禁じられた夢想 036

禁転載

至極平凡な人生を送ってきた雫は、元の世界において爆発音を聞いたことなど一度もなかった。
火事に出くわしたことさえないくらいだ。しばらく前にメアが塔を破壊した時は音がしたのかもしれないが、必死だったせいかよく覚えていない。
その為彼女は打ち上げ花火を十発程まとめて上げたような重い音に、思わずびくっと身を竦めてしまった。
「……どーん?」
いささか間抜けに言い直してみたところで事態は変わらない。雫は肩の小鳥と顔を見合わせると、恐る恐る建物の影から城の方角を覗き込んだ。
暗い上に遠いせいかよく分からない。煙も上がっていないし、火はついていないようだ。ただ静まり返っているかといったらそうではない。
爆発を聞いた人間が他にもいるのか、街は徐々に喧騒を帯びつつあった。
「い、行ってみようか」
雫は真っ直ぐ城へ向う道に爪先を向けると、様子を見ながら走り出す。時折建物の影に身を隠すようにしながら、着実に距離を縮めていった。
夜でも薄明るく照らされている城が徐々に大きくなる。微かに聞こえる金属を打ち鳴らすような高い音に彼女は首を傾げた。
窓から顔を出している人間はいるが、外にまで出て様子を窺おうという人間は少数でしかない。雫はそんな人間たちの間を縫い、窓の下を通り過ぎる。
城壁はもう目前だ。周囲には爆発の痕も、兵士もいない。彼女は高い壁を通りの向こうに確認しながら、正門の裏に向って壁と平行に走り出した。
微かにしか聞こえなかった金属音が次第に明瞭になる。
「きんきん?」
どうにも雫が言い直すと、間の抜けた効果音になってしまう。
だが、本当に何の音なのか分からないのだ。彼女は頭の中で、刀鍛冶が金槌で熱された鉄を規則的に叩く情景を思い浮かべた。
緩やかにカーブする城壁に沿って足を進める。飛ぶようにとまでは行かないが、彼女の本気の八十パーセントくらいだ。
しかし、のってきた勢いのまま走り続けようとした雫は、耳元に鋭い鳥の鳴き声を聞いて慌ててブレーキをかける
止まりきらない足で三、四歩進んだ。
たったそれだけの距離だ。
だがそこはもう―――― 戦場だった。

鋼が光を反射して白く煌く。
宙を切るそれと共に、またもや金属音が鳴り響いた。
雫は唖然と立ち尽くしてそれを見つめる。
現実を認識する為の数秒間を経て、彼女はようやく今まで自分が聞いていたものが剣戟の音だと理解した。
先ほどの爆発音はこれだろうという崩れかけた城壁。そこから走り出てきた兵士たちが、黒尽くめの男たちと戦っている。
怪我を負い膝をついた者の頭部に容赦なく振り下ろされる長剣を見て、雫は思わず両目を瞑った。短い悲鳴だけが耳に残る。
数秒経って薄目を開けてみると……男は既に倒れ伏していた。割れた頭から何かが流れて出て地に広がっていく。その体を別の男が踏みつけていった。
初めて見た光景。それは、暗さに覆われていても充分凄惨なものだ。
耳のすぐ傍で唾を飲む音が聞こえる。それが自分のものだと気づくのに時間がかかった。
棒のようになった足が震える。
熱かったはずの体が一瞬で冷え切った。

 ここは、どこなのか。
 なにが、おきているのか。
 友達は、家族は、どこにいて、自分はどこにいて、なぜ、こんな、こわい、おかしな

頭の中に言葉が溢れる。
断裂した単語が連なる。
目を見開いた雫は恐怖から踵を返そうとした。何かを考えていたわけではない。そうするしかなかった。
だがその時、目の前に逃げ出した男が倒れこんでくる。
暗くてよく見えない。だが血の臭いと助けを求めるうめき声だけは否定しようがない程、現実だった。
雫は男と目が合う。そこには紛れもない苦痛以外の感情が浮かんでいた。

