禁じられた夢想 046

禁転載

「それで……どうしましょうか」
雫が口にしたのは単なる確認である。
今が危機的状況であるということはよく分かった。
だが元々それをよく分かっているはずのエリクがこんなところで魔法陣を描いているということは、何か心積もりがあるのだろう。
だから彼女は自分もまた彼の意図を確認したいと思ったのだ。
彼はこめかみに指をあてて何事か考え込んでいるようだったが、反対側の手で魔法陣を指差した。その後同じ指で天井を指す。
「禁呪の中心部はここの上……二階か三階に設定されていると思う。君は城の中心を探してここに来たの?」
「あー、いえ、メアが」
「なるほど。近くまで来て僕の魔力が分かったのか」
小鳥は肯定の囀りを上げる。エリクは軽く頷くと立てた膝の上に頬杖をついて天井を見上げた。
「僕が今やってるのは時間稼ぎ。最初禁呪だって気づいた時に組んでいた構成を少し組み替えてきた。
 だからこの魔法陣は実は禁呪に繋がってる。大幅に干渉できるわけじゃないが、多少の遅延と軽減はできるんだ」
さらりと説明された言葉に雫は目を瞠った。
魔法具を直したり、城の審査に受かったりした時から思っていたのだが、実は彼は魔法士としてかなり技術がある人間ではないだろうか。
禁呪を見破っただけに留まらず、対抗策まで事前に組み入れてきているとは、城の人間も一本取られただろう。彼女は感嘆の声を洩らす。
「わぁ……すごい」
「これが僕の限界だけどね。幸い今この城には魔力が満ちているから多少は融通が利く。
 ただ、禁呪を完全に止められるわけじゃない。どこかに禁呪を纏める核があるんだろうが、この魔法陣じゃそこまでは届かないんだ。
 時間を稼いでいる間に手を打たなきゃいけない」
「あ、でもそれなら上で」
そこまで言って雫は言葉を見失った。惨劇が起きた第四研究室と、それを為した少年のことを思い出したのだ。
彼があの調子で他の研究室をも掃討していたのなら。
―――― 禁呪は止まるのかもしれない。数十人の命と引き換えに。
息苦しさが、視界が狭まるような圧迫感が甦ってくる。喉元に何かが沸き起こる。彼女はそれを留めようと口を押さえた。
だが、気分の悪さがそのまま心身両方に歪みを生み出しそうに思えた時、彼女の様子の変化に気づいたエリクが手を伸ばした。顔の前で大きな手をひらひらと振る 。
「大丈夫? 顔色悪い」
「……平気、です」
雫は目を閉じた。
ゆっくりと、深く、息を吸う。
肺の奥まで空間が広がるよう意識して息を止め、その後長く時間をかけて吐き出す。
今は彼が隣にいるのだ。一人ではない。だから、落ち着くことも出来るはずだ。
精神と肉体が共に絡み合って存しているというのなら、そのどちらもを支配することは可能だろう。
それが出来てこそようやく、人は完全に自分の主人となり得るのだから。

全ての空気を細く吐ききった時、雫は感情の抑圧を試みた結果ではあったが、ほぼいつも通りの平静を取り戻していた。淡々とした口調で城の中に襲撃者がいるこ とと、その中の一人が魔法士を殺して回っていることを話す。
エリクは眉を顰めて彼女の報告に聞き入っていたが、これは彼としては険しい表情の部類に入るだろう。現に彼が発したのは苦い声だった。
「それでか。不味いな。道理で禁呪の進行速度が早まりだしたと思った」
「早まった? 停滞したんじゃなくてですか?」
「早まってる。禁呪を組む為に用意されたのは五十人だ。その人数は伊達じゃないんだよ。基本の構成はとっくに出来ていた。
 後は―――― 何故、八百年前穴が開いたかだ」
「あ…………」
瘴気が溜まりやすかった穴。そこに死体が投げ込まれて世界は綻んだ。
ならば今この状況で、構成に携わる魔法士が殺されていくという状況はまさしく、その綻びを再現するものなのかもしれない。
雫は今度こそ血の気が引く思いがして唇をわななかせた。だがそうしていたのはほんの数秒で、すぐに彼女は立ち上がる。
「ちょ、ちょっと上行って言ってきます!」
「待って。それも問題なんだけど、話が通じなそうな人間相手だ。君が行って殺されちゃ意味がない」
「でも!」
「気持ちは分かるけど、今は結構不味い状況だ。ここから先は失敗が許されない」
有無を言わさぬ強い力が彼の言葉にはあった。エリクは床の上に置かれていた城の地図を拾い上げる。
彼は雫を手招きすると地図の上のある一点を指差して言った。
「僕はここから離れられない。でも、これだけじゃ駄目なんだ。状況を引っくり返すだけの一手が要る。
 本当は君に頼むのは悪いと思っているが……」
藍色の瞳が一瞬揺らぐ。雫はその揺らぎに気を取られて男の顔を覗き込んだ。
「君が一番適任なんだ。ファルサスに行って、王妹にこの事実を伝えてくれ」
「え?」
世界が少しだけ傾いた気がする。
そう思ったのはけれど雫の錯覚で……彼女は少し首を傾げて言われた言葉を咀嚼しようと頭を空回りさせたのだった。

