禁じられた夢想 039

禁転載

夜明け前の路地には明かりさえない。
ターキスの後について外に出た雫は、彼が突然足を止めたのに対し思わず背中にぶつかりそうになってしまった。
咄嗟に両手をついて顔から衝突するのは免れる。だがその分彼は突き飛ばされて一歩前によろめいた。振り返って白眼を注いでくる。
「……何するんだ」
「止まる時は止まるって言ってよ」
「いちいち言ってられるか。よし、止まったぞ」
「遅っ」
「その娘は誰だ」
突然の声はごく近くから響いた。地を這うような低いドスの聞いた声に雫は反射的に身を震わせる。
しかしターキスは全く動じず、いつもと同じ軽い調子で笑って返した。
「俺の別口の依頼人だ。無害だから気にするな」
まるで虫か何かのように言われて雫は憮然としたが、足手まといである自覚はあったので、せめて無害でいようと心の中で目標を唱える。
それをしながらターキスの体越しに暗い路地を窺うと、道の先は行き止まりになっており何人かの人間が集まっているようだった。
雫は何人がそこにいるのか目を凝らして確かめようとしたが、奥に行けば行くほど真の闇でありよく分からない。
しかしターキスはまるで全員を分かっているように平然と続けた。
「手はずは連絡した通りだ。三十分後に決行。夜明け後に第二手が動く」
「それまで生きていられればよいのだがな」
「城は広い。入ってしまえば何とかなるさ」
「だが、あの城は魔力的に異様な状態だ。中に入れば真っ先に食われるかもしれぬぞ」
姿の見えぬ人間から呈された可能性に、雫は分かっていたことだが深刻さを一層深める。
エリクは最初からその中にいるのだ。どうか無事でいてくれますように、と口の中で呟いた。
「中に入って食われるなら、城の人間も食われてるってことじゃないか? 禁呪ってのは『そういうもの』だと聞いてるぜ。人の制御のままならぬものだとな。
 それともこの国から逃げ出して本当にファルサスに助けを求めにでも行くか?」
揶揄というより稚気に満ちた問いかけに返答する者はいない。
先ほど懸念を口にした人間も単に事態をこの場にいる人間に確認させただけなのであろう。これからの戦いを前にして立ち去ろうとする人間は一人もいなかった。
ターキスは笑う。低い声には芯のように鋭いものが通っていた。
「異論がないなら各自位置に。―――― 滅多にない機会だ。楽しませて貰おう」
男の言葉に浮かび上がる高揚。
雫は遅ればせながらその時理解する。
この男は、こういう多くのものがかかった急場がおそらく好きなのだ。
一戦の勝敗で何もかもが変わってしまうような転換点に喜びを見出すタイプだ。
好戦的で挑戦的。常に自分が飛び込める「何か」がないかと探している。その一つが雫の存在で―――― そして今は、この依頼なのだろう。
危険な男だ。とりあえずは味方になってくれているが、油断できない人間であることは確かである。
雫はターキスに貰った剣の柄を見つめる。一度も抜いてみていないこの柄の先は一体どうなっているのだろうと、まるで悪寒に似た疑問が彼女の思考の表面を過ぎっていった 。

カンデラ城都に広く浸透しているシューラ信仰。その基本概念は『今を思え』である。
人の世は儚い。常に流動し、いつ何が失われ変わっていくか分からない。
だからこそ定かではない明日に期待を抱くより、現在を貴び最大限の努力をしろと、この信仰は人々に教えているのだ。
黒い蛇の神像は、信仰対象であり人の世を監視するというシューラ神をかたどったものだが、それが数百年前の暗黒時代に実在していた邪神、世界の底にあいてしまった穴か ら侵蝕してきた「負」と同一の存在を示していることを知る人間はほとんどいない。シューラ信仰の真実を知っている僅かな信徒たちを除いては。
時折、歴史の上に飛沫のように現れる邪教。数々の忌まわしい事件を起こしてきた信仰の、その本当の理念は―――― 『絶望を知れ』なのである。

