禁じられた夢想 033

禁転載

日が急速に暮れていく。
朱が空の片端を染めたと思ったのはほんのいっときで、すぐに世界は透明な黒へと色を変えつつあった。
自室に戻った雫は窓から外に視線を転じる。遠くには半ば影となった城の姿が街の灯に照らされ浮かび上がっているのが見えた。
そう言えば、この世界に来て一人で夜を過ごすのは初めてかもしれない。
勿論寝室に戻れば一人なのだが、同じ屋根の下に知っている人間がいないということは今までなかった。
そんなことを考えながらお茶を啜りかけた雫はしかし、すぐに自分の勘違いに気づく。
一人ではない。メアがいるのだ。ここのところずっと小鳥の姿のままだったので、何だか本当は少女の姿であったことを忘れそうになっていた。
「部屋の中だし、他に誰もいないから戻ってもらってもいいかな……駄目かな」
そんなことをつい尋ねてしまったのは心細さの為だろう。テーブルの上に佇む小鳥は首を傾げる。
穏やかに二人過ごすはずの夜。―――― けれど、メアに異変が見られたのはその時だった。
彼女は小鳥の姿のまま、窓辺に飛び移ると鋭く鳴いた。緑の両眼がぼんやりと光を帯びる。
普段は見られない様子に雫もまた慌てて立ち上がった。
「ど、どうしたの。怒った?」
しかしメアは鳥の姿のまま首を左右に振る。雫は困惑しながらも床に両膝をつくと、使い魔と目線を合わせた。
緑の双眸が睨む方向を自らもまた目で追ってみる。そこにあったのは――――
「あ……お城?」
小鳥は肯定するように小さく鳴く。その体を両手で抱き上げて……雫は困惑に立ち尽くした。
城には勿論エリクがいるはずだ。なのにメアはその場所に向けて警戒を働かせている。
何が起き始めているのかまったく分からない現在、けれどカンデラの城都に生まれつつある混沌は着実に彼女をも巻き込もうと、 見えない手を伸ばしつつあった 。

多人数で同時に魔力を汲み出しそれを慎重に構成と為していく作業は、まるで糸を紡いでレースを編む作業のように慎重さを必要とした。
エリクは自分の担当部分を組みながら周囲の魔法士にも注意を向ける。彼らが作る構成から全体構成の効果を推察できないかと思っているのだ。
しかしおおよそ五十人で分担して組んでいる構成は今のところよく全体像が掴めない。やはり完成に三日ほどかかるという代物を、始まってから数時間で読み解こうというのは無理があるだろう。彼は見張りの宮廷魔法士に不審に思われないよう詠唱を途切れさせぬまま、内心溜息をついた。
害のない構成ならば構わない。むしろ探ろうとする行為自体が不要なものだろう。それで宮廷魔法士に目をつけられたらたまったものではない。
ただもし、この大規模構成が、いわゆる「禁呪」と呼ばれるものに属するのならば…………その時は何としても、完成を妨げねばならない。
禁呪とは魔法の負の側面そのもの、あってはならない存在だ。
かつて戦乱が大陸に蔓延していた暗黒時代には、禁呪を生み出し、その取り扱いを誤って自ら滅びる国も少なくなかった。
それも全て、力が何事にも優先するという意識が触れてはいけない領域に人の手を伸ばさせていたのだろう。
かつての愚かしい繰り返しを今、させるつもりは彼には なかった。
自分一人何が出来るのか、そう囁く冷静な部分も彼にはある。
だが、普段は理性の声に従うことができても、禁呪についてだけは無視することは不可能だった。ましてや今彼は、その構成自体に関わっているのだ。
エリクは場に満ちる魔力を手繰って形と為していく。
今、彼の不安を形作っているものが全て杞憂で、三日後には元通り宿で彼を待つ少女の元に戻れればいいのにと、思いながら。

傭兵であるターキスには魔力の流れなどは分からない。
だから彼が不穏を感じ取ったのは単に、宿の窓から見下ろせる路地を複数の男たちが走っていった、それだけの光景によってのことだった。
いくつもの戦場や修羅場を経てきた彼には、男たちが武器を帯びていることと何かの統率によって動いていることくらいは見てすぐに分かる。
騒動の気配を感じ取って彼は座っていた椅子からゆっくりと立ち上がった。
「何だ何だ。大きな戦闘でもあるのか」
彼は楽しそうに独りごつと、男たちが走っていった方角を見定める。その先には見紛うことなきカンデラの城がそびえていた。
「ふぅん?」
雫は何も言っていなかったが、彼女たち二人がこの城都に数日間滞在しているということは、城の魔法士審査が関係あるのだとターキスは推察している。
その審査結果はもう出ていたはずだ。ならば彼女を連れている魔法士の男は今頃城内にいるのかもしれない。
ターキスは斜めに窓の外を眺めて計算を巡らす。
外の空気に潜む見えない騒ぎの種一つ一つが、彼の高揚を煽ってくるような気がした。

