禁じられた夢想 048

禁転載

目が覚めた時、そこはベッドの上だった。雫は薄目を開けて見慣れた天井を見つめる。白い壁紙。大きな花の模様は十年以上見続けてきたものだ。
彼女はぼんやりとした頭を押さえて起き上がる。カーテン越しでも外は既に充分明るいと分かった。手を伸ばし大きく伸びをする。
雫は身に染み付いた動作でパジャマを履いた足を下ろし、スリッパに差し入れた。無意識に脇腹を手で探るがどうにもなってない。
「…………夢オチ?」
呟きは水玉のカーペットに落ちて弾ける。
そこは、雫が十八年を過ごした自宅の部屋だった。

雫はパジャマ姿で欠伸をしながら階下に下りていった。キッチンから聞こえてくる物音に、自然と足はそちらを向く。
ドアを開けると流しの前に少し年上の、髪の長い女が雫に背を向けて立っていた。
「雫ちゃん、起きた?」
「お姉ちゃん」
「休みだからって寝坊しすぎじゃないかな。みんなもう出かけちゃったよ」
「うん」
「ついでだからブランチ作ってあげる」
雫は「ありがとう」と返事をして椅子に座った。まだ体は半分眠っているようだ。頭の中に紗がかかってうまく動かない。
彼女はテーブルの上にあった麦茶のボトルを引き寄せてグラスに注ぐ。ひんやりとした味は妙に懐かしさを覚えさせた。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「何?」
「エリクを知らない?」
「…………」
「私、エリクのところに帰らないといけないんだ。ねぇお姉ちゃん、彼を知らない?」
姉は答えない。ただ黙々とコンロの上でフライパンを動かし続けている。
雫はグラスについた水滴を指で弾いた。
「お姉ちゃん、ありがとう。でも私、もう行くね。もうちょっと頑張ってみる」
姉は答えない。本当は姉ではないのだ。雫にはもうそのことが分かっている。彼女は実際、料理が苦手で、自分から作るなどと言い出さない。
だが雫はまるで本物の姉にするように話しかける。いなくなった雫を心配しているだろう家族への思いを込めて、そっと囁いた。
「お姉ちゃん、ごめん。行ってくるよ」
雫は立ち上がるとキッチンのドアに向う。背中に姉と同じ声がかかった。
「雫ちゃん。答は全部、あなたの中にあるのよ」
ドアノブに手をかける。それを押し開く。
次の瞬間雫は眩い白い光に包まれ、何も見えない視界にきつく目をつぶったのだった。

まず目に入ったのは自分を覗き込んでいる女の顔だ。金髪に緑の目の女。聖職者を思わせるような、整ってはいるが堅さが印象的な顔立ち。
雫はどこかで見たはずの女の名前がすぐには出てこなくて目を擦った。
「あ、起きた起きた。生きてるみたいね」
「おおむね生きてます……」
「生きてるってよ! ターキス!」
「そりゃよかった」
より聞き覚えのある男の声に雫は跳ね起きる。
見ると男は部屋の片隅で、頭の後ろに両手を置いて屈伸運動を繰り返していた。あまりの光景に雫は色んなことを忘れ口を開く。
「何でスクワット」
「空気が悪くなってきててな。体動かしてないとイライラすんだよ」
「それで瘴気の影響が抑えられるっていうんだから、ほんと頭が筋肉な男だよね、アンタって」
「充分気持ち悪いぞ。勘弁して欲しい」
瘴気、という言葉は雫の意識を現在に引き戻すのに充分な力を持っていた。彼女は自分の体を確認する。
灰色のワンピースはあちこちが焼け焦げ、破れている。脇腹付近などはたっぷり血が染み込んでおり、焼けたのとは別の黒い染みが広がっていた。
だが、傷は一つもない。雫は剥き出しになっている自分の肌を撫でて呆然と呟いた。
「怪我がない……」
「治しといた。血が随分出ちゃってたからさ。怪我塞いでも失血死するかと思ったけど」
平然と言う女の名を雫はようやく思い出す。直接話をしたのは初めてだが、名前はターキスから聞いていたのだ。
「ありがとうございます、リディアさん」
「いいよ。ターキスに貸しが増えただけだから」
「借りが増えた。雫、出世払いしてくれ」
「悪いけど出世する見込みはない」
雫がきっぱりと返すと、筋トレ中の男はまるで正答を聞いたかのように、にやりと笑った。

