禁じられた夢想 047

禁転載

扉が閉まる音が止むとエリクは深い溜息をついた。ペットボトルを片手に詠唱を開始する。
いるはずのない彼女が目の前に現れた時は、さすがに驚いて二の句が継げなかった。
行動力のある人間だとは思っていたが、まさか女官に化けて城に忍び込んでくるとは思ってもみなかったのだ。
最初は災いの渦中に彼女を巻き込んでしまったことに苦いものを感じたが、すぐにそれは好機だと判った。
街の宿にいては連絡も取れないし、逃がすこともできない。途中でメアが気づくとしても確実に助かるかどうかは保証できないだろう。
だが、ここにいるのなら話は別だ。転移陣を使えば国外に逃げることさえ出来る。
行く先をファルサスと指定したのは勿論助けが欲しいという理由もあるが、そういう明確な目的を示さねば彼女は動かないだろうと思ったからだ。
「気がついたら怒るかな。それとももう気づいているか……」
ファルサスについて王妹に連絡が取れたとしても、雫がここに引き返してくることはできないだろう。
事情を知る人間を確保する為にも、ファルサスは彼女を自国に留める。それでいいのだ。
禁呪構成の中央にいる彼はこれから先、尋常ではない負荷を受けることになる。
仮に穴が開く前にファルサスが間に合ったとしても、自分が正気を保っていられるかエリクには自信がなかった。
「元の世界か……。上手く帰れるといいね」
もう彼女と話をすることもないだろう。
まだ色々文字について聞きたいこともあったが仕方ない。充分面白かったし楽しかったのだ。ここ数年の鬱屈を綺麗に押し流してしまう程に。
エリクは目を閉じると魔力を手繰り、詠唱を紡いでいく。
閉ざされた視界の中に浮かぶ彼女は、少し涙の滲む目で嬉しそうに微笑んでいた。

城の北西。転移陣のあるという広間は、城の中心からはほどほどに距離がある。
だが初めに雫が行った第二研究室などは南東にあった為、そこから向うよりは、城中央はよほど目的地に近いと言えるだろう。
エリクはこの中央部を見つけるまでに、追っ手を避けながら三時間ほど城内を彷徨ったらしいが、その点雫は方向感覚には自信がある。
適任と言ったら適任には違いない。急がば回れということで、ひとまず彼女は来た道を戻り一階に出ると、北西目指して廊下を何度も曲がっていった。
元の世界に戻る為にずっと目指していた目的の国、ファルサス。
その国にもうすぐ行き着けるのかもしれないと思っても、今の彼女に嬉しさは沸いてこない。
ただ、なんとしても間に合わなければと気ばかりが急いて、心が体を追い越していってしまいそうだった。
時折、人の気配を感じて柱に隠れる。
目の前の扉から出てきた兵士と鉢合わせになって、メアに気絶させるよう頼んだりもした。
逃げ回っていては間に合わなくなる。早く早く転移陣に着かなければならない。
自分の為すべきこと。それだけを思って、彼女は城の廊下を走っていく。
歪み始める空気。
不可視ながらも漂う瘴気は着実に、その濃さを増しつつあった。

「やっぱり、あの話は本当だったんじゃないか」
隣を行く魔法士がぽつりと呟いたことに兵士は顔を上げると、たいして関心もなかったが聞き返した。
「どの話だよ」
「だから、今組んでる禁呪が、本当は負の海に向って穴を開けるやつだっていう話」
「ああ。逃走した外部の魔法士がお前に言ったってやつか。でも魔法士長はそれを否定したんだろ?」
「そうなんだが、何か様子がおかしいんだよな。それに気のせいか城に瘴気が生まれ始めてる」
「瘴気?」
若い魔法士は顎に指をかける。
警備が手薄になった隙に殺戮が行われた第四研究室を見に行ってきたばかりだが、あそこにはまず間違いなく瘴気が立ち込めていた。
最初はあまりにも凄惨な空気に瘴気までもが湧き出したのかと思ったが、それにしては城のあちこちでその気配を感じる。
これではまるで、あのエリクとかいう魔法士が言った通りだ。
今は城外の混乱への対応と、城の中にまだ潜んでいるという刺客を狩る為に皆は動き回っているが、本当にこれでいいのだろうか。 何か取り返しのつかない事態になってしまわないか。
二人は沈黙したまま城の角を曲がる。が、曲がってすぐに兵士は何かにつまづいて転びそうになってしまった。
「おわっ! 何だよ!」
体勢を立て直して床を見ると、そこには一人の魔法士が血を流して倒れている。刺客にでもやられたのだろう。重傷ではないようだが、 苦しげに呻いていた。
負傷した同僚の姿に魔法士は慌てて治癒をかけようとする。だが、まさに彼が手を伸ばそうとした時―――― 傷のすぐ横を兵士が蹴り上げた。
「ぎゃっ!」
「な、何するんだよ!」
「邪魔なんだよ、こんなところで。弱い奴はさっさと死んどけ」
兵士は煩わしげに言い捨てると、倒れている体をまたいでさっさと先へ歩いていってしまう。その背中を若い魔法士は呆然と見送った。
「……何なんだよ、一体……」
普段は穏やかで優しい性格だった兵士の変貌に、彼は生唾を飲み込む。
午後になったばかりの城は充分明るいにもかかわらず、まるで周囲が闇の中に閉ざされていくかのような思いに彼は駆られたのだった。