―――― ああ…………人だ。

雫は男のすぐ傍にしゃがみこむ。考えるより先に体が動いた。
「た、たすけるから」
逃げ出したいと思うのが人間の本能なら、助けたいと思うのは人の本能なのかもしれない。
彼女はハンカチを取り出すと、男の脇腹にある傷を探して押し当てる。鼻をつく生臭い血にこみ上げてくる吐き気を堪えながら、力を込めた。
汗が額から滑り落ちていく。
このまま、どうすればいいのか。
救急車などない。医者なら治せるのか? 分からない。
魔法は使えない。エリクがいないから。彼は無事でいる? それも、分からない。
怖い。
何も、出来ない。
逃げ出すことも、できなかった。
誰かがゆっくりと近づいてくる。剣を手に、恐ろしい形相で雫とその傍の男を睨みながら。
雫は気配に気づいて顔を上げる。兵士の格好をした男は、緩慢な動作で剣を振り上げた。
まるでスローモーションだ。
自分の体も、とても重い。
庇おうか、と思った。
自分は怪我がなくて、目の前の男は重傷なのだから。
覆いかぶさればいい。そうすれば、きっと。
けど。思ったのに。手が動かない。足も、頭だけが空回りして。
メアを。ああでも、こんなことは――――

強い衝撃を受けて雫は後ろに転んだ。
今まで呻きながら地にはいつくばっていた男が、彼女を思い切り突き飛ばしたのだ。
彼女の黒い目を一瞬だけ見返して、そして男は目を閉じた。間断おかず、その背に追いついてきた兵士の剣が突き立てられる。
「―――― 待っ……!」
何も止まらない。スローでも何でもない。
時は平等に進んでいく。
背を貫通して胸を串刺された男は、陸に打ち上げられた魚のように一度大きく痙攣して…………動かなくなった。
雫はしりもちをついたまま男を殺した兵を見上げる。
まだ若い兵士の顔は、苦渋と興奮の入り混じった―――― 人間の顔だった。

後から思えば、一つのチャンスだったのかもしれない。
高い壁は壊され、場は混乱に満ちていたのだから。
闇の戦闘を縫って城内に忍び込むこともできただろう。死と戦いに慣れた者であったなら。
しかし雫はその対極にある人間だった。地面に座り込んだまま、ただ目の前に立つ兵士を見つめている。
―――― ここで、死ぬかも。
そう思ったのは、若い兵士が逡巡しながらも彼女に向かって剣を構えた時だ。
今まで、自分が不意に死ぬこともあるかもしれないと思ったことはあったが、「殺されるかもしれない」と思ったことは一度もなかった。
縁のないことだったのだ。どんな悲惨なニュースを見ても、それは遠さを拭えなかった。
だが今、それはとても近い。
目の前だ。人の形をとって彼女に現れた。
けれどそれは飲み込めないままで……この現実を理不尽だとさえ思わない。
ただ、「大学に本を返せなくなったな」ということが少し申し訳なかった。

雫は目を閉じる。
怖かったから。
それだけしか出来なかった。
声も出ない。
怖いから、待った。

金属の打ち合う高い音。
それはすぐ近くで炸裂した。
雫は反射的に耳を押さえる。
目を開けた。まだ夜。暗い。けれどそれははっきりと見える。
兵士の驚愕の顔。
彼女の眼前ではその時、二本の剣が交差していた。

「女の子を問答無用で切りつけようってのは、衛兵のすることじゃないな」
余裕に満ちた軽口は聞き覚えのある男の声で作られている。雫はその声に我に返ると、慌てて後ろに下がり立ち上がった。
自らの剣を以って、兵士の剣を防いだ男は首だけで振り返る。
どこか胡散くささの否めない、けれど親しみが持てなくもない笑顔がそこにはあった。
「さて、雫。夜遊びはほどほどに、だ」
ターキスは言いながら剣ごと兵士の体を押し戻す。
バランスを崩した兵士がよろめくと、彼は追い討ちをかけるように大振りで剣を揮った。兵士は慌てて飛びのく。
けれど、追撃を警戒したのであろう若い兵は、直後ぽかんと口を開けて立ち尽くす羽目になった。
突然現れた男は、庇った少女の手を引いて笑いながら城とは逆方向に走り出したのだ。
みるみる遠ざかる城を走りながら振り返って雫は顔色を変える。
「え、ちょっと、ちょっと」
「戦略的撤退。話はお茶でも飲みながら聞くから、今は真剣に走れ」
頭の中はこんがらがっていたが、ともかく助けてくれた男の言葉である。雫はひとまず足を動かすことに専念した。
二人を追って来る者はいない。剣戟の響きは遠ざかっていく。
しかしそれでも暗い夜の中にはそこかしこに死が転がっている気がして、彼女はやりきれない思いを堪えたのだった。