あの時、雫はイドスに敗北して殺されるところだったのだ。脇腹を刺されてからの記憶がない。もしかして二人が通りがかって助けてくれたのだろうか。
しかし、そう思って尋ねてみると、リディアは「使い魔に呼ばれて瀕死のアンタを見つけた。他に誰もいなかった」と返してくる。
どうせ大怪我をしたのだからすぐに死ぬと思ってイドスは立ち去ったのだろうか。雫は怪訝に思いながらも幸運を感謝した。
心配そうに近くで主人を見上げていたメアを拾い上げ、礼を言う。けれどその時彼女は、小さな部屋に一つだけある窓に気づいて愕然とした。
メアを乗せたままの手が震える。その震えは喉にまで伝わった。
「あの、今何時くらいなんですか?」
あれからどれくらい経ってしまったのだろう。急いで転移陣にたどり着かなければ、エリクのところに戻らなければと思っていたのに
―――― 窓の外は、すっかり暗くなっていた。
雫は月の光もないただ暗いだけの外を見上げる。
気を失っている間に真夜中にでもなってしまったのか。取り返しのつかない時間の経過に彼女は蒼白になった。
しかし、そこに深刻とはかけ離れた男の声がかかる。
「あー、雫。心配すんな。そんな時間は経ってない。昼の三時過ぎってとこだ」
「え? で、あれ。まっくら!」
「瘴気が城を覆ったみたいなんだよね。やばいわ、これ」
それで外は日蝕のようになってしまっているというのか。
雫は一度傷を負ったせいか違和感の残る体を動かして窓の前に立った。
硝子の向こうは暗くてほとんど何も見えない。だがそれは、夜のように暗いというより黒くて厚い布をすっぽりと被せられたかのような暗さだった。
「『禁呪』の名は伊達じゃないっていうか、まったくターキスの持ってくる話ってろくなもんがないんだよね。
 転移して逃げようかと思ったら、外への座標指定が効かなくなってるし。思いっきり閉じ込められた。
 ここで死ぬ羽目になったら、アンタ、貸しを返してから死になさいよ」
「何すりゃいいんだよ。何も持ってきてないぞ」
「腹踊りでもしといて。ちょっと気が晴れる」
「そんな死に様は嫌だ……」
絶体絶命の状況なのかもしれないが、少なくとも二人の掛け合いに緊張感は微塵も見られない。
緊張感はないのだが、そこに聞き逃せないものを感じて雫は窓際から振り返った。
「転移、できない?」
「そそ。この城の周りが魔法的に遮断されてて、出るも入るもできないのよ」
「城門ら辺にいた奴らどうなってんのかね。無事かな」
「て、転移陣も使えない!?」
悲鳴に近い叫び声にターキスとリディアは顔を見合わせる。ターキスはようやくスクワットをやめると、両手を軽く広げて見せた。
「使えないみたいだな。城の魔法士がそう言って慌てているのを聞いた」
「そんな……」
それでは助けを呼べない。エリクに頼まれた役目を果たすことができないではないか。
雫は目の前が外と同様真っ暗になった気がしてよろめいた。
今まで極限状態において彼女を支えていた「やらなければ」という気持ちが抜け落ちて、窓枠を掴んだまま床にへたりこんでしまう。
「どうした、雫」
「……私、ファルサスに行こうと思ってた。助けを呼ぼうと思ったの」
「あ、連絡ならしてあるぞ。そのうち来るだろ」
「へ!?」
何だか目が覚めてから驚いてばかりいる。
ぼんやりとした頭を動かして事態を咀嚼しようとする雫を前に、ターキスは「駄目だ、やっぱイライラするわ」とスクワットを再開したのだった。

