禁じられた夢想 037

禁転載

城を襲う混乱から逃れでた雫は、ターキスに連れられるまま一軒の店に入った。
薄暗い店内はそれなりに混雑している。密やかな囁きがあちこちで交わされ、まるで波音のようだ。
各テーブルに置かれた蝋燭に照らされる客の顔は様々である。大人しそうな男、翳のある女、顔に傷があるごろつき。
煙草の煙とは違う甘い香が立ち込め、酒の匂いと相まって渾然とした空気を作り出していた。
場の雰囲気に飲まれそうになって雫は、一歩前を行く男に尋ねる。
「ここは……?」
「ん? 俺みたいな奴らの隠れ家だ。城の人間なんかはまず来ない」
ターキスは奥まった場所に空きテーブルを見つけると、まず雫を座らせ自分はその向かいに座った。
注文も何もしていないにもかかわらず二個のグラスが運ばれてくる。
「ほら、飲めばいい」
「何これ。お酒?」
「当然」
「未成年なんだけど……」
「もう十八だろ」
言いながら男は水でも飲むように琥珀色の液体を喉に注ぎ込む。
雫は得体の知れない飲み物を覗き込んだが、結局鼻の奥が焼けるような強い匂いに口をつけることはしなかった。
これが紅茶かコーヒーであったなら迷いなく飲んでいただろう。ともかく気を落ち着けたいとは思っていたのだから。
暗い店内を見回す彼女の脳裏に、先ほどの光景が甦る。
苦しみ、死んでいった男。殺した兵士。今まで見たことのない、けれど明らかに人間の姿。
泣くというほどには形にならない、けれど忘れることもできない倦んだ感情が、酒よりも熱く彼女の中を焼いた。
「落ち込んでるのか?」
「落ち込んでる?」
そうなのだろうか。このもやもやとした気分を「落ち込んでいる」と言っていいものなのか。
雫はテーブルの上に置いた自分の手をじっと見る。見慣れた十指は微かに震えていた。
容赦なくもたらされる死。
つい先ほどまでは彼女もまた死の縁に立っていた。何も出来ずにただ立ち尽くしてそれを見つめていたのだ。
これもまたこの世界の一つの姿なのだろうか。魔法が当然のように、殺意もまた当然だというのか。
目の前の男はああいう場面に慣れきっているらしく、いつもとまったく変わりがない。
ターキスは俯いたままの彼女に気がつくと、口のつけられていないグラスを少女の眼前へと押しやった。
「飲めよ。顔色が悪い」
「要らない。悪いけど、お酒は飲まないの」
「美味いのに勿体無い」
男は彼女のグラスを手に取ると無造作にあおる。豪胆な仕草に如実に自分との違いが見て取れて雫は表情を曇らせた。
自分一人では何も出来ないのだとは分かっていたが、これ程までとは思わなかった。
ターキスが現れなかったら、自衛さえせずにあのままあそこで死んでいただろう。エリクに会うことも、もとの世界に戻ることも出来ぬまま。
雫は顔の角度を変えると肩の上に止まったままの小鳥に視線を送る。
あの時、メアに頼めば死なずに済んだはずだ。力によってあの場を切り抜ける事も可能だっただろう。
けれど、土壇場で雫は躊躇ってしまった。
使い魔に命じた為半壊した塔を思い出し、そして自分を殺そうとする兵士の興奮と恐怖の顔を見て、命令を下したくないと思ってしまったのだ。
死にたかったわけではない。ただ臆病だっただけだ。怖くて選べなかった。
自分で進むことも出来ず、うずくまってしまっただけなのだ。
「……助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。大したことじゃない」
「大したことある」
雫はテーブルに両肘をついて頭を抱える。混乱し乱れたままの精神を何とか落ち着けようと深呼吸した。
今更目頭が熱くなってくる。だが、生まれかけた涙を雫は堪えた。
閉じた瞼の裏に、また白く光る剣がよみがえる。
それは感傷を差し挟めない、単なる現実だった。

怖かった。
助けて欲しかった。
だから、彼が現れた時に安堵した。
―――― けれどそんな自分が厭だと思ったのもまた本当。泣きたくなるのは自分の不甲斐なさのせいだ。
死は、全ての人を待つ結末だと知っている。人間は皆、死を待つ存在なのだ。
それを目の当たりにしたのは初めてのことで………………だが、それは決してこの世界だけの当然ではないのだろう。
自分が、自分の住む周囲が幸福だっただけで、流された血の量は無数の本の中にも記されている。
見たくなかったこと、いたたまれない現実であるのは、それが競争し生きていく人間の「当然」だということなのだ。