宿屋に少女を確保しに行った兵が空振りで返ってきたと報告を受けた時、イドスはもう一つのもっと腹立たしい報告に眉を歪めているところであった。
問題の禁呪について指摘をしたという魔法士、その男がいずこともなく消えてしまったというのだ。
イドスが兵を手配し、男を捕らえようとした時、既に男はいるべき地下の広間にはいなかった。
「忘れ物がある」とふらっと出て行ったっきり行方をくらましてしまったのだ。
このまま問題の魔法士を逃がして王の耳にでも話が入っては不味い。イドスは慌てて城中を捜索するよう兵士たちに命じた。
しかし、その命もまたすぐに覆さざるを得なくなる。
魔法による爆発と共に城壁が破られ、何者かが城に攻撃をしかけてきたという報告が入ってきたのだ。
「忌々しい……っ! さっさと片付けろ! 城には一歩も入れるな!」
もしこの時イドスが最前線まで行って状況を見極めようとしたのなら、侵入を試みる者たちが自分のかつての同志であると分かったかもしれない。
けれどこの時彼は、侵入者のことを「逃げ出した魔法士の男が禁呪を止める為に手配したのだ」と思い込んでしまった。
「禁呪を止める為」という目的は確かに一致していたのだが、実情にはほど遠い。
これによってイドスは、襲撃者を「敵」と認識し、城内から指揮を取り続けることとなる。
全てを知るのはほんの数人。しかし彼はその中に入らなかった。

「なかなか混迷しているな」
アヴィエラは窓の傍に立って街を見下ろしていた。火は上がっていないが、弾ける魔力に何が起こっているのか容易に推察できる。
予想通りと言っていい戦闘に彼女は美しい微笑を見せた。椅子に座ったままの老人はくぐもった笑い声を上げる。
「セルーを炊きつけたか。妖女はげに恐ろしいものだ」
「争いがあった方がいいだろう? 私は力で自分を通す機会を与えてやっただけだ」
「何もなければ安寧のまま狂えたというに。残酷な遊びをしおる」
フードの中に体を埋没させた主教は言葉を煙のように燻らせた。女は片眉を上げてわざとらしく驚いてみせる。
「どちらが残酷なのやら。信者たちをも欺いて禁呪を組ませたのはお前だろう?」
「かつての信者ならみな喜んで神の為に身を捧げたものだ。だが今はどうだ? 信仰は街に広がったがその分浅くなってしまった。
 儂は皆に原点に戻れと、そう教えるだけだ」
アヴィエラの背後に控える黒衣の男は、主教の言葉に僅かに目を細めた。しかし彼は何も言わない。代わりに女が艶のある唇に言を含む。
「原点と言えば原点であろうな。『負の海』は」
「切り離せぬものを見てみぬふりなどできまい」
「だから皆が自分と同じものを見るべきだとでも言うのか?」
訪れた沈黙は、泥濘にも似て部屋に沈殿しているようだった。
老人は目を閉じている。女は本を手に笑っていた。白い指が表紙の金細工をなぞる。
「終幕はもうすぐだ。主教様はそれまで隠れているのか?」
「最後になれば出る。儂の神を迎える為にな。
 ―――― お前はもう行くのだろう? アヴィエラ」
「ああ」
「世話になった、と言うべきか。お前のその本がなければ、精神を操るだけの禁呪を真の禁呪とすることはできなかった」
長い時間をかけて、代々の主教たちは陰謀の根を張り巡らせてきた。
人々の間に信仰を浸透させ、城に人を送り込み、徐々にこの国を支配下に置こうとしていたのだ。
城が長年慎重に所蔵していた禁呪は、百年前彼らが持ち込んだものだ。発動すれば街の人間の精神はみな、術者の支配下に落ちる。
だがその構成は土壇場で「書き換えられた」。アヴィエラの深紅の本をもとに、主教はイドスに命じて構成を改竄させたのだ。
「最後に聞いておこうか……。その本は、一体何だ」
かつて起こった事が、そして「起こらなかった」事が書かれている本。人知を越えた禁呪さえそこにはいくつも記されている。
得体の知れない女の本を主教は怪しんでいたが、今までその正体を問うたことはなかった。
アヴィエラは自分が持つ本に視線を落とす。問いに応えたのか違うのか、本が微かに震えたような気がしたのだ。
窓の外に動くものを感じて彼女が硝子の向こうを見下ろすと、そこには男と、手を引かれる少女の二人が走っていた。
さして興味もない光景だったことに苦笑してアヴィエラは主教を見返す。手の中の本を掲げ、声を出さず嗤った。
「さぁ? きっとただの……人の記録さ」