禁じられた夢想 042

禁転載

地下にある広間は薄暗く、微かにかび臭い。
だがそれだけではない押し寄せてくるような「何か」に雫は思わず足を止めてしまった。
匂いでも温度でもないが、そこには何かが満ちている。まるでサウナに入った瞬間のように空気が変わったことが肌に感じられた。
その中をまるで石床を這うように男たちの呟きが重なり滑っていく。
聞き取りにくいそれらの言葉が魔法詠唱であるらしいと気づいたのは、よくよく目を凝らして広間の奥に十人程の男たちが円になって立っているのを見て取ったからだ。
「エリク……?」
小さな問いかけは彼らのところまでは届かない。雫は作業に集中している男たちに向って少しずつ足を進めた。
彼らの中心にあたる床はぼんやりと白く光る球が床に埋め込まれており、その光は空気中に少しずつ染み出しているように見える。
服装も背格好もそれぞればらばらな魔法士たちを彼女は目を細めて見回したが、十人の中に彼女の探している男の姿はなかった。
落胆の溜息が我知らず零れてしまう。それに気づいて一番近くにいた男が振り返った。
「何だ?」
率直な問いかけに彼女は躊躇する。
今この国を飲み込もうとしている災いが、ここで作られつつあるのだ。
けれど自分がその前に本当のことを彼らに告げたのなら…………それを食い止めることはできないだろうか。
雫は視線を泳がせる。彼女に気づいているのは今のところこの男のみだ。彼女は躊躇いながらも震える唇を動かした。
「あの、実は……」
「誰だ! 何をしている!」
淀んだ空気を裂く厳しい誰何に雫は身を震わす。
いつの間にか広間の入り口には、暗褐色のローブを纏った初老の魔法士が立っていた。彼はまるで怨念でも抱いているかのような異質さを孕む目で雫を見据えている。
「女官か? 何故こんなところにいる」
「あ、あの……魔法士の方のところに避難するように命じられて……」
「避難? ここにいても仕方あるまい。邪魔をするな」
「……すみません」
魔法士の声音には眼光とは別に疲労が滲んでいるように思えた。あまり寝ていないのかもしれない。そう考えると少し気の毒にも思える。
だが、今この魔法が完成してしまったら、少なくとも城にいる人間は皆、もう眠る必要がなくなってしまうのだ。
それを思うと多少の睡眠不足くらい気にすることではないだろう。雫は近づいてくる魔法士を失礼にならないよう見返した。
ターキスにこの依頼を持ち込んできたセルーは、魔法士長を説得できればこの構成は止められるかもしれないと言っていたのだ。
ならば城の人間らしいこの魔法士に頼んで魔法士長に真実を伝えてもらうことはできないだろうか。雫は迷いもあったが意を決して口を開く。
「あの、この禁呪のことなんですが」
「禁呪!?」
叫び声を上げたのは目の前の魔法士ではなく、後ろで構成に携わっていた男の一人だった。
その大声は広間中に響き渡り、全員の視線が雫と初老の魔法士に集中する。
それは「信じられない」といったものや単に訝しさを孕んだもの、忌まわしいものを見る嫌悪などそれぞれの混沌に満ちていた。
突如広間を覆った緊迫感に雫は息を飲む。背に突き刺さるプレッシャーは、魔法士にとって「禁呪」とはこれほどの禁忌なのかと彼女が思い知るに充分なものだった。
初老の魔法士は驚愕というより怒りに顔を歪ませている。射殺されそうな眼光に雫はつい怯みそうになって自分を奮い立たせた。
しかし何か言おうとする前に魔法士は右手を振り上げる。
「この……痴れ者が! 根拠のない戯言に惑わされおって!」
「でも、城を襲っている人たちはそう言っているそうです! この禁呪は国を滅ぼすって……だから魔法士長に」
「私に、何だと言うのだ」
その一言に、雫は理解より先に絶望を覚えた。