カンデラ城には全部で五つの地下研究室が存在している。
それらは城内に大きく円状に配置されており、北東の第一研究室から時計回りに北西の第五研究室までが等間隔で並んでいる。
五つの研究室が作られたのは百年前。禁呪の構成が城に持ち込まれた直後に、必要とあれば城で禁呪が組めるよう建築されたものだ。
だが作ってはみたものの実際に禁呪を使うような事態は訪れず、百年もの間研究室はただの研究室として魔法士たちによって使われてきた。
そして、今日。
本来の目的に使われた研究室には瘴気が満ち始めている。
それらは人の死と混じりあって圧力を増し、ゆっくりと巨大な円を描きつつあった。

「これは偶然か必然か」などと考えることは、急場の最中にあっては意味がないと雫は思っている。
起こったことは起こったこと、起こらなかったことは起こらなかったこと、でしかない。
まだ事は終わっていないのにそんなことに思考を割くなど余計な労力だ。
だから、彼女がそこに出くわしてしまったのも、偶然か必然かなどどうでもよい話だった。
「結界を張った。これでその刺客とやらも入ってはこれぬ。もっとも中から出ることも叶わんが」
「お手を煩わせて申し訳御座いません」
老人の声と、それより幾分若いがやはり老いの見え始めた声。
二人の男の声を角の向こうに聞きつけて雫は慌てて足を止めた。壁に張り付いて息を潜める。
これが既に見つかってしまった後ならメアに頼んで実力行使もするが、見つかっていないならそれにこしたことはない。
彼女はあがってしまった息の音が聞こえないよう、必死で呼吸を整えた。
「死んでしまった魔法士は城の魔法士で補充いたしましょうか」
「その必要はない。ここまで構成が出来ていれば、あとは死そのものが残りの役目を果たすであろう」
「さ、左様で……」
男の声のうち、比較的若い方には聞き覚えがある。今日出会ったばかりの、どこか落ち着かなさと歪みを宿していた魔法士長のものだ。
その魔法士長がへりくだって話しているということは、相手はもっと目上の人間なのだろうか。
雫は角から顔を出して様子を窺いたい誘惑に襲われたが、それを我慢した。代わりに地図上の現在地を頭の中に描き出す。
北西方角、転移陣の広間の少し手前くらいだ。位置と会話からして、もしかして研究室の近くだろうか。
「刺客も好きにさせておけばよい。血が流れれば流れるだけ禁呪は完成に近づく。
 むしろ混乱は歓迎すべきことだ。核の陣さえ壊されぬようにしておけばそれでよい」
「核は王のいる中心部にありますれば。警備はもっとも厚くなっております」
「真に守られているのは王ではなく陣か。滑稽なことだ」
罅割れた笑い声に追従の笑いが重なる。雫はその異様さにぞっとして首をすくめた。まるでそこに滲む悪意が諸悪の根源のように思えたのだ。
だがそうしたのも束の間、足音が自分の方に向かって近づいてくることに彼女は気づく。雫は慌てて半ば壁に寄りかかっていた体を起こした。
身を隠さなければと思うのだが、運が悪いことに近くには柱の出っ張りも曲がり角もない。つい気になって話に聞き入ってしまった自分の迂闊さを彼女は呪った。
とりあえず逆方向に向って走り出す。しかし予想通りすぐに背後から「何者だ!」という声がかかった。
ここで「待てー」とか言われたらちょっと面白いかも、と戯言を考えていられたのもほんの一瞬で、二人分の声で呪文詠唱が始まったのを聞き取って雫は蒼ざめた。
「死ね! 小娘!」
「メア、防いで!」
相反する声が交差する。
何も起こらない、と思いかけた時、けれど彼女の体は前方に向って弾き飛ばされた。
横倒しになって床に叩きつけらる。衝撃に頭の中が真っ白になった。遅れて痺れるような痛みが襲ってくる。
「メア!」
雫の横には魔法に競り負けたのかメアが小鳥の姿のまま叩きつけられていた。雫はずきずきと痛む全身を揮って体を起こすと、使い魔を手の中に拾い上げる。
幸い肩から落ちたせいか、足はそれ程痛んでいない。まだ走れる。彼女は爪先に力を込めると立ち上がった。後ろを見ぬまま走り出す。
二度目の詠唱の声はどちらの魔法士のものか分からない。雫は嵌めていた指輪を抜き取り、それを背後に向って投げつけた。
エリクに貰った魔法具の指輪で気に入っていたものだが仕方ない。守護の指輪は押し寄せる炎の魔法の中心を貫くと、澄んだ音を立てて砕け散った。その代わりに炎もまた動きを止める。
「くそっ! 待て、小娘!」
ようやく定番の罵りを聞けたものの、定番の礼儀として雫は待たない。間近に迫った角を曲がった。
「メア、大丈夫?」
小声で手の中に囁くと弱弱しいながらも返事が返ってくる。彼女は使い魔を胸の中に大事に抱え込んだ。
まだ追っ手は角を曲がってきていない。時間はある。雫は次の角を目指して走る。
だが、その角を曲がった時、彼女は己の失敗に足を止めた。先はすぐに行き止まりになっていたのだ。右に一つの扉しかない。
背後にあたる死角からは足音が近づいてきている。一つしか聞こえないのは、もう一人はどこかに行ったということだろうか。
雫は右の扉に飛びついた。けれど鍵がかかっているのかびくともしない。焦りに彼女の手は震えた。
「どこに行った。もはやこの城に逃げ場などないぞ」
聞こえてくる声は魔法士長のもの。もう間近に迫っている。雫は手の中の使い魔と、自分のバッグを瞬間で見比べた。
―――― やるしかない。
決断に時間をかけてはいられない。彼女は床に置いたバッグの一番上にメアを乗せると、代わりに短剣の柄に右手をかけた。
奥歯を噛み締める。形にならない痛みが精神を走った。
だが――――
今は自分を信じよう。
こんなものは何でもない。
雫は柄にかけた指に力を込める。そして―――― 吐く息と共に短剣を抜き放った。銀の片刃がぞっとする程研ぎ澄まされた印象を与える。
心配そうなメアに頷くと彼女は顔を上げた。
「よし、行く」
雫は近づいてくる足音に向って走り出す。この時だけは何も考えず、ただ自分の体のみに意識を集中させて。

