禁じられた夢想 045

禁転載

四畳半ほどの小さな倉庫で、雫とエリクは並んで弁当を食べていた。
朝起こされた時、ターキスに「長丁場になるかもしれないから朝くらい食っとけ」と言われたのだが、その時宿屋の台所を借りて簡単な昼食も二人分作っていたの だ。ペットボトルに入れたお茶とおにぎりと玉子焼き、保存用の干し肉だけだが、走り回っていた雫と昨日から不眠不休だったというエリクにはありがたいものだ った。彼は塩で味付けされたおにぎりを手にまじまじと眺める。
「面白い形してる」
「私の国ではこれが普通なんですよ。海苔も鮭もないから塩だけですけど」
「ノリって何」
「海草です。集めて乾燥させて紙状にしたものが多いですね。美味しいですよ」
「へー。僕は海草って食べたことないな」
「将来禿げますね」
「何で」
ワカメと頭髪の迷信を知らない男は当然ながら即聞き返してきたが、雫はそれを無視した。代わりに目の前の床を指差す。
「これ何ですか。魔法陣ですよね」
「うん。僕が描いた」
三重円を外周として描かれた複雑な紋様。
見るとそれは確かにチョークに似た白い何かで線が引かれていた。周囲に長い棒や紐が落ちているのはこれを描く為に使ったのだろう。
魔法具もない上、直径一メートル以上はゆうにあるこの魔法陣を描く為にエリクは試行錯誤したに違いない。
二人は騒ぎの只中にある城のど真中の地下で、おにぎりを食べながら一通りの情報を交換することになった。
宿屋に兵士が来たことを雫から聞いたエリクは苦い顔になると「君のところまで行くとは思わなかった。ごめん」と返してくる。
何でも彼は雫が報告するまでもなく禁呪のことを見破って、それを城の魔法士に報告した結果、逃げ出す羽目になっていたというのだ。
兵士の中でエリクと一緒にいた彼女のことを覚えていた人間がいるというのも驚きだが、結局は彼女も逃れられたのだしエリクを責める気はまったくない。
むしろ自力で禁呪を読み解いた彼にただただ感動するばかりである。
「ほら、クレアの塔。あれと構成が似てたんだよ。じゃなきゃいくらなんでも分からなかった」
「じゃああれもシューラ教が建てさせたんでしょうね。今の禁呪はまた違う構成みたいですけど」
「違うね。負の穴を開けて『向こう側』をこっちに呼び込む構成だ」
「負の穴……」
またその言葉だ。雫はいまいち意味の掴み切れない単語に自然と眉を寄せてしまうが、もしかしたらエリクならそれが何なのか教えてくれるかもしれない。
彼女はお茶を一口飲むと隣に座る魔法士に「負の穴」とは何なのか尋ねてみた。エリクは「うーん」と考え込んだ挙句、口を開く。
「まずこの世界において、人間とは魂・精神・肉体の三つから成ると考えられている」
「はい」
こういう話は苦手ではない。普段学校でも教養として似たような人文科学の講義を受けるからだ。
エリクも雫の表情からそれを了解したのだろう。いつもの言語についての話と同様、軽く続けた。
「肉体は説明しなくても分かるね? 感覚知覚と生命維持、生殖を担当する人間の物質的な部分だ。
 で、精神は肉体と密接にくっついて知的認識や思考や感情、記憶を司っている。
 最後が魂だけど、これは無生物と生物を分けるものだ。生物の中に宿り、生物を生かしている力そのもので、死後は拡散して自然の中に還る」
「なるほど」
「ついていけてる?」
「今のところ」
雫は先程地図を書いたルーズリーフの裏にメモを取ってみたが、何だかそれは西洋古代哲学のノートと大差ないようにも見える。
その分馴染みやすいと言えば馴染みやすく、彼女はシャープペンで「魂」と書いた箇所をつついた。
人は死後には何も残らないというこの世界における事実は、この魂が拡散してしまうところから来ているのだ。
精神は肉体と共に滅び、魂は消え去る。それが人の死の現実なのだろう。
つい先程見た「終わってしまった」死体に意識が飛びかけた雫は慌ててそれを引き戻す。
「魂は死後拡散してしまう。では、どうやって生物の中に生まれると思う?」
「あ。あれ? えーと……肉体と共に生まれるんですか?」
「部分正解。実は魂についてはまだよく分かっていない部分が多いんだ。
 ただそれは、魔法士の間では研究の結果『あらゆるものから成り、あらゆるものに繋がり、肉体によって形成される』と言われている。
 つまりあちこちにある自然的な力をこういう風に……」
エリクはお茶の入ったペットボトルを持ち上げる。透明なプラスチックの向こうで澄んだ茶色のお茶が揺れた。
「肉体が閉じ込めて、魂として他と分かち一つのものとしている」
「液体が魂で、容器が肉体ですか」
「そう。だから肉体が死ぬと魂もこぼれちゃうんだな」
彼は中を軽く振るとキャップを開けて口をつけた。このペットボトルは雫が元の世界から持ってきたものであり、最初は水が入っていたのだが色々便利なので捨てないで持ち歩いているのだ。さすがにコップまでは持って来ていない為、二人で飲んでいるのだが、エリクは当然気にもしていないし、雫もそんなことを気にしていられない。
「しかしここで問題なのは魂が『あらゆるものから成り、あらゆるものと繋がっている』という点だ。
 容器に閉じ込められたお茶と異なり、魂は肉体の中にあっても様々なものと繋がっている。
 人間がみな共通して根源的な感情や基本的な思考の働き、言語などを持っているのは、
 全ての魂が同じ『何か』に繋がっていることが原因だとされているし、
 魔法士が本来違う位階に存在しているはずの魔法法則に触れられるのも、魂がその位階に繋がっている為だというわけ」
「うう、難しくなってきましたよ」
「うん。とりあえず魂は外界へ繋がる人間の内的な窓と思ってればいい」
「了解です」
「この窓はそれはもうあちこちに繋がってる。天上の美徳と言われるものから最下部までね。その繋がっている最下部と言われているのが負の海だ」
「負?」
「負」
穴ではなく海。ただでさえ観念的な話だったのに更に途方もなく広がった気がする。
雫はメモを取っていたルーズリースの下に何となく海面を書いて、更にイルカの絵を描いてみた。
「負の海、混沌の海とも呼ばれる世界の床下に広がる概念上の海だ。
 知性や美徳、魔法構成や上位魔族の位階が階層的にこの世界の上層に位置するとするなら、負の海は最下層。
 諦観、悲嘆、怨嗟などがひしめき、そこには人の感情として成形される以前の負が満ちているという」
「うぇ」
イルカの絵にまったく似つかわしくない不吉な海だった。雫はイルカを黒く塗りつぶそうかと考えて、その発想を一瞬で放棄した。
手の中でシャープペンを回すと男に聞き返す。
「ひょっとして、人間が妬んだり恨んだりするのはその海に繋がってるのが原因ってことですか?」
「と、言われている。実際にはそれだけじゃないと思うけどね」
「なーるーほどー」
美徳は上に、悪徳は下に、繋がっているというのはそう不自然な発想ではないだろう。
人間は魂によって負と繋がっている、そこからの上昇を目指す宗教などいかにもありそうだ。雫はこの世界の宗教を一つ思い出す。
「でもそれって宗教的なたとえ話ですよね? シューラ教がそういう教えだとか?」
「だったらいいんだけど。実は過去に実際この負の海に向って穴が開いた事があるんだよ」
「へ?」
黒い目をまんまるにして雫は男を見つめる。おにぎりを食べ終わったエリクは「ごちそうさま」と呟いてから彼女の視線に応えて苦笑したのだった。

