禁じられた夢想 050

禁転載

あちこちに立てられた燭台が照らす以外は薄闇の中に埋もれている部屋は、見える限りでは壁までもが赤黒く塗装され、その飛沫は天井にまで到っていた。
雫はお化け屋敷もここまで陰惨ではないだろうという部屋に一歩踏み入って口元を押さえる。
先程から大分慣れてきてはいるが、どうもふとした瞬間に吐き気が喉の奥を突き上げてくる。
その都度彼女は生理的に浮かび上がってくる涙と共に、逆流してきた胃液を苦くも飲み込まなければならなかった。
気を逸らさねばならない。それとも集中か。
ともかく、精神を挫かれていてはここから先に進めないのだ。
元は何色だったのか分からぬ絨毯を踏み、雫はゆっくりと奥へ向う。
闇の中、輪郭だけが窺える死屍を避けながら彼女は前に進んだ。暗がりの向こうに蝋燭の炎とは異なる色の光がちらついているのが目に入ってくる。
まず頭に浮かんだのは「紅い鬼火」という単語だ。
小さな鬼火は床の上に複数灯り、辺りを禍々しく染め上げていた。近づくにつれそれらは円形に配されているのが分かる。
「これが……核の陣?」
鬼火たちの目の前までたどり着いた雫は息を飲んで床に浮かび上がる魔法陣を見下ろした。
直径は二メートル程だろうか。要所要所で揺れている火とは別に、線自体もうっすら赤く発光している。
複雑に書き込まれた魔法陣は、足を踏み入れることを躊躇わせる圧力を如実に醸し出していた。
「うー。どうやって壊そう」
試しに剣の先で目の前にある鬼火を切ってみたが、まったく何の影響もないようだ。
だとするとやはり石の床自体に描かれている線そのものを崩すしかないだろうか。雫はツルハシか何かがないかと辺りを見回した。
その視線がふと、魔法陣から少し離れた場所で倒れている男の上で止まる。
魔法士のローブを着て、陣に向って手を伸ばしながら伏している男。雫はその姿に既視感を覚えて吸い寄せられるように男の傍に歩み寄った。
半ば床と一体化している死体の顔を覗き込む。
「その魔法士は裏切り、抗ったのだ」
突然の声は魔法陣よりも更に奥から響いた。彼女は弾かれたように体を起こすと剣を意識する。
誰かがまだ残っていたのだろうか。陣を壊そうとする自分を攻撃するつもりか。
そう思って用心したものの、だがその人物が近づいて来る気配はない。
よくよく目を凝らしてみると、部屋の奥に玉座が据えられており、そこに誰か人間が座っているのがぼんやりと見て取れた。
その男もまた魔法士のローブを着ているようだが顔は見えない。けれど、声は先程聞いたばかりのものだった。
「裏切りは人の常だ。だから私はそれを責めぬ。だがその魔法士は死んだ。陣を壊そうとして流れ込む力に耐え切れず、器が壊れたのだ」
「……壊そうとして」
苦悶の表情のまま死んでいた男。
禁呪を破壊しようとして命を絶たれた男は、つい二時間ほど前に雫を重傷に追い込んだカンデラの魔法士長その人だったのである。

名前も知らなかった魔法士長がどのような懊悩を経て禁呪の破壊を試み、そして死したのかは雫の想像し得る領域外のことだ。
だが彼女の目的でもある陣の破壊は、命の危険を伴う可能性があるということだけはよく分かった。
あとはその危険が「この世界の人間」だけに起こるものなのか、彼女にも影響するものなのか……。
そしてもう一つの危険。玉座に座っている魔法士の老人のことも無視はできない。
魔法士長がへりくだっていた男、その意味するところは――――
「……あなたがシューラ教の主教ですか」
彼が、この事件のそもそもの発端である男ではないのか。
禁呪を組むと決定したのは王らしいが、その禁呪を今のものに書き換えさせたのはシューラ教の主教ではないかと言われている。
そして、先程の彼と魔法士長との会話から察するに、その推察は間違いとは言えないようだった。
硬質な雫の問いに、凄惨な部屋と比してただただ老いて静かな声は答える。
「主教と、呼ばれていた。この体にまだ個の意思があった時には」
―――― これはやばい。
雫は反射的に心の中でそう呟いた。
トランス状態にあるのか本当に憑依されたのか、とにかく非常に不味い気がする。
唯一幸いと言えるのは、主教が一度遭遇した時とは違ってすぐに雫を攻撃する気はないようだということだけだった。
彼女は長すぎて切っ先を石床に触れさせている剣を、気づかれないよう少しずつ前へと動かす。
核の陣に向って刃を慎重に近づけながら、雫は相手の気を逸らす為に男に向って声をかけた。
「では、あなたは誰ですか」
「名前はない。いつも、どこにでも在るものだ」
「シューラですか」
「そう呼ばれていたこともある」
「シミラと同じ?」
「いつかの時には」
「あなたは何ですか」
男は少し沈黙する。
まるで電気がついたり切れたりするようだ、と雫は思った。
そこにいる存在は能動性を感じさせない。問えば答える。定義すればそれとなる。だが自分からは何にもならない、それだけの不定な何かに思えた。
男は沈黙する。電池が切れてしまったのだろうか。動かないのか。
そう思えた少しばかりの空白の後に、「それ」は
「私は絶望である」
と囁いたのだった。