スクワットをしながらターキスが教えてくれたことによると、ファルサスへの連絡は、もとから計画のうちに含まれていたらしい。
夜明けと共に民衆に禁呪について情報を流し、昼を過ぎても事態が解決していなければ数人の魔法士からファルサスに連絡が入れられることになっていた。
その真偽についてファルサスが確認を取り、動くまでに多少の時間差はあるだろうが、三日目までには魔法大国の手が入るだろうと見積もられていたのだ。
「ここで俺たちだけで何とか出来てれば、一気に名もあがったんだろうけどな。残念残念」
「っつーか、どう考えても無理だっての! 最初から連絡しといてよ!」
「それじゃ丸投げでつまらんだろ。傭兵失格じゃないか」
一体、二人はどういう関係なのか。スクワットをするターキスに向ってリディアは近くに転がっていた紙の箱を投げつけた。だが男はそれを難なく避ける。
放っておけばいつまでも舌戦を繰り広げそうな彼らに、雫は気を取り直すと割って入った。
「あ、あの、じゃあ本当にファルサスは来るの?」
「多分」
「来ると思うわよ。あの国禁呪って聞くとおっかないし」
ならばまだ間に合うかもしれない。ほっと息をついた雫に、けれどリディアは澄ました顔で
「ただファルサスが何とかするまで、私たちが生きてられるかは分からないけどね」
と皮肉な口調で現状を指摘したのだ。

雫が意識を失っていた約二時間の間、城は内外ともに禁呪によって一変していた。
外は瘴気の厚い膜によって外部と遮断され―――― そして内部では城の三階中央部が禁呪に飲まれ、瘴気に閉ざされた。
中央部に近づいたものは正気を失って暴れ狂い、苛烈な同士討ちが繰り広げられた結果、王を含め生存者はほぼ残っていないらしい。
一方、何とかそれらを免れた人間は瘴気を避けて城の外周部に逃げたものの、当然ながら城壁の外には逃げられない。
ターキスたちを初め、生き残った人間は皆、同士討ちを避けながら城の中を右往左往する羽目になった。
その上、禁呪の中央部は徐々にその支配領域を広げつつあるのだという。
結果、三日目で完成するという禁呪を待たずに、彼らは今危機に瀕していた。

「うげ。じゃ、人が死ぬと禁呪の進行速度が増しちゃうの? 最悪だよ。カイトなんかに声かけて逆効果じゃない。
 そういうのあらかじめ言っといてよね! ターキス!」
「え。俺も依頼主から魔法士を殺せば止まるって言われたんだが……。むしろお前が教えてくれよ。魔法士だろ」
「知るか! 禁呪の知識なんて普通の魔法士にあるわけないっしょ! 資料化されてるものでも城とかで厳重に封印されてるってのに」
禁呪について雫が自分の知っていることを伝えると、二人はある意味予想通りの口論を開始した。
どうやらリディアに頭が上がらないらしいターキスと、遠慮なく彼に非難をぶつける彼女の会話は聞いていて清々しいくらいの勢いがあるのだが、今はのんびり それを聞いていられる余裕はない。雫は手を握ったり開いたりして問題なく動くことを確認すると立ち上がった。
「あの、助けてくれてありがとうございます」
「いいよ、別に。これから死ぬかもしれないし」
「俺は腹踊りは嫌だ」
「ターキスの腹踊りはともかく、私、もう行きますね」
雫は一緒に回収してもらったらしいバッグを手に取った。一つだけある扉の前に立つと、意味が分からずきょとんとしている二人を振り返り、頭を下げる。
「少し待っていてください。何とかしてきます」
「ちょっ……ちょっと待ってよ。どこ行こうっての?」
留めようとするリディアに雫は穏やかに微笑む。そこには少なくない緊張もあったものの、既にこれからを決めた者の静かな決意が見て取れた。
今は指輪をしていない手が、真っ直ぐにある方角を指差す。
「中央部、核の陣のところへ」
異世界の少女はそう言ってドアを開ける。それは、まさに城一つ滅ぼそうとする忌まわしい魔法への、ささやかな宣戦布告であったのだ。