地下研究室にて逃がした少女を再び見つけたイドスは、怒気に顔を歪めながら彼女を追って廊下を歩いていた。
神出鬼没の主教は「核の様子を見に行く」と言って転移して消えたが、その後を追う気には到底なれない。
正直なところイドスは怖かったのだ。次第にあちこちから感じ取れる瘴気が、そしてそれを楽しむ主教が。
だが、部下の前でも主教の前でもその恐怖を出すことの出来ない彼は、標的たる少女が現れたことで恐れを怒りへと変えた。
彼女の血肉を撒き散らし、あの体を踏みにじることでせめてもの溜飲が下がる思いを味わいたい。
血に酔っていなければ、とても迫り来る未知の圧迫感に耐えられそうになかった。
「どこに行った。もはやこの城に逃げ場などないぞ」
少女の声は返ってこない。
だが、真っ直ぐに伸びる廊下には彼女の姿は見えないのだ。ならばすぐそこの角を曲がったに違いない。その先は行き止まりだ。
イドスは詠唱と共に手の中に構成を生みながら角へと近づく。
一撃では殺さない。軽く痺れさせ、身動きを取れなくしてから嬲ってやる。
彼は右手を前に上げながら、角を曲がった。

まず見えたのは、視界に広がる白い布だった。
女官が服の上から着るエプロン、それを顔にぶつけられてイドスはたじろぐ。
だが彼はそのまま退くことをせず構成を帯びたままの右手に力を込めた。電光がいくつも枝分かれしながら辺りに放たれる。
「痛ッ」
反射的な少女の声。けれど女の声はそれ以上洩れなかった。代わりにイドスは右膝をしたたかに蹴られ、短い叫びを上げながらうずくまる。
思いもかけない反撃。動転して、魔力が集中できない。構成が組めない。
溺れた者がもがくようにして、彼がようやく顔に貼りついた布を取り去った時―――― 既に、目の前には短剣がつきつけられていた。
名も知らぬ少女が黒い目で彼を見つめている。
「魔法を使わないで。使ったら刺す」
「貴様……」
「口をきくのも禁止。私が質問した時だけ許可」
刃先が一層近づく。
それは僅かに震えていたが、彼の眼前から離れる気配は感じられなかった。
イドスは、今の電光で左脇腹を初め、全身に何箇所か焼け焦げた痕を作った少女を見上げる。
黒く服が焼け落ちた下からは象牙色の肌が見え、めくれかけた皮と滲む血が見えたが、彼女は己の怪我に少しも拘泥している様子はなかった。
見慣れぬ顔立ちが厳粛さえ漂わせて彼を見下ろす。
「もう一度言うよ。あの禁呪は負の海に穴をあけるもの。完成したらこの城の人間はみんな狂うか死ぬかしかない。
 あなたはそれを知っていて進めているの?」
はい、答えて、と少女に言われてイドスは渋々口を開く。
「あの禁呪は……この城都一帯に精神支配をかけるものだ。負の穴を開けるものではない」
「ブー。それは嘘です。騙されないで」
最初に会った時と同じ会話。だが、この時イドスは少女の言うことの方に真があるのではないかと思い始めていた。
何かがおかしい。彼もまた宮廷において魔法士長となれるだけの実力を持っているのだ。
力を発揮しつつある構成が纏う気配が、精神支配の術が持つものとは一線を画しているのではないかという疑いが生まれてきている。
そして、だからこそ彼は恐怖を感じ、それを誰に言うこともできずにいた。
