁呪もあるな」
「禁呪?」
「使っちゃいけない魔法の総称だよ。魔法の製作過程に問題があったり、効果に問題があったりするものをまとめてそう呼ぶんだ。
 なかでも人の血肉や魂を触媒として使う類のものは非常に忌まれている」
「うわぁ。黒魔術って感じですね」
エリクは「黒魔術」という単語が可笑しかったのか口元を緩めかけたが、すぐに真顔に戻った。
「昔の暗黒期……戦争の時代は頻繁に研究されてたとも聞くんだけどね。暴発したり損害が大きすぎて大変だったらしいよ。
 それで国一つ滅びたって話もいくつか残ってる。今は、禁呪って聞くだけで魔法士は皆嫌な顔をするな。邪法も邪法、禁忌そのものだからね」
そう言うエリクの表情もどこか翳を帯び、陰惨なものを思い起こすような貌である。
何事にも裏の面はあるのだ。よいことばかりなはずがない。この世界を支える魔法に、禁呪と呼ばれるものがあるように。
その一端を垣間見てしまった雫は自分の意志とは関係なく、悪寒が背を走るのを感じたが、今はまだ彼女にとってそれは関係のないところの出来事に思えていた。
彼女はエリクが読んでいた副読本を手に取る。何気なく捲ったページには、笛を片手に持った男が三日月型に口を開いて笑っていたのだった。