城への侵入はいくつかの陽動と共に行われる。
それだけを雫は聞いていたが、実際にどんな陽動がいくつ行われるのかは知らなかった。
動員される人数も先ほど路地にいた人間が全てではなく、彼らはそれぞれの集団のリーダーなのだという。
何だか怖気づきそうな程、大掛かりな話になってきているが、城へ攻撃をしかけるというのだからこれでもまだ心もとないくらいなのかもしれない。
雫は城から二本離れた道の路地裏にしゃがみこんで空を見上げながら「その時」を待っていた。
周囲には武装した男たちがいる。兵士などにはないくだけた印象は、彼らがみな金で動く傭兵だからだろうか。ばらばらの服装を彼女はぼんやりと見やった。
一番奥には一人の女が座している。剣を持っていない彼女は魔法士であり、今回の侵入の最重要人物だ。
詳しいことは分からないが、陽動が城の結界に圧力をかけた後、彼女が結界を強引に破って中へと転移の門を開くことになっている。
それはなかなか大変なことらしく、一見清楚な聖職者のように見えるこの彼女は
「実はめちゃくちゃ怖いんだよ」
ということらしい。ターキスの知り合いだという彼女―――― リディアは早朝からこの街に呼び寄せられた為か、機嫌が悪そうな顔で両目を閉じていた。
雫は息を整える。彼女の目的は彼らとは違う。エリクに会うことだ。
禁呪を止めることが目的の彼らは、状況によっては魔法士を殺すことも考えている。だからこそ雫はその前にエリクを見つけ出さなければならない。
彼と合流できたらその後でどう動くのか。出来るなら彼女もまた禁呪を止めたいと思っているのだが、具体的に何をするかはまだ決めていなかった。
「あと五分」
リディアの声が響くと空気が変わった。雫もまた立ち上がる。
携帯電話以外に時間の分かるものを持ってこなかった雫は、この世界の五分と元の世界の五分が厳密に同じかどうかはわからない。だが、体感的にはあまり変わらないように思え た。エリクに詳しく聞いたこともあるが、この世界では法則的に十二の数字が安定とされているらしく、時間にも十二の倍数が多く使われているのだという。
元の世界の時間の単位も天体の動きを元に作られたものだというし、この世界でも太陽や月はあるのだから、その点から考えると意外と似通っていておかしくないものなのか もしれない。彼女はそんなことを考えながらバッグを持ち直した。
以前は重くて仕方なかったバッグも今はあまりそれが気にならない。旅をしているうちに筋肉でもついたのだろうか。
リディアが大きく両手を広げる。呪文の詠唱が始まるのだ。緊張に唾を飲んだ雫の背を後ろから誰かが叩いた。
「怖いか?」
そこにはさっきまでいなかったはずのターキスが立っている。この計画の統括者である彼はあちこちを駆け回っていたのだ。
雫と違って寝ていないであろうにまったくその疲れを表に出していない彼は、彼女の肩に手をかけたまま笑っている。
彼女は嫌味でも何でもなく、多忙な彼がここにわざわざ戻ってきたことを不思議に思って尋ねた。
「あれ、あなたは別のところから行くと思った」
「お前も俺の契約主だからな。城に入るまではちゃんと守るさ」
「途中で私が死んじゃったら、質問が出来ないから?」
「そう言えばそうだな」
ターキスはこめかみを掻く。男の視線がリディアの姿を一瞬捉えた。緑がかった灰色の瞳が戦いを楽しむ不敵さに染まる。
「折角だから手付けとして一つくらい教えといてくれ。俺の方が死ぬかもしれないしな」
「あなた死にそうにないけど」
「そう言うな、雫。―――― お前は一体何者だ?」
どこか離れたところで爆発音が鳴り響く。雫は首を傾げて天を見上げた。続けざまにいくつもの破裂音が薄暗い空に響き渡る。
詠唱が終わる。リディアの前に水で出来たカーテンのような歪みが現れた。武装した男たちが無言でその中に飛び込んでいく。
雫は振り返ってターキスを見上げた。緊張は思ったほどない。多分、もう麻痺しているのだろう。鼓動だけが早い自分の体を感じ、彼女は小さく舌を出して笑う。
「私は単なる文系女子大生だよ」
男の怪訝な顔をそれ以上見ずに雫は走り出した。みなが消えていった空間の歪みに向って足を踏み出す。
目を閉じて、世界が変わる瞬間。
それは、この世界に初めて放り出された時よりもずっと、あっさりとしたものだった。

自分がどこにいるのか分からなかったのは、ほんの一瞬だった。
城壁と城の建物との間にある外庭に出た雫は、素早く空を見上げると走り出す。
これだけで大体の方向は把握できた。その為にさっきから何度も空を見ていたのだから。
先に庭に到着した男たちは既に武器を抜いている。明かりの洩れだす建物に向って駆け出す彼らを、驚愕の顔をした兵士たちが迎え撃った。
「見んな」
後ろから伸びてきた手が無理矢理雫の顔の方向を変える。凄惨な戦闘を見ることで彼女の足が止まってしまうとでも思ったのだろう。
けれど雫はそのまま走り続ける。兵士たちが駆け出してくる至近の建物入り口を避け、庭を大きく仕切る庭木の林へと飛び込んだ。
鬱蒼とした木々しか遮るもののない暗がりを、彼女は両腕で枝を掻き分け低木を踏み越え進んでいく。体のあちこちを枝が傷つけていく痛みが走った。
「かがめ」
短い命令。雫は答えるより早くその場にしゃがみこむ。頭の上で何かが空を斬る音がした。
目だけで見上げると斜め左前から兵士が剣を突き出してきている。それを自らの剣で受けたターキスが、力を込めて弾き返すと同時に雫との間に割って入った。
雫は体を低くしたまま一歩前に出る。幸い他の兵士は追いついて来ていない。向こうの戦闘にひきつけられているのだろう。
持っていたバッグを肩から下ろすと、彼女はそれを思い切り反動をつけて地面と平行に振り回した。
辞書含め厚い本を数冊詰め込んだバッグは、ターキスと渡り合っていた兵士の膝裏に思い切りぶつかる。鈍い音と苦痛の呻きがして男は両膝をついた。雫は素早く立ち上がると今度は肩の 上にバッグを振りかぶる。
「えい」
軽い掛け声とは裏腹にバッグは固い音を立てて兵士の頭上に命中した。上から激しく打ち下ろす打撃に彼は崩れ落ちる。追い討ちをかけるようにターキスの剣の背が男の首後ろを強打した。
「お前、それ何入ってんの?」
「本だよ。歪んだらどうしよう」
非常事態とは言え大学から借り出した本を鈍器として扱ってしまったことに、雫は本当に心配してそう言ったのだが、ターキスは理解できないというようにかぶりを振っただ けである。彼は、兵士が気絶していることを確認する雫を追い越して茂みをかき分け始めた。
「ほら、いくぞ」
「うん」
雫はバッグとメアを確認すると男の背を追って進みだす。
城のあちこちで沸き起こる悲鳴と怒声と鉄の鳴る音を吸い込んで、頭上に広がる空はゆっくりと白み始めていた。