禁じられた夢想 043

禁転載

濃すぎる血の臭いはそれだけで吐き気を催させるのだと雫はこの時知った。
彼女はバッグの中から着替える前に髪を覆っていたスカーフを取り出すと、鼻と口を押さえて少しでも吸い込む臭気を和らげようとする。
物音はしない。ぼんやりとしたランプの明かりの周囲には動く人影も見えない。
がくがくと震えそうになる足を内心叱咤しながら雫はゆっくりと広間の中心に向って距離を縮めた。
暗闇に目が慣れるにしたがって、床にいくつもの何かが転がっているのが分かる。
横たわる影。それが何であるのか予想が当たった時、雫は部屋が薄暗かったことに心から感謝した。
―――― 人の体だ。それもおそらく死んでいる。
よく見えない為、死因が何だかは分からない。だがそれは部屋中に立ち込めるこの臭いと無関係ではないだろう。
雫は一定の距離を保ちながらもいくつかの死体の体格を確認して、それがエリクのものではないことを確認した。
安心すると共に目元が潤んでくる。それが悲哀の涙か恐怖の涙かは分からないが、雫は深く息を吸ってまばたきをした。
落ち着こう。ただそれだけを何度も心の中で繰り返す。
だが、意識する度に昨晩彼女の前で死んだ男の姿が甦ってきて、雫は歯をかみ締めた。
せめて今だけでも慣れなければならない。その考えは自分の発想の酷薄さに自己嫌悪を覚えさせたが、彼女は溜息ごと引っかかる抵抗感を飲み込んだ。バッグを背負ったままの肩を落とす。
―――― 早く全部を見回って、この部屋を出た方がいい。エリクはきっとここにはいないのだから。
雫はもう一度目を凝らす。闇の向こうに転がっている死体。ぎりぎり明かりが届く領域に入っているその男の顔は、驚愕の表情のまま固まっていた。
琥珀色の瞳がまるでプラスチックのように薄白く濁りつつ、空虚な反射を為している。
そこには生の残滓はない。ただ「空っぽなのだ」という言葉が雫の中で響いた。

ただ一つの明かりは石畳の上に落ちているランプからのものだった。
その発光源は火ではなく、中に暖色の球体がはめ込まれて光を発している。
魔法で出来た電球だろうか。雫は死体の間を通ってそろそろと明るい場所に歩み出ると、倒れたランプを拾い上げようとした。それを持って更に奥を調べようとし たのだ。だがその時、雫は闇が動くのを「感じた」。
鳥の声。空気。それらを認知するより早く彼女は腰を落とし尻餅をつく。同時に頭の上を何かが恐ろしいスピードで通り過ぎていった。
「え」
驚愕は遅れてやってくる。
頭と体がまるで別々のように上手く連動しない。
体は既に、攻撃手の存在を察して動き出そうとしているのだが、頭はまだよく状況を理解できないでいた。腰の後ろについた両手にかろうじて力を込める。
立ち上がろうか後ずさろうか、それさえも瞬間迷って時間を消費する雫に届いたのは、だが人間が吹く感嘆の口笛だった。
「やるね。ド素人かと思ってたけど、避けられるとは思わなかった。
 ―――― けど、その後が台無しだ。それじゃ何も出来ない。殺されちゃうよ」
「だ、誰?」
「さっき一緒にいたじゃん。忘れちゃった?」
まるで友人に話しかけるように気軽な口調で返してきた男は、無造作に闇の中から光の届く輪の中に現れた。
小柄で華奢な少年と言っていい体つき。短い茶色の髪の下にある顔は妙に綺麗だった。
造作が整っているというわけではない。顔立ちだけ取れば十人並と言っていい容姿だろう。
だが、彼は綺麗だ。
それは、余分なものが何もない嘘のようなすっきりさがそう思わせている。
そこには苦味も迷いもない。時に人を醜くさえ見せる感情がほとんど削ぎ落とされているのだ。
代わりにそこに貼り付いているのは「楽しみ」だろうか。
愉悦と言うほど強くもなく、かと言ってまったくの無感情でもないさらっとした楽しみが彼から感じ取れる唯一のものだった。
「さっき、一緒にいた?」
「リディアが開いた門で一緒に入ってきただろ? 注意力散漫だね、君」