「八百年ほど前かな。大陸中央部にね、自然の洞窟があってその地下奥に深い穴が開いてたらしいんだよ」
「そ、それが負の穴!?」
「違う。ただの穴」
肩透かしを食らって雫はがっくりと項垂れる。何だか話は一進一退している気がするが、途中をすっ飛ばしても余計理解が追いつかないだろう。
エリクは自分で描いた魔法陣を指差す。まるでそこに深い穴が開いているかのように彼の視線は下を向いた。
「ただの穴だったんだけど、そこは位置的に瘴気が溜まりやすい穴だったらしくてね。
 それだけならともかく、ある時戦乱があった際に、その中に死体が投げ捨てられていったそうなんだ。
 結果、溜まっていた瘴気の穴に更に死体を次々に放り込まれて―――― ついに世界に綻びが出来て負の海に向って穴が開いてしまった。
 伝承では穴に気づいた最初の男は負の海に引きずりこまれ、二番目の男は狂った。
 そうして誰も何も出来ないうちに穴からは留められない『負』そのものが染み出してきて、三番目の男はそれを神と呼んだというんだ」
―――― どこかで、聞いたことのある話だ。
雫はわずかに痛んだ頭を押さえる。シューラ教徒からではない。もっと、深い、どこかで。
だが、どこで聞いたのか考えようとする度に頭は痛み、記憶は遠ざかる。
求めればそのまま自分ごと落ちてしまいそうな果てのなさに、雫は途中で諦めると意識を引き戻した。
「現出したその負は『シミラ』と呼ばれ、男は教祖となって穴の周りに信者を住まわせると小さな村を作った。
 多分これが……シューラと同じなんだろう。百年もの間その村は少しずつ信者を増やし大きくなっていった。
 当時はシミラは邪神と呼ばれ、その村は周囲から邪教集団と呼ばれてたらしいけどね」
「じゃ、邪神!? それでどうなったんですか? その後」
「うん。滅んだ」
「世界が!?」
ひっくり返ったような雫の声が小さな倉庫にこだまする。
その余韻が消え去って生まれた空白に、しばらくしてエリクの何とも形容しがたい声が響いた。
「ちょっと落ち着いて。世界滅んでたら今なんで僕たちここにいるの」
「…………そですね…………」
突拍子もない話に驚いて突拍子もない発想をしてしまった。赤面しながら雫は再び項垂れる。
エリクはだが彼女の発想をさほど問題視していないらしい。変わらぬ調子でその前の問いに答えた。
「滅んだのは邪神と村。巨大な魔法の一撃で吹き飛ばされたんだ。たまたまの事故で吹き飛ばした方も禁呪だったんだけど」
「うっわ。何だか怪獣大戦争みたいですね」
「何それ」
「説明は省略させてください」
怪獣を知るはずもない男は怪訝な顔をしたが、突き詰めても脱線になるだけと分かったのだろう。何も聞かなかったかのようにそれ以上は尋ねなかった。
「シミラが滅んだ後も、歴史上何度か狂信者が禁呪を用いて穴を開こうとした事件は記録されてるけど、そのどれもが失敗してる。
 けどね、失敗しててもそれぞれ百人近い人間が死んだり狂ったりしてるんだ。実際に開いちゃったらどんな惨事になるのか、さすがに想像したくないね」
普段は大概のことでも平然としている男の、今まで聞いたこともない溜息混じりの苦々しい声に雫は慄然とする。
今二人が座っている石床の、更に下の下、世界をはみ出た底には何がたゆたっているのか。
彼女はまるで自分が暗い夜の海に浮かぶ薄板の上に座しているような気がして、知らぬうちに身震いしていたのだった。