言えばきっと主教に殺される。もはや後戻りはきかぬのだ。
「人の死が禁呪を加速させてるの。もう時間があまりない。それは知ってる?」
「……知らない。だが、瘴気が漂い始めている」
「さっき核の陣って言ってたよね。もしかして、それを壊せば禁呪は止まる?」

雫は知らなかった。
ずっと一緒にいた魔法士のエリクは、滅多に魔法を使わなかったのだ。だから彼女は「人間が魔法を使うところ」をほとんど見たことがない。
そして、目撃した数少ない場合において、魔法士は全員が詠唱と共に魔法を使っていた。
だから彼女は知らなかった。腕の立つ魔法士ならば無詠唱で魔法を使えるのだということを。
「―――― ……っ!!」
脇腹に激しい痛みを覚えて雫は短剣を取り落とす。
見るとそこにはいつの間にか氷で出来た杭のようなものが刺さっていた。
まるでそれ自体に意志があるかのように、なおも体の中に向って進もうとする杭を、彼女は慌てて掴むと抜きさる。
途端に血が指の間から溢れ出し、雫はその量にくらりと眩暈を覚えた。
じくじくとした深い痛みは今まで経験したことのないものだ。 立っていられず膝をついて体を二つに折る。
全身を走り回る悪寒に、苦痛の呻き声を我慢することができない。
「……くっ……あ……っ」
涙が滲む。一体傷がどこまで深いのか。ただ傷口を押さえる手を離してはいけない気がして雫は全身の力を振り絞った。
「もう止まれぬのだ、小娘。お前も禁呪の礎となるがいい」
きつく目をつぶった頭に男の手が触れる。自嘲にも聞こえる言葉の半分は意味が分からなかった。
上を向けない。気が遠くなる。逃げることも出来ない。
ああここで死ぬのだなと、途切れ途切れに思った。

だが、雫はそれでも震える唇を動かす。
「教え、て、よ……陣を、壊……」
哀願でも恨み言でもない少女の言葉。それを聞いた瞬間イドスの目には傷に似た何かが生まれた。
初老の魔法士は形容しがたい感情を湛えて黒髪の少女を見つめる。小さな頭に手をあてたまま彼は口を開いた。
「―――― 核の陣を壊せば、城に溜まっている魔力は拡散していく……。禁呪も構成を失って散り散りになるだろう。
 だが、お前はここで死ぬのだ」
「あな、たが、こわせば、いい」
「私は……」
死にたくない。死にたくなかったのだ。だからイドスは主教に逆らえない。
なのに何故この少女は死の淵にあって自分の命を請わないのか。別のことを望めるのか。
愚鈍か、蛮勇か、それとももっと別のものか。
彼女は体を支えていられなくなったのか横になって倒れる。小さな頭が彼の手から離れて床の上に転がった。
先程まで彼を支配していた怒りはもうどこにもない。かといって代わりに恐怖があるわけでもなかった。
無表情のまま、ややあってイドスは詠唱を開始する。
どれほど高潔であっても、真摯であっても、人は死ぬ時はみな死ぬのだ。そこから逃れることは決して出来ない。
だからシューラは「絶望を知れ」と教える。束の間の生の安楽に溺れて怠惰となるなと訴えかけるのだ。
早いか遅いかの問題だ。いずれ自分も死ぬ。皆、死ぬ。それだけのことだ。たったそれだけの――――
彼は構成が出来上がった手の平を倒れた少女に向ける。
そして溜息を一つついて―――― その魔法を、打ち出した。