今目の前にいるこの男こそが、事態の鍵を握る魔法士長だというのだ。彼を説得できれば道が拓ける。
だが、それにもかかわらず彼女がショックを受けたのは、明らかにこの男が既に片足を狂気の中に踏み込んでいるように見えたからだ。
魔法士長イドスは手を振り上げたまま今にも雫を絞め殺しそうな目で睨みつけた。
「何だというのだ、小娘。言ってみろ」
―――― 失敗したかもしれない。
雫はバッグに入れたままの短剣と、そのバッグの後ろに止まっているメアの存在を意識した。この二つの存在が今の彼女を守るものだ。そしてもう一つ――――
「魔法士長に、この構成を止めるよう進言を。この構成の本当の効果はシューラ教に伝わっているものとは違います。
 街が飲み込まれ人が狂う。完成させてはいけないものです」
もう一つ力を持つものは、真実を伝える言葉だ。
たとえこの男にそれが届かなくとも、禁呪に嫌悪感を抱く他の魔法士たちには意味があるだろう。
現に雫は自分の背後に波のように動揺が広がるのを感じ取っていた。真偽を問う視線を浴びたのか、魔法士長の顔はますます歪む。
「よくも偽りばかりのくだらぬ……」
「本当のことです。セルーという人が」
「お前は気狂いだ!」
イドスは詠唱を始める。雫はその瞬間を待っていたように前へと駆け出した。男に向かって肩から思い切り体当たりする。
まだ魔法の構成が終わっていなかった魔法士長は、それで石畳の上に仰向けに倒れた。彼女はうめき声を上げる男の体を飛び越えると素早く階段へと向う。
狙っていたわけではない。むしろ体が勝手に動いただけだ。
だがそれは彼女にしては充分合格点を与えられる動きだっただろう。雫は狭い石段を一段抜かしで上がっていく。
あの男は到底人の話を聞いてくれるようには見えない。
それだけではなく、彼もまた何かに恐怖しているように雫の目には映っていた。
禁呪が怖いのか、襲撃が怖いのか。
ただ彼は禁呪におかしさを感じてくれたとしても、初対面であり遥か年下の見知らぬ小娘と腹を割って話すような人間では絶対無い。
種は蒔いた。後は芽が出ることを祈るだけだ。
駆け上がって来る雫を見張りの兵士二人が唖然として見つめる。彼女は階段の下を指差して叫んだ。
「大変です! 魔法士長が!」
「何だと!?」
兵士たちは慌てて彼女を押し退け地下へと降りていく。そして雫は再び、一人城の廊下へ躍り出ると先の見えない道を走り始めた。

出来うる限り騒ぎを広げず今回の事態を処理したいと思っていた城は、だがその希望とは真逆に動いていく現状に苛立ち以上の困惑を感じずにはいられなかった。
いつの間にか城門の外には人だかりが出来ており、その中から城の魔法実験の真偽を問う声が上がっている。
それらを更に煽るシューラ教徒の扇動が重なると、明らかな戦闘の形跡が城近くのそこかしこに残り、内部からはまだ剣戟の音と怒声が響いてくることも相まって民衆は様子を窺いに城へと詰め寄 せ始めた。勿論、魔法実験を恐れて街から逃げ出そうとする民も、そんなものは流言だといつも通りの朝を送ろうとする人間も多々いたが、やがて閉められない裏門から血気盛んな人間たち が説明を求めて侵入してくるにいたって、カンデラ城都はかつてない程の混乱に見舞われることになったのである。
「どんな手段を使っても、ってことだったからな。急場の寄せ集めで城に戦争しかける程、俺たちは無謀じゃない」
ターキスはとりあえずで身を潜めた三階の小部屋の窓から、押し寄せる人の波を目を細めて見物していた。
計画の大筋としては夜明け前を狙って陽動と侵入を行い、夜明けと共に目覚めた人々にシューラ教側から真実を流布させるというあらすじだったのだ。
勿論話を聞いて街から避難する人間が出るならそれでよし、逆に城に民衆が集まってくるならそれ自体が城への圧力になる。
