禁じられた夢想 032

禁転載

いつの間にか、椅子に座っている。
雫はそれを疑問に思いながらも、疑問に思わなかった。
まるで自分が自分ではないかのように、何の驚きも躊躇もなく一つの椅子に座っている。
それを何処かでおかしいと思う自分が存在しているだけだ。
周囲には他に何もない。白い床がどこまでも四方に広がっている。誰もいない。雫の他には。
「彼女」は手を伸ばす。目の前にある机に。そこに置かれた三冊の本に。
―――― 前にも、こんなことがあった。
微かな疑問はしかし、一瞬で泡沫のように消え去る。
女の指は迷いなく紅色の表紙を捲り、ページに目を落とした。
「……それは、針の穴ほどの小さな綻びであった。人の魂の最下部の生まれし処、世界の深層へと繋がる綻び。
 開くはずのない小さな穴は、まるで間違いのように、そして必然として生まれた。
 穴を覗いた最初の男は取り込まれ、二番目の男は狂った。
 三番目の男はこれこそ魂の源泉、人の真であるとして、穴から這い出ずるものを神と呼んだ……」
文字はどこまでも続いていく。
「彼女」はそれを追い、ただ辿っていく。
始まりも終わりもない夢は、円環のように閉ざされていた。

「起きて」
「うひゃあ!」
男の声はごくごく耳元で囁かれた。突然の呼びかけに机に突っ伏して転寝していた雫は飛び起きる。
反射的に耳を押さえながら辺りを見回すと、そこは宿屋のエリクの部屋だった。
確か、午前中から勉強に来ていて……彼が審査結果を見に行くと行って出て行ったところまでは記憶があるから、その後居眠りをしてしまったのだろう。
「疲れてるの? 結構何度も起こしたんだけど」
「す、すみません。何か変な夢見てたみたいで……」
続けて「審査の結果はどうでしたか」と聞こうとして、彼女は自分からそれを聞いていいものかどうか躊躇った。
この世界ではどうだか知らないが、元の世界では受験結果などは人によってはなかなかデリケートなものである。
エリクがそういったデリケートさを持っているようには到底思えなかったが、相手から言い出すのを待つ方が無難だろうと雫は判断した。
案の定彼は数枚の書類を無造作に机の上に置いてくる。
「受かった。二時間後に荷物まとめて城内に来いだって」
「え! よかったです!」
「半分は君の力」
軽くノックをするように男の手が雫の額を二度叩く。何だかくすぐったさに雫は気恥ずかしくも笑ってしまった。
確かに自分には見えない構成の図を描くのは大変だったが、同時にこんな美しいものなら一度くらい見てみたいなとも思ったのだ。
その構成が城に評価されたことはやはり嬉しい。これで転移陣の使用許可も取れるようになれば、諸手を上げて喜べる結果だろう。
雫は寝ていた為、乱れた前髪に指を通す。いつの間にか随分長くなっている髪を、普段は視界にかからないよう適当に分けて、バッグに入っていたピンで留めているの だが、そろそろ切るか伸ばすか決めなければならないだろう。この世界にいつまでいるのか分からないが、長い髪が一般的というのなら伸ばした方がいいのかもしれ ない。彼女は机の上に転がっていたピンで再び前髪を留めると顔を上げた。
「どれくらいかかるんですか?」
「二-三日かな。多分、終わるまでは城の外には出られないと思う。その間君は一人になっちゃうけど、大丈夫?」
「あ、平気です。大人しくしてますから。果報は寝て待て、ですよ」
「まさか三日間寝続けるつもりなの?」
「三年ならさすがに無理ですが」
―――― そう言えば、ターキスと再会したことを彼には言っていなかった。単に言い忘れていただけなのだが、このタイミングで口にしてはエリクに心配をかけるだけだろう 。寝るのはともかく三日くらい宿に篭っていればいいのだ。軽く手を振る雫をエリクはじっと見つめていたが、問題なしと納得したのか頷いた。
「終わったら迎えに来るから、次は何処に行くのかその時教えるよ。ファルサス直通が無理でも、出来るだけ都合がいい場所に行けるようにするから」
「お世話になります」
「メアと離れないようにね」
念を押す言葉に先ほどのものとは別のくすぐったさを感じて雫ははにかむ。
まるで小さな子供になったかのようだ。もっとも世界自体の迷子である彼女なのだから、それはあながち間違っていないのかもしれない。
エリクがいなければ、もっと辛苦を舐めていたか、元の世界に帰ることを断念せざるを得なかったかもしれないのだ。これでは手を引かれている子供と大差がないと言わ れても仕方ないだろう。
それでも出来る範囲で足掻いてみることもまた必要に違いない。彼女は本当の子供ではなく、自分の力で歩きたいと思っている人間なのだから。
二人は宿の食堂で早めの夕食を共にすると、束の間の別行動へと別れていく。
城へと向うエリクを見送った雫は、ここが異世界であるというだけではない心細さに瞬間気を取られたが、それを表に出すことはしなかった。
「よし、留守番頑張ろうね、メア」
主人の声に使い魔は応える。
意識して明るく保たれた声はしかし、この国に生まれつつある不穏に対してあまりにもささやかな灯火でしかなかったと、後から彼女は知ることになるのだ。

