禁じられた夢想 051

禁転載

真っ黒な大蛇。
これが動物園などで厚いガラス越しに対面したのであれば、雫は恐怖を覚えながらもこれほど戦慄はしなかったであろう。
だが、この血塗られた部屋において彼女と大蛇の間には何もない。ただ十五メートル程の空間があるだけだ。
血のように赤い眼が雫を見つめる。そこから感じられる威圧に、彼女はカエルと同じく凍りつくのではなく……素早く踵を返した。
半開きの扉を押し開け廊下に駆け出す。走り始めたばかりなのに心臓が激しく揺れ動き、そのまま口から飛び出してしまいそうだった。
「まずいまずい! 何あれ!」
たとえ剣を持っていたとしても戦えるような相手には思えない。そもそも彼女は蛇が嫌いなのだ。
雫は走りながら首だけで後ろを振り返って――――
「ぎゃあ!」
逃げ出した彼女を追う為にか、蛇もまた魔法陣の上から動き出していた。廊下に出て迷うことなく距離を詰めてくる。
映像でしか見られないような大蛇が蛇行して前に進む速度は、目を瞠る程早いわけではないが、逃げる雫と大して変わらない。
追いつかれたら丸飲みだろうか。そんな思考を一瞬でして雫は走る速度を速めた。自分でも限界と思われる体を酷使して廊下を駆けて行く。
「やだっ! 蛇やだ!」
死ぬのは嫌だが、蛇に食われて死ぬのは中でも上位三つに入るくらい嫌だ。雫は恐慌に陥るぎりぎりの境界をさまよいながら、血に汚れた廊下を蹴って走る。
背後から聞こえてくる蛇が床を滑る音に悪寒がとまらない。もはやあの蛇が雫を狙って動いていることは明らかだった。
途中で幾つかの死体の隣を駆け抜ける。そのまま二十メートル程走って彼女は嫌な予感に振り返った。
「ああああああっ! 最悪!」
大蛇は先程より一回り大きくなっている。転がる死体を吸い込んだのだ。その為移動速度も若干増していた。
このままではおそかれはやかれ追いつかれそうだ。逃げ惑って遺体がなくなってしまうのは申し訳ないのだが、今はそれより自分の命を優先させて欲しい。
雫は廊下の先に見覚えのある小さな人影を見出して片手を上げた。
「メア! 逃げるよ! 走って!」
少女の姿に戻っていたメアはそれだけで事態を把握したらしい。雫のバッグを拾い上げると主人を待って走り出す。
もっとも詳しい説明をしている時間はなかったし、せずとも背後から巨大な蛇が追ってくるのだから説明の必要もないだろう。
二人は角を曲がって階段をもどかしく下りると、今度は一階の廊下を駆け始める。
死角に入り、見える範囲からいなくなった少女。
だが城中の瘴気を凝り固めた蛇は、まるで目標がどこにいるのか分かっているかのように、違えることなくその後を追っていったのだ。

廊下の奥に見える窓からは翳り始めた日の光が差し込んでいる。
城を覆っていた瘴気が晴れたということは喜ばしいことではあったが、現在の雫にはそれを喜んでいる余裕はなかった。
余所見も許されず、ひたすらに廊下を北西方角に向って移動中である。
つかずはなれずの距離で追って来る気配は、死体が辺りになくなったせいか最後に見た時の大きさのままだったが、直線が続くと距離を縮めてくる。
その度に雫は絶叫しながら角を曲がり、差を広げる努力をせねばならなかった。
どこまで逃げれば解決するのかは分からない。分からないが、あんなものを何とかできるのはまず魔法しかないだろうと、魔法の限界をよく知らない彼女は思って いる。そして、居場所が分かっていて腕の立つ魔法士と言えば、彼女はリディアしか知らなかった。
あまり面識がない上、命の恩人である魔法士を怪獣退治に巻き込むのは心苦しいのだが、ターキスもいることだし何とかなるかもしれない。
いささか強引に結論を出して雫は彼らのいた部屋に向う。