「話が違う!」
ターキスが武器を持った男たちを目撃する一時間程前、城都のとある場所では焦り混じりの怒鳴り声が壁を揺るがしていた。
拳を激しく叩きつけられたテーブルの上では、黒い蛇の像が振動の余韻でカタカタと震える。
だがしかし、怒鳴られた側の女は表情も変えずに、軽くそれを受け流しただけであった。
「違うとは? 何が違うというのか」
「あの構成だ! あれは精神支配の禁呪ではなかったのか!?」
「さぁ……。私がいつそう言ったか、主教に聞いてみてはどうだ? お前の望む答を返してくるとは限らんが」
白々と言い放つ女に男の顔色はますます赤黒くなった。憎しみも顕な目で女を睨む。
女は長く伸びた爪を一本一歩磨きながら、小さな硝子球を通した睫毛を上げた。
「精神支配……精神支配ね。確かにそれもあるから間違ってはいない。お前たちの希望通りではないか」
「我らの希望はシューラ神によるこの国の啓蒙だ! この国を滅ぼすことではない!」
「啓蒙? 精神支配をいつから啓蒙と言うようになったのだ。奇異なことを言う」
揶揄を隠そうともしない声は艶以上に嘲りが溢れていた。そしてそれは女の嫣然とした微笑により磨きをかけていく。
彼女を花と例えるなら、それを見た人間は花弁よりも棘の方が遥かに魅力的であると気づくであろう。もしその忌まわしさを無視できるのであれば。
「お前の戯言などどうでもいい、アヴィエラ! 一体あの構成は何なのだ! 何が起こる!」
再三の怒鳴り声にアヴィエラと呼ばれた女は爪を磨いていた手を止めた。布を放り出すと長い十指を伸ばし、テーブルの上の蛇の像を手に取る。
「大したことではない。お前たちの望み通り精神支配も行われる。それ以上の望みもな。
 ―――― 【アレ】がこちらに侵蝕する。それだけのことだ」

男は絶句した。
その答を予想していなかったわけではない。だが、そんなことは今まで一度も「起こらなかった」のだ。
不可能なことだと思っていた。なればこそ信仰を越えて制御しきれない震えが彼の足を伝う。男はかすれた声で問うた。
「現出が起これば……この国はどうなる」
「分かっているのだろう? 《三番目》の子らよ。あれと接触した者がどうなるのか、お前たちはよく知っているはずだ」
アヴィエラの声は死を宣告するものによく似ている。
その意味するところをよく知っているからこそ、男は顔色を失った。
「まさか……《一番目》や《二番目》になるというのか……」
軽い笑い声が男の言葉を肯定した。彼女はシューラ像をテーブルの上に放り投げる。
鉄で出来た像は耳障りな音を立てて木の板の上を転がった。だが男は最早それを不信心と咎められない。彼は女につめよった。
「馬鹿な! それでは本当にこの国は滅ぶぞ!」
「だが一人くらいは残るかもしれない。【アレ】に精神を侵されない人間がな」
「それがお前だとでもいうのか!」
「いいや?」
彼女は首だけで後ろを振り返る。そこには黒衣の男が彫像のように壁際に立って控えていた。
アヴィエラの他に誰もその正体を知らない、彼女に付き従う男。
見たところ武器の類は持っていないが、ただならぬ雰囲気は彼女に何かあればいつでも動き出すことを無形の圧力だけで示唆してきている。
怒りと困惑に熱くなっていた男は、その気配に気圧されて口をつぐんだ。よろめくように二歩下がると、しかし諦めきれないのか口を開く。
「私は、止めるぞ……」
「好きにすればいい。その足で駆けていって城門を叩くか? 王は信じぬであろうな、あの構成がこの国を滅ぼすなどと」
むしろ、何故構成のことを知っているのか、男を捕らえて詰問するに違いない。もっと言えば口封じに殺してしまう可能性の方が高いだろう。
だが男は険しい目を崩さぬまま、無言で身を翻すと部屋から出て行った。後には二人の男女だけが残される。
乱暴に閉められた扉の余韻が止み、静寂が部屋中に広がるとようやく黒衣の男は口を開いた。
「いいのか、アヴィエラ」
「構わん。どうせ何もできない」
「ならお前ももうこの国を離れた方がいい。結果は離れた場所からでも分かるだろう」
女は黙って微笑んだだけで動こうとはしなかった。妖艶な視線がテーブルの上の蛇の像を絡め取る。
黒い蛇は、何もはまっていない眼窩を部屋の片隅に向けて、沈黙を保ったままだった。

荷物をまとめる。本は丁寧に揃えてバッグの最下部に詰め、その上に大して量のない服を押し込んだ。
小物の類はサイドポケットに。もともと旅をしていた為、荷物は多くならないよう努めていた。雫は指輪を確認して窓際の小鳥に頷く。
「いいよ。ちょっと行ってみようか」
エリクの荷物は宿にはない。彼の部屋は城に向かう時に引き払っており、荷物は本人が持っていっている。
だから、雫が自分の荷物さえ準備できればいつでも出発できる状態ではあったのだ。
このまま街を出ようという程の気持ちがあったわけではない。ただ、城で何か起こっているなら様子を見に行ってみようと思った。
荷物をまとめたのは「もしかしたら」と思っただけに過ぎない。メアがあまりにも注意を促すものだから。そしてそれが結果的には幸運に働いた。
雫はメアを肩に乗せると宿の部屋を出る。階段を駆け下り、入り口へと向った。
しかし、角を曲がりかけたところで彼女は思わず足を止める。そのまま後ずさると慌てて廊下の影に隠れた。
宿の入り口、大きく開かれたそこにはちょうど、剣を帯びた険しい顔の兵士たちが五人程、辺りを窺いながら入ってくるところだった。