もし、今の自分の双肩に色々と譲れないものがかかっているのではないとしたら、雫はすぐさま回れ右をしてその場から逃げ去っていただろう。
本音を言うと今でも逃げ出したい。が、彼女は意志の力を振り絞ってその場に留まった。
この男―――― 男でさえないのだろう、「それ」は間違いなく不味いものだ。
こんな風に人が向き合っていいものではない。本能的に予感がそう告げると同時に、彼女の全身を悪寒が走った。
対話を繰り返すことが唯一、この状況を破滅的なものの一歩手前で留める効果がある気がして、雫は緊張に狂いそうになりながらも質問を探す。
「あなたは、負ですか」
「私は人に成る以前の人の負だ」
「負の海に棲むものですね」
「怨嗟、諦観、悲嘆。その全てであり、より根源のものだ。そして私は絶望とされる」
「人によって定義されたら、ということですか」
「人にしかこの私は意識されない」
「劣等か優越か」
「どちらでもある。私を意識し得るということは優越ではあるが、私そのものは最下層に位置している」
「ならばあなたは、何を望みますか」
ここで世界の破滅とか言われたらどうしよう、と思いながら雫は問答を定義より一歩先に進める。鋼の剣先が石畳に擦れて嫌な音がした。
陣を構成している最外周まであと数センチ。触れたら電流が走って感電するかもしれない、と嫌な想像が頭をかすめる。
心身ともに身構える雫に、だが「絶望」は何かを読み上げるような平坦な口調で応えた。
「私は何も望んではいない」
「ですが、あなたはここにいる」
「招かれたからだ」
手違いです、帰ってくださいと言いそうになって雫は口をつぐむ。
帰って欲しい、と頼んで帰ってくれるのだとしても、そう確信が持てるまでは動かない方がいいだろう。
今は相手の出方を探ることと時間を稼ぐことの方が大事だ。だがそう思った雫は自分にはあまり猶予がないことを思い出す。
彼女は変わらず揺れている鬼火に視線を移した。
「穴はまだ開いていませんか?」
「未だ。ただとても近くにはある。もとより私は人の中に在り得るものなのだから」
まだ二日目の昼だ。決定的なところまでは至っていない。その答は彼女を安堵させたが、それだけでしかなかった。
今、止めねばならないのだ。雫は剣をまた少し動かす。
冷静に。とにかく、冷静に。
恐怖に走り出しそうな精神の手綱を取り、何度も自分を落ち着かせる。
携える両刃の煌きが赤い火を映し出した。
息苦しさが頭の内部を締め付け、徐々に視界が閉じていくような錯覚。
夜の中、何もない場所に一人、立っているのではないかと思える途方もなさ。
だがそれは、他でもない自分が見た世界でしかない。そして自分によっていくらでも塗り替えられる。
雫は深く息を吸った。
―――― 大丈夫。やれるはず。
彼女は目を閉じ、世界に溶け込むような息を吐き出す。
剣を握る指に力を込める。
ただ真っ直ぐに、自分を保って。
そうして雫がもう一度目を開いた時―――― 彼女は、かつてないほど静かに研ぎ澄まされた世界の中へと立っていた。

「あなたが人の魂に近しい存在なのだとしても、今は近すぎます。人が狂ってしまう」
「仕方がない。人とはそうしたものだ。初めから私に繋がっている」
何故人は怒るのか。恨むのか、悲しむのか。
その答の一つは負の海に由来するものなのかもしれない。魂は負に向っていつでも開いているのだから。
だが、それだけではないと雫は思う。
世界を異にする彼女もまた怒り、嘆く。それは人間である以上、生来から染み付いた当然のことだ。批判することは出来ても否定することは出来ない。
だからきっと、負の海が全てではないのだ。
そして、時に自分の中で暴れだそうとする負を抑える術をも人はまた知っている。
「人は理性を持つ生き物です」
「そう。正にも繋がっている。人は何にでも繋がっている」
「あなたの言うように魂が何にでも繋がっているのだとしたら、何に従い何を選ぶのか、それは個々人の意志に委ねられています。
 誰であろうとも他者がそれを侵すことはあってはならない。私は精神の自由を望みます」
「望んで、何と為す?」
「あなたに人を明け渡すことはできない」
それが、人としての彼女の結論だ。
彼女が信じる人の尊さだ。
雫は両手で掴んだ剣を振り上げる。
鏡面のように磨かれた刃に、自分の黒い瞳が映った。
迷いはない。
死の恐怖もない。考えない。
彼女は魔法陣を構成する一番太い外周に狙いを定める。
剣の向こうに鎮座する「何か」の存在を強く感じた。
「お前がそれを言うのか。世界に迷い込んだ棘よ」
何も聞こえない。止まらない。
雫は言葉にならない叫びを上げる。
意志と根源がぶつかりあう一瞬。
彼女は全身の力を込めると、紅い線の上、長剣を突き立てたのだった。