走っていく廊下の先、不意に前方でドアが開く。中から一人の兵士がきょろきょろと辺りを見回しながら出てくるのを見て、雫は「あっ」と口を開いた。
「危ない!」
突然の少女の声に兵士は彼女の方を見て―― 蛇に気づいたのだろう―― ぎょっと硬直する。
そして、無理からぬことだが……そのまま中に逃げ込んで扉を閉めてしまった。
見事に見捨てられた雫は安堵したような泣きたいような気分でドアの前を通り過ぎる。
遅れて追って来る蛇も、逃げた兵士には興味もないのか部屋の前を素通りしていった。
「メ、メア。私が食われちゃったら逃げていいからね!」
「私はマスターに最後までお仕えいたします」
そう言ってくれるのは嬉しいのだが、出来ればメアも自分も死なせたくない。雫は見覚えのある角を曲がりながら痛む肺を酷使して声を張り上げた。
「ターキス! ターキスちょっと! 助けて!」
「お、戻ってきたのか、雫」
のん気な声を上げながらドアを開けた男は、さすがに廊下の向こうから走ってくる少女と、大蛇を視界に入れて瞬間沈黙する。
だが彼はすぐに我に返ると、部屋に逃げ戻ることはせずに抜剣しながら背後に鋭い声を掛けた。
「リディア来い! 敵が来た!」
「敵?」
「蛇だ蛇! 早く来い!」
「へび?」
首を傾げながら廊下に出てきた女は、やはり接近しつつある大蛇を視界に入れて硬直する。整った顔が見る間に蒼ざめた。
「しょ、瘴気の塊!?」
「いいから結界張れ! 雫が食われる!」
男に叱咤された彼女は眉を上げたが、反駁することなく詠唱を開始する。
そのまま雫がターキスの元にたどり着くと同時に、蛇の眼前に不可視の結界が張られた。メアがそれを補強する。
初めての抵抗に蛇は動きを止め、赤い舌を出して雫を睨んだ。しかし、本能的な恐怖を呼び起こす大蛇の圧力も、心臓が破裂しそうな雫には本来の半分ほどの効果 しか与えない。彼女は膝に両手をついて必死に呼吸を整えた。
「何だあれは。雫」
「瘴気、と、死体。あと負。たぶん」
「禁呪を凝縮したのか。シューラ偶像と同じ姿だな」
「倒せる?」
「分からん。リディアどうだ?」
「核と瘴気を切り離せれば。けど、これは自信ないわ……」
禁呪を何とかすると言って出て行ったのに、その禁呪を連れ帰ってきてしまったのだから申し訳ないとしか言えない。
荒い息をかろうじて復調させると雫は体を起こして蛇を見返した。血色の双眸が雫を射抜く。
―――― 黒い瘴気の塊は彼女しか見ない。彼女しか追って来ない。
その疑いを確認する為に雫は左右に数歩動いて見たが、蛇の視線は彼女から逸れなかった。
むしろ距離を縮めようとして結界を押して来る。途端、かけられる圧力にリディアの顔が苦しげに歪んだ。それを見てターキスが結界の前に出ようとする。
だが、単なる鋼で出来た剣が負の結集である蛇に効果をあげられるようには思えない。雫はメアからバッグを受け取ると背後の廊下を確認した。
昼過ぎに連絡が行ったというファルサス。彼の国は今頃調査に乗り出しているのだろうか。
城を隔離していた瘴気は晴れた。ならば内外の出入りは自由になっただろう。調査隊が来るかもしれない。
雫は蛇を見上げたまま後ずさり始める。圧してくる蛇を魔力を振り絞って押し留めるリディアに彼女は声をかけた。
「リディアさん、私が距離を取ったら結界解いてくれますか?」
「へ? 何で!」
「私を狙ってきてるみたいなんで、どこか遠くに捨ててこようかと……。時間稼げばファルサスが来ますよね」
「そりゃ来るだろうけど、って、食われたらどうすんのよ!」
「ここまで走って来れたから、もう少しくらい平気ですよ。きっと」
「待て待て雫! 勝てねぇならやめとけ!」
ターキスが振り返って留めたが、その時既に雫は走り出していた。メアが半歩遅れて主人の後を追う。
標的が逃げ出したことに気づくと大蛇はいっそう前へ前へと結界を押し始めた。黒い頭がリディアの結界を捻じ曲げ、少しずつ前進してくる。
結界を通じてその重みを全身に受ける彼女は額に脂汗を浮かべて苦痛の声を洩らした。
「ちょっ……と、もう!」
「解いてください!」
「解け、リディア!」
二人の叫びと限界を越えたリディアが倒れこんだのはほぼ同時だった。
結界は消え、留めるもののなくなった廊下を、蛇は遠く離れた雫に向っておもむろに蛇行し始める。
無造作にうねる黒い体に弾き飛ばされそうになったリディアを、ターキスがすんでで拾い上げた。
彼は気を失った女を背後に押しやると目の前を通り過ぎようとする蛇の尾に向って斬りかかる。
返って来たのは泥濘を斬るような感触。
手で内臓をかき回すに似た音に嫌悪を煽られ、彼は顔をしかめた。
かなりの力を込めて振り下ろした剣は、まったく弾力を感じられない蛇の中、ずぶずぶと沈みこみ床に達する。
だが大蛇はターキスの攻撃を受けても、彼を見ることもせず止まりもしなかった。ただ逃げる少女めがけて進んでいく。
斬られたはずの尾も刃が過ぎた箇所から元通り繋がり、それを見て普段あっけらかんとしている彼も息を飲んだ。
「雫!」
蛇に追われる少女の姿は既に見えない。その使い魔の少女も見当たらない。
だが蛇の目には二人の姿が見えているのか、迷いもせずに廊下の奥へ向って蛇行していく。
その異形の姿は確かに絶望を覚えるにふさわしいもので―――― けれどターキスは気を失ったリディアを部屋に戻すと、蛇の後を追って走り出したのだった。