無力なことを自覚する。
まずはそこからだ。そして、今度は心構えをする。少なくともあんな風にうずくまってしまわないように。
雫はテーブルを睨んでいた視線を上げると、興味津々の目をしている男に向かって上半身を乗り出させた。指だけで遠くにあるであろう城の方角を指す。
「私、城の中に入りたいんだけど、あの壁が壊れたところから入れるかな」
「無理だな。あんななってちゃ一番あそこが警戒されてる。まずお前には無理だよ」
「そっか」
ならば別の場所か手段を考えなければならない。自分でも出来そうな、実現可能性の高い作戦を。
下働きの少女の振りをして入り込めないだろうか。頬杖をついて真剣に考え始める雫にターキスは人の悪い笑いを見せた。
「俺に頼まないのか? 手伝ってくれって」
「頼みたいけど、あなたって怪しいし、あなたには割りにあわなそうだから。何もお礼できないよ」
「色々お前について聞きたいことがある。それに答えてくれれば充分だが?」
雫は反射的に「答えられない」と突っぱねかけて止めると、男の要求をよくよく反芻してみた。
質問に答えるということはおそらく、自分の出自を明らかにするということだろう。
いまだかつて前例のない「異世界」から来た自分のことをこの男に教える。何か変わったことがないかと目を光らせているらしき彼に。
それはどういう未来を導くことになるのか。今この状況よりももっと厄介なことになるのか。雫は一つ一つ落ち着いて考えてみようと意識した。
自分は所詮無力だ。それは裏を返せば、彼女が何者か知ったとしても利用のしようがないということではないのか。

ターキスは建前を立てて繕おうとはしないにやにや笑いで彼女を見ていた。雫は少し考えると男を見上げる。
「質問は、いくつ?」
「言うなぁ、お前。……そうだな……三つもすれば充分じゃないか」
「三つか」
アラビアのランプの魔人も呼び出されて「三つの願いを」と尋ねる時はドキドキするのだろうか。
もっともお話の中に出てくる魔人は雫とは違って極めて万能だ。だからきっと駆け引きを楽しめるのだろう。こんな風に不安いっぱいにではなく。
「あなたに頼んだら本当に城に入れるの?」
「何とかするさ。俺は幅が広い傭兵だ」
「何でも屋?」
「はっきり言うな。それより早く決めなくていいのか? あの魔法士が心配なんだろう?」
何故知っているのか。雫は顔を顰めたが、そもそも彼女一人で死に掛けていたということからして分かりきったことなのだろう。
それより今、優先したいことは、エリクの安否を知ること。そして彼と合流し直すことだ。
ならば借りられる手は借りよう。雫は決心をつけると頷いた。
「分かった。その条件を飲むよ。だからお願いする」
「確かに。契約主殿」
男はもっともらしく答える。だが表情に稚気がありすぎて雫はいささか憮然とせざるを得なかった。
対等な取引だと思っているのに、まるで騙されているような気分になってしまうのだ。
そしてその不満は半分は的を得ている。
それを示すようにターキスは自分の正面、そして雫の背後に向って笑ったまま手を差し伸べた。
「さて、こちらの話はついたが……あんたたちの依頼はなんだ? 大体見当はついているが詳しい話を聞かないとな」
「え?」
雫は予期せぬ言葉に慌てて振り返り、そして驚愕に口をぽかんと開いてしまった。いつの間にかすぐ後ろには四人の男たちが立っていたのだ。
黒尽くめの男たちが三人、そして苦渋にまみれた顔をした壮年の男が一人、いずれも険しい表情でターキスを見据えている。
その服装はまさに、先ほど雫たち二人が「撤退してきた」戦場で見たものであり、兵士たちと戦っていた正体不明の集団と同じものだった。
「傭兵。お前なら厄介な仕事も引き受けてくれると聞いてきた。我らの依頼を受けるか?」
「話によるね。面白かったら考えるが」
夜は次第に更けていく。
前哨戦の終わりは密やかに。そして、より苛烈な混乱がカンデラの街の中、次第に頭をもたげつつあった。

遠くから廊下を複数の人間が歩いてくる硬い音がする。
エリクはそれを聞きつけると、手近な扉を開けて中に滑り込んだ。息を潜めて人の気配をやり過ごす。
「こういう時彼女がいればよかったんだけどね」
旅の連れである少女は方向感覚に優れていた。彼女がいたならば、彼も複雑な城の中、目的地を見つけやすかっただろう。
しかし、いない人間を望んでも仕方がない。今、これをやれるのは彼しかいないのだ。
地下の広間から逃げ出した時は、追っ手がかかるのだろうとは思ったが、他に何か問題でも起きたのか城内はざわざわと騒がしく、あまり真剣に逃亡した魔法士を探し ているようでもない。それどころではないらしいというのがエリクの読みだが、実際その推察はあたっていた。
城内は謎の襲撃の対応に追われて、たった一人の魔法士を探すような余裕はなかったのだ。
宿直の兵士たちは慌しく外庭に集まり、魔法士たちは構成中の禁呪を守る為に結界を張り始めている。
一旦は撤退した襲撃者たちがいつまた襲ってくるか分からない。緊迫した空気が城内には満ちていた。
夜にもかかわらず昼のように皆が起きているこの状況は、エリクにとってやりにくいと言えばやりにくいが、混乱しているということでもある。
事実イドスは既にエリクは外に逃亡したのだと思い込んでおり、彼の手引きによって襲撃が起きたのだと思っていたのだからこれは好機であろう。
時間はまだあと二日弱ある。充分間に合うはずだ。
彼はとりあえずで飛び込んだ室内を見回し、棚から新品の魔法士のローブを引き出すと、それを纏った。
おかしなところがないかざっと確認し、また扉の外を窺う。
「まったく……僕がまたこんな場面に出くわすとはね。これも君の復讐か? カティリアーナ」
遠い過去に向っての呟きは扉にあたって落ちて行く。
エリクは一瞬ひどく疲れた目をしたが、長いまばたきと共にそれを押し流すと躊躇いもなく扉を押し、一人廊下へと出て行った。