言われて見ればいたかもしれない。だがあの時は自分のことで精一杯だったのだ。
雫は忘れていたことを謝りかけて―――― 相手が自分に攻撃をしかけたことを思い出した。
「何で私を……」
「ターキスが連れ歩いてたからどんな人間なのかと思って。軽く耳でも削いでみようかと思ったけど上手く避けられた。
 君、何者? やっぱり勘がいいだけのド素人?」
「ドしろうと、です。というか依頼人……」
「何だ。つまんない」
そんな勘違いで耳を削がないで欲しい。雫は脱力して崩れ落ちそうになった。
だが少年はあっさりそう言うと本当に興味をなくしたのか、石床に座り込んだままの雫の横を通り過ぎる。
再び闇の中に消えていこうとした彼を、雫は慌てて振り返った。
「待って!」
「何?」
「こ……ど、どこに行くの?」
本当は「この部屋の惨状は全てあなたがやったのか」と問いたかったが、自分でもそれは愚問に思えて雫は質問を変えたのだ。
セルーはターキスへの依頼にあたって「禁呪を組んでいる魔法士を殺していけば止まる」と言っていた。
そして彼は…………それをそのまま果たしただけのことなのだろう。分かりきったことだ。
―――― 眩暈がする。動悸が激しくて、気持ちが悪い。このままここで気を失ってしまえたら楽かもしれない。
人があっさりと命を断たれて転がる、そんな現実など嘘なのだと叫びたい。
けれど、そうしてしまうには雫はもはや「踏み込んで」しまっている。そうすることを選んだのだ。何も知らない振りをして声を上げる事は出来ない。
だから代わりに、雫はこれから先のことを問う。
まだ起こっていないことを変えられないかと口を開くのだ。

「どこって、別の部屋に。ここが第四研究室って言うらしいから、第二か第三に」
「第二には私が行って来た。禁呪だって言ったらみんな驚いてたからもう構成をやめたかもしれない」
「へー。でも念の為殺しとくよ。その方が早い」
返ってきた言葉は彼の顔と同じくすっきりとしたものだった。雫は一瞬その躊躇いのなさに愕然として、けれど慌てて反論する。
「殺すことないと思う。話せば通じそうだったし。魔法士長はちょっとおかしかったけど……」
「何だ。魔法士長も駄目なんだ? まぁまだるっこしくなくていいや。目標に追加しとく」
「待ってってば!」
さっさと立ち去ろうとした少年の背に雫は声をぶつけた。
二人の他には誰もいない広間に彼女の叫びの残響が広がる。床の上のランプが、切れかけた蛍光灯の 如くまたたいた。
彼はようやく振り返ると硝子球のように澄んだ目で雫を見つめる。―――― その目の中には何もないのだ。まるで彼が作り出した死体と同じように。
「何? 何が言いたいの?」
「こ、殺すことはないって……」
「ふーん? なるほどー。君はそういう素人なわけか」
偽善か無知か甘さか、彼が口に含んだ「そういう」はそれらのうちのどれかだろう。雫は自分でもそのことを感じていたのだから。
だが、彼女は先程魔法士長の前で「禁呪」と口にした時の魔法士たちの驚愕を既に知っていた。
魔法士は禁呪を忌み嫌っている。それは彼女がエリクと話した時から分かっていたはずのことなのだ。
「禁呪を作ってる人に話せばいいだけだよ。あとは気絶させるとか」
「あー……それで、またそいつらが気が変わったり、目が覚めたりして禁呪を組んだらどうすんの。それでこの街が滅んだら。
 百人殺して数万人が助かるならその方がよくない?」
情味のない少年の言葉は一つ一つが彼女に圧し掛かろうとと重なってくる。雫は息苦しさを感じて喉を掻いた。
彼の言いたいことは分かるのだ。安易な気持ちで隙を作るなということも。
しかし彼女は震えそうになる心を息を吸うことによって留めるとかぶりを振る。
「少数を犠牲に多数を生かすかどうかなんて仮定に意味はないでしょ。
 そうやって端的に圧縮した極論じゃなくて、その時々の状況を考えないといけない。だから、今だって他に道があるよ。
 どちらかを犠牲にするかだけじゃないよ。彼らは知らないで禁呪を組まされてる。