それらのうちどちらに人の流れが多く割かれるかは蓋を開けてみなければ分からなかったが、どちらにしても悪くない結果がもたらされると彼らはふんでいた。
「さて後は魔法士長を捕まえるか、直接魔法士を止めるかか」
既に城の中には棘が入り込むように彼らのうち何人かが侵入を果たしている。
侵入後、それぞれがどのような判断でどのような手段を取るかは各個人に任されているが、彼ら全員が上手く効を奏せるとは限らないだろう。
ターキスは、性質は違えど全員が手強いと言える知己の顔を順に思い浮かべた。最後にその中でももっとも無力でもっとも不可思議な少女のことを思い出す。
何も出来ないくせに、知り合いの魔法士を助ける為だけに自ら揉め事の中に飛び込んだ彼女。
武器を持つことにさえ逡巡を見せた少女が、はたして血と怒りが交錯するこの戦場で目的を果たすことは出来得るのだろうか。
「ただの小娘か、未知の切り札か……。死ぬなよ、雫」
ターキスは血に濡れた剣を携えると再びの戦場へ戻っていく。
それは二日目の日の出から一時間が経過した時のことだった。

長い廊下をただひたすら走っていく。
途中何人もの兵士たちとすれ違い奇異の目を向けられたが、女官の格好をしているせいか彼女が普通の少女に見えるせいか誰も呼び止めようとまではしなかった。
城はとても広いし複雑な作りである。だが、雫にとってはそれはエリクが作った構成の図案よりは単純であり、複雑で知られる都会の駅よりは整然として感じられる。
全部で五つあるという地下の広間。先ほど行った場所が第二というなら、残りの研究室はまた、共通の中心を持って円状に配置されているのかもしれない。
何故そう思うのかと言えば単に、エリクが「魔法陣ってのは基本円形が多いんだよ」と教えてくれたことを覚えていたからだ。
街における城の領域とその方角、自分が移動した場所をあわせて考えれば怪しい場所の見当はつく。
複雑な廊下を行ったり来たりさまよった挙句、狙い通り先ほどと似た下り階段を見つけた雫は勢い込んで、その石段を下り始めた。
息はとっくに切れている。だが不思議と気分は昂揚しており、それほど苦しさは感じなかった。
脳内物質が出ているとはこういう状態をいうのだろうか。だが、脇腹が痛んでいるのは事実であったし、明日はきっと筋肉疲労で倒れているだろう。
ただ、そんなもので済むのならいくらでも筋肉痛になってやる、というのが彼女の正直な気持ちだった。
階段はまるで真の闇の中へと続いているようだ。
第二地下研究室の時とは違い、見張りの兵士もいなければ階段には松明も灯っていない。
そのことに訝しさを感じつつ、だが雫は暗い石段を手探りで下りていった。前の階段の三倍以上の時間をかけて扉の前に立つと、ゆっくりとそれを押す。
だが、扉が開いたことで内側の空気が漏れ出した時、雫は反射的に扉をそのままに逃げ出したくなった。
―――― 生臭い、血の匂い。
またたく間に鼻腔から肺の中に侵入を果たした臭気に、彼女は吐き気を覚えて顔を手で押さえた。
鼻を覆ってもなおかつ感じ取れるその匂いは明らかに部屋の中が尋常ではないことを示してきている。
『引き返した方がいい』と頭の中で自分の声が警告を放った。ここはとても危険だ。よくないものが満ちている。
だけど――――
雫は扉に背を向けて一度深呼吸すると、息を止め広間の中に足を踏み入れる。
恐怖を「エリクを探し出さなければならない」という意思の力で捻じ伏せたのだ。
ホラー映画で三番目くらいに殺される人間みたいだ、とふっと考えかけて彼女は自分の想像に身震いする。
先程足を踏み入れた場所と同じ作りの広間。けれど頼りない明かり一つしか見えないそこで彼女を待っていたのは、凄惨そのものとしか言いようのない光景だった。