禁じられた夢想 049

禁転載

中心部の核の陣を壊せば、禁呪は止まる。
それはどこで聞いたかは分からないが、雫の中に確信として刻まれていた言葉だった。
だが目覚めてからすぐに自分が行こうと思い立ったわけではない。ターキスやリディアと情報を交換して「行けそうだ」と思ったからだ。
ファルサスに既に連絡が行っているというなら、自分が出来ることはこの城の中にしかない。
地下室に戻ってエリクを迫り来る禁呪の前から動かそうかとも思ったが、それはリスクとリターンが不均衡な行為だ。
彼を動かせば禁呪の速度が更に増してしまう。うまくその場を逃げられても、城内に閉じ込められている以上遅かれ早かれ限界は来るだろう。
それよりも、禁呪自体を止めることができたなら。
核がある中央部は同士討ちによって生存者はいないのだという。そして雫は、瘴気の影響を受けない。
なら誰もが近づけない場所に彼女が入って核を壊してくればいいのではないか。
そのことに気づくと同時に心は決まった。
難しいことでも何でもない。むしろ、やらなければならないことだ。
時間はない。すぐに行けばまだ間に合う。
そうすればきっと、彼と旅を続ける日常に帰れるはずなのだ。

雫は扉を出ると走りだす。
背後でリディアが「待ちなって!」と叫ぶ声が聞こえたが、足を止めなかった。
ターキスが追ってくるかもと用心したが、その気配はない。雫は人が逃げてしまった後なのか静まり返った廊下を城の中央に向って走り続けた。
窓がなくなり、何度か角を曲がっているうちに空気が悪くなってくる。
だがそれは瘴気を感じ取っているというより、血の臭いであるようだった。雫は壁に飛び散った血飛沫を見つけて眉を曇らせる。
これは夢だと、泣き叫んでしまえたなら楽になれるだろうか。
けれど彼女はもう何度もそう言った場面を経験してきた。そして、その全てを乗り越えてきたのだ。
この世界に生きる人も、彼女が知る「人」も、同じ人間だ。そしてこの世界は人によって千年以上もの歴史を積み重ねてきた。
ならば自分がその一端を担うこともできるはずだ。
狂わされて殺されるのは嫌だと、こんな魔法などあってはならないと、彼女もまた思っているのだから。

「カンデラの城都で騒ぎが起こっているらしいな」
「騒ぎ?」
突然呼び出されていささか機嫌の悪い女は、男の言葉に顔を顰めた。
見る者全てに感嘆の溜息をつかせる美貌が途端に険を帯び、同じ部屋にいた文官が顔を引き攣らせる。
「騒ぎとは一体何でございましょう」
「さぁ。よく分からない」
「分からないことで私を呼び出さないで下さいますか? 兄上」
「分からないからお前を呼んだんだ。カンデラが禁呪に手を出したのではないかという情報が入ってきている」
禁呪、というその一言で部屋の空気は一変した。女の青い瞳に剣呑な光が生まれる。
「確かなのでしょうか? 禁呪とは」
「騒ぎを起こしている民衆はそう言っているようだ。後は城都に居合わせた魔法士数人からも異様な魔力が立ち込めているとの密告が入ってきている。
 が、城で何が起きているのかはまだ分からない。困ったものだ」
男は回りくどい言い方を好んでいるかのように、はっきりと答を出さない。
それは彼がこういった魔法の揉め事に対し、妹の方に決定権があるという姿勢をとっ ているからだ。
彼は魔法士ではなく、彼女は魔法士である。魔法大国であるこの国において、国の頂点は彼であっても魔法士の頂点に立つのは彼女の方なのだ。
「私に様子を見に行けと、そういうことでしょうか」
「行ってくれたら嬉しいと思ったりしなくもない」
「棒読みなさらないでください。余計腹が立ちます」
「怒ると皺になるぞ」
「そういうところだけ真剣に仰られると、吹き飛ばしたくなってしまいます」
「無視するわけにもいかんから、精霊だけでも出してくれ。現状を把握したい」
ようやく真面目な要請をする兄に彼女は澄ました顔で了承を示す。白い右手を何もない空間に差し伸べ、使い魔たる「精霊」の名を呼んだ。
「シルファ。おいで」
「参りました」
何もない空間に一人の少女が現れる。真白い髪に銀の目。人間としてはまず見ない色彩を纏った上位魔族は主君である女に優美な仕草で膝を折った。
「何なりとご用命ください。 レウティシア様」
「カンデラの城都に様子を見に行って頂戴。何が起こっているのか私に報告するように」
「かしこまりました」
何の詠唱もなく精霊の姿が消えると、女は兄を振り返って目だけで「これでよろしいですか?」と尋ねる。
その問いに若きファルサス国王は満足そうに頷いたのだった。