エリクが指したのは城の北西の端にあたる一部で、そこはどうやら転移陣が設置された広間だということらしい。
ならば中には大国の一つであるファルサスのどこかに出る陣が存在するはずだと彼は言うのだ。
「転移陣は大抵床に行き先が記されている。慌てる必要はないから見つからないよう慎重に移動して……
 今なら混乱していて見張りも手薄だろうから、メアに頼んで中に入るんだ。
 ファルサスの誰かに禁呪のことで王妹を呼んで欲しいと言えば話が伝わるはずだから」
「ま、待ってください! それで何とかなるんですか!?」
「可能性は一番高い。彼女は精霊、上位魔族を従える王家の魔法士だ。
 現在大陸でも屈指の術者で、禁呪に対抗できる可能性のある人間を僕は他に知らない。
 君はうまくファルサスについたらそのままそこにいればいいから。後は王妹が何とかするはずだ」
「でもそれは……!」
雫は言っていいのか悪いのか分からない思いに言葉を切った。
彼女を城の混乱の只中に追いやるとも取れる、いつになく強引な彼の提案。それはもしかして、この禁呪を止められるかどうか分からないからではないのか。
その前に彼女をこの国から、目的地であるファルサスへ逃がそうとしてそう言っているのではないか。
勿論魔法大国の助けが欲しいというのも本当だろう。
だが、それだけだとしたら「慌てる必要はないから慎重に」などと言うだろうか。
雫は彼の真意を掴みかねて答を躊躇する。寝ていないのか、疲れた男の顔に胸が詰まった。
「エリクを置いていくのが怖いです。行くなら一緒に行きましょう」
「僕がここを離れたら禁呪の速度が一層早まる。そうしたらもう取り返しがつかなくなるよ」
「取り返しがついても、あなたに何かあったらやですよ!」
危険から逃れたいだけなら、禁呪のことを知った時にさっさとこの街から逃げていただろう。
けれど雫はそれを選ばなかった。武器さえ持って、ここまで来たのだ。
全てはただ彼が心配だったからだ。今まで助けられた分を返したいと思ったから。なのにここまで来てその目的を忘れることは、彼女には出来なかった。
雫は非難の五歩手前の目でエリクを見つめる。何が最善なのか分からなくて、それでもこの国の最善よりは今は彼の方が大事に思えた。

さほど長い時間、沈黙があったわけではない。ほんの二、三秒だ。
彼は溜息さえつかなかった。彼女から目を逸らさなかった。ただ真っ直ぐに、伝わる言葉を生み出す。
「君には可能性がある」
「可能性?」
それは、大人が子供に言うような茫洋とした希望だろうか。だとしたら不確かにも程があると雫は言いたかった。
そんなものは誰にだってある。可能性と言うだけならいくらでも期待の持たせようがあるのだ。誰かの代わりに誰かを優先させる程のものではない。
だからもしエリクがそういう意味で「可能性」と言うのなら、彼女は彼と共に行動する別の道を模索しただろう。
―――― しかし彼が示したのは、もっと具体的な「彼女にしかない可能性」だった。
「さっき負の海について説明しただろう? 僕たちは例外なく魂が『それ』に繋がっている。
 過去の失敗した禁呪の事件のいくつかで発狂者が出たのもそのせいだ。
 この構成では今のまま食い止め続けても、負の海への境界が薄らげば薄らぐ程、周囲にいる人間の精神は傾く。
 もうあと一時間もしないうちに最初の変化は始まるだろう。人によってはもっと早いかもしれない。
 けれど、君には可能性がある」
藍色の瞳は雫を捉えたままだ。とても綺麗な、決然とした意志の目。
「君は、異世界の人間だ。だから君の魂は……」
「……ひょっとして…………負の海に……繋がって、いない?」