城が臨時で魔法士を集めるということは極めて珍しいことだが、まったくないことでもない。
宮仕えとなる魔法士を選別するのではない、構成力に重点を置いた審査からして、エリクは複数人で大規模構成を組ませる事がその目的ではないかと踏んでいた。
大規模構成であれば、他の魔法士と構成を繋いで揃える技術が求められるし、何より人数自体が大前提として必要になるのだ。
着手するものが城都の結界の張り直しなどであれば、構成に使う魔力自体は既にあるものを基にするであろうし、そのあたりは既に調節済みなのであろう。
ともかく審査に通ったのなら与えられた仕事をさっさと済ませてしまおうと思う彼は、魔法士たちが集められた部屋の隅で欠伸をかみ殺しながら、読み上げられる合格 者名簿を聞いていた。二人を除いて全ての採用された者が集まっていることが確認されると、責任者らしい男が代わって前に出てくる。
「よくぞ集まった、諸君。―――― 諸君にはこれから大規模構成の施術に取り掛かってもらう。
 作業は五班に分けて行い、城の魔法士がそれぞれ監督としてつく。分からないことがあったらそれぞれの責任者に尋ねるように」
男は他にも作業終了までは城に泊り込みになることと、外への情報流出を禁じるなどいくつかの注意事項を伝達したが、そのどれもがエリクの予想の範囲内だった。
最後に「報酬については作業終了後に各自と相談の上、決する」と男が締めくくると、集められた魔法士たちは五人の宮廷魔法士たちに先導され別々の場所に連れられ ていく。そのことに少し訝しさを感じた者もいるようで彼らはきょろきょろと周囲を見回していた。 大規模構成を担当ごとに班分けするとしても、まさか場所までそれぞれ変えて行うとは考えていなかったのだ ろう。エリクも城の用心深さに何も感じないわけではなかったが、王族や貴族の間にはそう言った徹底した秘密主義があることもまた、彼は知っている。
そして、エリクたちの班が案内されたのは城の地下にある広間の一つだった。

薄暗い広間は壁に灯された燭台の火によってぼんやりと照らされている。
広さは城下町の店が四、五軒入るくらいだろう。石畳の床には既にうっすらと平面の構成図が描かれていた。これを基線として構成を形成しろということらしい。
おおよそ広間いっぱいに広がる円になっている構成図は、中央の床に五つの水晶球がはめこまれていた。そこからは巨大な魔力が感じ取れる。
十人の魔法士を引率していた男は、彼らを円状に線の上、等間隔で要所に立つよう指示すると持っていた書類を広げ配り始めた。
「これが今回諸君らに組んでもらう構成図だ。それぞれの担当部分だけの記載になるが、第三から第二五系列までは左右と、
 第七と第三一系列は対角と繋がるようになっている。位置関係を把握しながら構成を組むように」
エリクは渡された構成図の断片に緊張を覚える。構成が難しいというわけではない。大役に気が引き締まるというわけでも。
ただ、予想以上の徹底振りに不穏を感じ取ったのだ。
全体の構成図を渡さないのは機密上当然としても、一人一人違う断片を渡すというのは相当な用心だ。
これはもしかして、構成完成後にその秘密を洩らさせない為というより、「組んでいる最中に何の構成であるか悟らせない」為のものではないか。
一体何の構成を形作ろうとしているのか、彼は薄ら寒さを背筋に感じる。
だがエリクの懸念とはまったく関係なく、引率者は全員に構成図を渡してしまうと、尊大に部屋の中央に立った。
「魔力は中央の水晶球に蓄えられているから、そこから汲み出して使えばよい。席を外したい場合は兵士をつけるから申告するように。
 何か質問はあるか?」
声を上げる者はいない。
男は全員を見回すと軽く手を挙げ、それを下ろす。
複数の詠唱の声が響き始めた広間で、エリクはもう一度与えられた構成に目を通した。中性的に整った顔立ちが僅かに顰められる。
だが彼はひとまず己の懸念をよそにやると、自分もまた構成を組む為に詠唱を始めたのだった。

魔法着を着た女が一人、街の物見塔の上に立っている。
纏め上げていない長い髪が風に煽られ蛇のようにうねった。妖艶な唇が愉悦の形に湾曲する。
広がる城都の街並みを高所から一瞥する彼女は、都の中央にある城に視線を合わせると笑みを浮かべた。
「動き出したか。長くて三日で完成……というところか?」
城の地下、密やかにゆっくりと動きつつある魔力から彼女はそう計算する。長い指が髪をかき上げた。
彼女の居る塔の屋根のすぐ下には、一人の黒尽くめの男が片膝をついて控えていたが、男は彼女の問いかけにも無言のままである。
女の方も、もともと返答を求めていないようで、気を悪くすることもなく楽しげに小首を傾げた。
「さて、この街の何人が無事に己を保てるか見ものだな。全員が飲まれてしまうならそれはそれで一興だが」
女は片手に抱え込んだ厚い本を持ち直す。皮で出来た深い赤の表紙は金の装飾で縁取られており、まるで城の蔵書のような貴書の体裁を備えていた。
それが何であるか、知っている者はほとんどいない。今の所有者である彼女さえ完全には掴みかねているのだ。
だが、それをどう使うかはもう決めていた。彼女は題名の書かれていない背表紙に目を落とすと、喉を鳴らして笑い始める。
「……暴けばいいのだ。記録にない歴史も、起こっていないことでさえも全て。―――― その果てにこそこの大陸は生まれ変わる。
 磨かれぬ石などに価値はない。あらゆる可能性を乗り越えた者のみが、次代を担う資格を得る。これは、その始まりだ」
女は白い両手で本を抱き直す。赤みがかった茶色の瞳が煌き、妖しい光を帯びた。
風が城に向って吹いていく。それは女の言葉を空気に溶け込ませたが、受け取ることの出来るものは誰もいなかった。