あっという間に角を曲がって見えなくなった少女に呆然としてしまったリディアはだが、すぐに振り返るとスクワットを続ける知己に駆け寄ってその足を蹴りつけ た。ターキスは「いてぇ」と言いながら筋トレをやめて立ち上がる。
「さっさと行って連れ戻して来なさいよ、このぼんくら!」
「ぼんくらって……。本人が行くっていうんだからいいだろ」
「いいわけあるか! あんなただの女の子に何が出来るんだっての!」
「俺もそれを知りたい」
男の言葉は揶揄でもなく言い訳でもなく、本当にそれだけの意味しか持っていなかった。リディアは眉をひそめて沈黙する。
「お前も見ただろ、雫の持ってた本」
「…………」
廊下に血まみれになって倒れていた少女。
彼女にリディアが治癒をかけ始めた時、ターキスは離れた場所に落ちていたバッグを拾い上げた。
そしてそこから零れ落ちてしまった小さな本を何気なく手に取った時、彼は訝しさという枠には収まりきれない衝撃を受けたのである。
本の小ささにもかかわらず中にびっちりと並んでいた細かい文字列は、共通言語を使うこの大陸のどの文字ともまったく似ていないものだった。
勿論祖先を同じくする東の大陸とも違うだろう。それに彼女は出身地を「東の島国」と言ったのだ。
つまり彼女はこの大陸でも東の大陸でもない、ほとんど交流もなく情報もない未知の場所から来たということだ。
世界にまだいくつかあるという大陸やそこに属する島のどれかか、それとももっと――――
何故、どうやって、そんなところからこの大陸に来たのか。何故ファルサスを目指して旅をしているのか。
それは彼女が何者かという疑問と結びついているように思える。
「それにお前の言う通りなら、あいつは少し変わった体をしてるってことになる」
「……血が多い体質なのかもしれないじゃない」
「一命を取り留めたのはともかく、あの出血量じゃ普通はすぐには動けないだろ」
雫を手当てした時「これだけ血が流れてるんじゃもう助からないと思って」と自分で言ってしまった手前、リディアは忌々しげに唇を噛む。
傷は塞げても魔法では失われた血を補充することは出来ないのだ。だがあの少女は傷を治しただけで元通りになってしまった。
少しおかしいなとは思う。だがそれだけだ。細く小さな体からは魔力も感じ取れず、戦い慣れた動きでもない。
誰もが手をつけられないでいる禁呪に立ち向かえるほどの人間とは全く思えないのだ。
リディアは舌打ちすると、「イライラするから」と筋トレを再開した男を睨みつける。
「それがアンタの勘違いであの子が死んだら家族には謝っときなさいよね」
「あの顔でもう十八だそうだぞ。自分の責任だろ。それにその時はそれまでの人間だったってことで……腹踊りでもして謝ってやるさ」
「それ謝ってない! 最悪だ、アンタ!」
「普通に謝るより俺は嫌だ」
「相手も嫌だよ!」
かつて四つの国から宮廷に仕えるよう勧誘を受けながら、その全てを蹴り倒した女は不機嫌そうな顔で押し黙る。
禁呪が組まれ始めてから二日目。既に瘴気に堕ちつつある城は、一人の少女を除いてその動きを止めようとしていた。

廊下の先に重なり合う二つの死体が見えた時、雫はさすがにぎょっとして足を止めた。
互いに切りあい息絶えたのか、広がっている血溜りと投げ出された長剣。
まるで映画の一場面のような光景は、現実だと認識すれば普通の少女には正視に堪えない程、壮絶なものだった。
だが自失しかけた雫は、すぐに冷静になれと自分を叱咤する。
中央に近づけば近づくほどこういった死体は増えていくはずなのだ。
既にもう自分は「普通の女子大生」ではない。普通の女子大生は魔法のある世界を旅したりしない。
だから吐きたいような泣きたいような現実も、その場にうずくまるのではなく、そうなってしまったものとして捉えられるはずなのだ。
「メア、ここで待ってて」
雫は重いバッグを柱の影に置くと、その上にメアを乗せる。
彼女が例外的に瘴気の影響を受けない存在でも、使い魔はその例外に含まれないのだ。
メアは心配そうに主人を見上げたが、 「すぐに戻るから、待ってて」 と付け足されると一声鳴いて彼女の命令を受け入れた。
雫はこの城に来て初めて手ぶらになると、倒れている二人の遺体の傍に歩み寄る。
「お借りします」
手に取ったのは血に濡れた剣。だが彼女は躊躇いもなくそれを拾い上げた。
目を開けたまま死んでいる兵士に歩み寄り、強張った手を伸ばして男の両眼を閉じさせる。
―――― 城都についてすぐの頃、エリクと死後の概念について話をしたことがあった。
その時、この世界での人の死の無情さに憂鬱を滲ませた雫に対し、彼は
「仮に死後の世界があるのだとしてもそれを知る事が出来ない以上、彼岸へのあらゆる夢想は生きている人間の為のものだ。
 だから君は信じていてもいいんじゃないかな。死した後も救われる可能性があるんだって」
と別の見方を示したのである。
聞いた時は承服できなかった。気休めと分かっているのに自分の心の平安だけ買うことなど出来るわけがないと。
だが、間近にいくつもの死を見た今なら分かる。
悲しんで、祈ってもいいのだと。
それが死者を救えばいいと夢想しながら、死後の安寧を期待すればいい。
起こってしまったことに哀惜を抱きながらも、もう手が届かない無力さに苛まれながらも、自分が前に歩き出す為にそれはきっと必要な儀式なのだ。
雫は自分の身長には少し長い剣をもてあましながら、だがそれを携えると走り出す。
積み重ねられた死を越えて、血と瘴気に染まった空気の中を黙して踏みしめ、静寂に包まれた長い道のりの果てに――――

そして彼女はついに「絶望」の前に立った。