押し寄せる力に雫の体は容易く跳ね飛ばされた。
いつかメアにされたように、彼女は軽々と宙を飛び離れた場所に落下する。
咄嗟に腕を出して受身の真似事をした為、致命的な怪我はしなかったが、痺れに似た痛みが左半身を襲った。
「っ……痛………………いたくない!」
雫は気合を入れて顔を上げる。
このままここで痛みが行過ぎるまで耐えていたいが、そんな状況ではない。魔法陣がどうなったのか、確認せねばならなかった。
ぼやける視界に焦点をあわせる。
赤い鬼火が揺れている。
だがそれは、先程までのようにゆらゆらと光を放っているのではなく、今にも吹き消されそうなほど強い風を受けて揺れているのだった。
彼女はあまりのことに目を瞠る。
「た、竜巻?」
魔法陣の上に小さな竜巻が生まれている。何がどうなっているのか、中央に向って捻れる風は大きく鬼火をあおり、周囲のものを吸い上げ始めていた。
雫は慌てて立ち上がる。まだここまでは影響はないが、巻き込まれてしまったらたまらない。振り返って広間の出口を確認した。
―――― 逃げるべきか、留まるべきか。
咄嗟に判断がつかない。出来うる限り状況を見極めようと雫は竜巻を凝視する。
部屋中の空気が吸い寄せられる。
立ち込めていたものが晴れ、漂っていた淀みが徐々に薄まっていく。
刻一刻と肌に感じる変化に、雫は乱れる髪を押さえながら息を飲んだ。

吹き荒れる風の向こうにローブを着た男が立ったのはその時のことだ。
人ならざる何か。
今まで会話をしていた男の顔が、吹き消されそうな鬼火によって照らされる。露わになったローブの下の顔に彼女は慄然とした。
人間としての意志がない黒いだけの瞳。虚ろな暗い海そのものが竜巻を見つめる。
それはまさしく目を合わせてはいけないもので、雫は本能的な悲鳴を上げそうになるのをかろうじて堪えた。
「何か」の視線が彼女を捉える。
「外から来し者よ。お前は何を望む」
「わ、私は……」
雫は気圧されて言葉に詰まる。あの「何か」がいるということはまだ終わっていない。
そして、問われているのは彼女の他にいないのだ。震える唇を彼女は動かす。
「私は……もとの……」

『元の世界に帰りたい』

そう答えようとした。その為に、旅をしてきたのだと。
望みなど他にない。これが一番大切なことで、叶えたいことだ。
―――― その、はずなのに。
言葉が途切れる。
何故、今そんなことを聞かれるのか。
雫を「別の世界から来た」人間として認識している存在は、それを聞いてどうしようというのか。

もし答えて、そして元の世界に戻れるなら。
雫は息を飲む。それだけの力が、現出した根源にあるのなら。
出来るなら、もう少しだけ待って欲しい。せめて彼が無事だと分かるまで。
ほんの少しでいいのだ。もう一度会って、礼を言う。それだけの時間で構わない。
だが、それだけの時間が………………今の雫の、一番欲しいものだった。

「答がないのか。異質な棘よ」
「ま、待って」
「いるはずのない存在。あるべきではない意志よ。
 ならばお前は、人の望みによって排除されるのだ」
「―――― え?」
聞き逃せない不吉な言葉に雫は目を見開く。その時、男は何の前触れもなく床の上に崩れ落ちた。
虚ろな眼窩から、口から、「何か」が竜巻に向って吸い出される。風がより一層勢いを強めた。
陣のもっとも近くに転がっていた魔法士長の死体が、まるで人形のように竜巻の只中に吸い込まれる。
それだけではなく部屋中に転がっていたのであろういくつもの遺骸が暗闇の中から現れ、陣の中に引き寄せられていった。
「な、何!?」
単純に風の力が為しているのではない。だとしたら鎧を来た大柄な兵士の遺体が軽々と風に引き込まれることはないだろう。
現に雫は吹き荒れる強風の中立っていられるのだ。近くにある椅子もまた動いていない。
死体が、吸われている。
そう理解した彼女は耐え切れない戦慄に体を震わせた。
何かが起こる。
おそらくはよくない何かが。
雫は竜巻から目を離さぬまま、扉に向って後ずさり始めた。
瘴気は晴れた気がする。空気の中に混ざりこんでいた圧力が今は感じられないのだ。
だが、その代わりに目の前の竜巻は、まるで城中の負が集められていくかのように黒く濁りつつあった。
「ま……ずいよね。これ」
剣は手放してしまった。メアはいない。今の雫には自分を守る力さえない。
扉まであとほんの数歩というところまで彼女は後退する。その時、不意に風は止んだ。
「―――― うそ……」
雫は自分で見たものが信じられず凍りつく。
十を越える死体が吸い込まれたはずなのに、そこには人の体の影も形もない。
代わりにそこに居たのは―――― 紅い両眼で雫を見据えている、体長十メートルはあるであろう漆黒の大蛇だった。