何故、この世界に来て、迷って、走り回って、そんなことを繰り返しているのだろう。
少しずつ前進したいと思っているのに、足掻いても届く何かがあるのか分からない。
だけど、それに疲れてしまったら、足を止めてしまったら―――― 他に誰かが彼女を救ってくれるわけではないのだ。手を伸ばさなければ何も与えられない。

雫は、今はひどく遠く思える家族の姿を思い出す。
そして改めて、この世界にいる自分を振り返った。
ずっと、自分一人だけ異邦人であるという現実が苦しかった。だからこの世界について知りたいと思った。少しでも馴染めれば楽になるかと思っていたのだ。
でも今は…………自分の「異質」がありがたい。言葉だけではなく本当に彼女には可能性があるのだ。
「私も一応人間です。妬みも恨みもありますし、ってことは負の海に繋がってるかもしれませんよ」
「勿論その可能性もある。だけど、君の世界には魔法がないんだろう? それはとりもなおさず世界の位階構造自体がこちらとは違うってことじゃないかな」
「確かに私の世界では魂や負について、今の時代そういうアプローチはほとんど実用性がないと思われてます」
「うん。僕はそっちの世界のことをほとんど知らないからただの推測だ。でも今はそれに賭けたい。
 ―――― できる? 雫」
「出来ます」
人を殺さずとも解決できるはずだと、あの少年に言ったのは他でもない自分なのだ。
ならば、それを証明しなければならない。座り込んだまま理想を語っても彼どころか誰にも伝わらないだろう。
雫はエリクから地図を受け取る。彼は紙の片隅に「ファルサス」の字を書いてくれた。転移陣を見分ける時に必要となるだろう。雫は目を凝らしてそれを頭の中に 刻み込む。そして、もはや体の一部にも思えるバッグを持ち上げて、肩にかけた。まだ半分以上中身が残っているペットボトルは彼の傍へ置いていく。
―――― 最初から分かっていたことだ。
彼が、禁呪をこのままにして逃げるような人間ではないことは分かっていた。その上で彼の考えに従おうと思っていたことも。
出来れば一緒に行動したかった。彼の存在を隣に感じていれば安心できるから。
だが、それよりも今は出来ることを優先すべきであろう。それが彼の計算した一手だというのなら雫は従うことを選ぶ。
「ダッシュで行ってきます。で、絶対戻ってきますからね!」
反論を聞かない口調できっぱり断言すると、エリクの目は丸くなった。
驚愕が仕方ないな、という苦笑に変わるまでの数秒、雫は目を逸らさずに待つ。ここでどうしても戻ってくるなと言われたら、何と返してやろうかと思っていた。
だが彼は少しだけ穏やかな、いつもの表情になると微苦笑する。
「自分の身の安全が第一。戻ってくるなら、ちゃんと他の人間と一緒に来るんだよ」
「勿論です。私が死んだら幽霊になりますからね! 祟りますよ!」
「幽霊ってちょっと興味あるな。どんな感じになるの?」
「足がなくて半透明、って嫌ですよ!」
こっちの世界とは違う意味だが、やっぱり「死んじゃったらおしまい」は雫にとっても同じなのだ。ちょっとの興味では試せないし試したくはない。
だが、助けを呼んで戻ってくるということは既に雫にとっては決定事項だった。彼女は万感の思いを込めて旅の同伴者を見つめる。
「死なないで待っててくださいね。あと、狂っちゃわないでください」
「僕は魔法士だからそうじゃない人間よりは耐性がある。でもあんまり期待はしないで」
「別れ際に不吉な発言はやめてくださいよ!」
まったく彼は、人の気持ちが分かっていないのだろうか。
けれどそんなところが如何にも彼らしくて雫の心は軽くなる。
彼女は箱の上にいたメアを呼ぶと、すり抜けて入ってきた箱の前に立った。最後にもう一度、彼を振り返る。
「じゃ、行ってきますね」
「気をつけて」
僅か三十分ほどの再会。次に会う時は、全てが終わった後だろうか。雫は想像も出来ない未来に瞬間思いを馳せた。
この世界に来てから何度、人との別れに「もう会えないのだな」と思っただろう。
だが、エリクとはきっともう一度会えるはずだ。また旅が出来る。そしてそれを実現するのは自分の力なのだ。
雫は彼に手を振ると箱の間を縫って扉を開ける。
「ああ、ファルサス王妹に会っても僕の名前は出さない方がいい」
「はい? 分かりました」
箱越しにかけられた男の声に怪訝に思いながらも返事をして―――― 雫は決意も固く後ろ手に扉を閉めたのだった。