 本当のことを教えればいいだけで、それで、組ませた人を捕まえればもう起こらない」
もし本当に少数を犠牲にするしか他に道がないのなら。
その時は雫もまた罪悪感に苦しみつつも、彼の行動を是とするだろう。
けれど今はその時ではない。いつかの時に正しかった選択が、今も同じように正しいわけではないのだ。
何も知らぬまま利用されて殺されて、それで「本当に終わり」なんてあんまりだ。
雫は今自分がいる場所を意識する。冷たい石の上に転がされた命の抜け殻が周囲にあることを。
ここにあるのが正義かと言ったらそれは分からない。ただ確実に言えるのは、何の装飾も施されない剥きだしの死がその姿を曝しているというだけだ。
それは悲しくもあり怖くもあり、そして―――― 震えるほど虚しかった。
人の命は、思考は、精神はもっと貴いものだと彼女は思う。それが理想論に過ぎなくとも、そう思っていたいのだ。
雫は無表情になった少年を見つめる。思っていたよりずっと自分が冷静でいられるのは、今が命のかかった時だと感じているからなのかもしれない。
初めてこの世界に来た時の砂漠と同じように。だがあの場所とは正反対にひんやりと冷たい石床が今は彼女の体を支えていた。
「―――― 僕は、そういう奇麗事の説教が嫌い。何の力もない人間からされるのは特に」
「すみません。でも」
「でもは無し。はっきり言うけど、僕は人を殺すのが楽しいんだよ」
「…………は?」
少年は目を細めて雫を見下ろす。
それは彼女を「殺していいか」吟味する視線で、それ以外の何ものでもない。「説教が嫌いだ」というわりに不愉快ささえなかった。
とてもとても空っぽだ。恐怖や驚愕が残る命のない死体たちよりもずっと。
向き合ってお互いを見つめているにもかかわらず、相手に自分が見えていないような、自分も相手が見えていないような隔絶感が雫の周りを覆う。
理解不能という言葉をそのまま表情に貼り付けて彼女は少年を見上げた。
「……何で?」
「別に。動いているものが動かなくなると楽しい」
「死んじゃったらそれまでだよ」
「知ってる。でも人間ってすごくいっぱいいるじゃん」
「同じ人間がいっぱいいるわけじゃないんだよ」
雫は言葉を紡ぎながらも同時に「きっと伝わらないだろう」という予感を抱いている。
きっと伝わらない。言葉は届いても、思いは届かない。そう思ってしまうくらい彼には何も響かない。
少年は涼しい顔で肩をすくめた。
「分かってるって。でも、人間なんてみんな似たり寄ったりじゃない?」
―――― 遠すぎる。
雫は確かにこの時、絶望に似た気持ちを味わった。
言葉を尽くしても通じ合えない。あまりにも遠くて、光の当たらない先に向って呼びかけているかのようだ。
「違うよ」
「僕にとってはおんなじだな。君も文句があるなら力で止めなよ。こういうの鬱陶しくて仕方ないし。殺しちゃうよ」
「私は死にたくない」
「あっそ。じゃーね」
時間が惜しいとでも言うようにあっさりと―――― 実際惜しいのだ。こんな問答をしている場合ではない―――― 少年は闇の中に消えた。
無言の死体が転がる中、雫は両目を閉じる。
かつてないほどの虚脱感が彼女の足を絡めとり地の底へと引きずり込むようだった。
雫はのろのろと立ち上がるとランプを手に取る。残りの死体の中にエリクがいないことを確認して、明かりを置くと階段に戻った。
自分は力など持っていない。人を容易く殺す彼を止められるような力はないのだ。
ただ彼女には目的がある。あの少年が全ての魔法士を殺してしまう前に何としてもエリクを見つけるという目的が。
一段一段階段を上る度に、雫は唇を噛みながらも少しずつ気持ちを切り替えていく。どんなに重くても今は前を向くのだ。走り出さないと間に合わない。
すっかり明るくなった日の光が届く最後の一段を前に、彼女は深い地下へと続く階段を振り返る。
雫を無力感の淀む淵へと突き落とした男、カイト・ディシスとのこれが初めての出会いだった。