束の間ではあったが、息を整え距離を取ることは出来た。そして今はそれ以上望むことはできない。雫は前を見てひたすら走っていく。
彼女が履いているのはこの世界に来た時に履いていたスニーカーだが、これは幸いと言っていいだろう。
サンダルなどではとっくに足がもつれて蛇の餌食となっていたはずだ。雫は一歩一歩に力を込めて床を蹴る。
何故自分だけを追って来るのかは分からない。あの時質問に答えられなかったのが不味いのだろうか。
勢いを出来るだけ保ったまま角をブレーキをきかせて曲がる。窓が並ぶ廊下は日が落ち始めたのか赤みのある光が差し込んできていた。
様子を窺う兵士たちがちらほらと見える中を雫は「逃げて!」と叫びながら走り抜ける。
最初は不審な二人組に眉をしかめた兵士たちも、彼女たちの背後に大蛇を見出だすと、その異様さに恐怖を覚えるのか慌てて逃げ出していった。
無用な犠牲者を出さなくていいのだから雫は彼らの反応にほっとするところもあるのだが、同時に誰も何ともしようがない現実に心胆冷えるものがある。
―――― ともかくファルサスが来るまで城内をぐるぐる逃げ回ってさえいればいいのだ。
それだけのことなのだが、今日一日走りづめだったせいか、雫の足や膝には既に意思に反した震えが出始めていた。
彼女はすぐ横に並んで走っている使い魔を見やる。
「メア」
「何でしょう、マスター」
「逃げ、れる、かな」
「ご自分をお信じください」
「うん」
信じるしかない。
雫は酷使しすぎて自分のものではないような足を動かして次の角を曲がる。
だが、次の瞬間彼女は、曲がったすぐ先にいた女官の一人と衝突して派手に転んでしまった。
あっという間に天地が逆さになるほど勢いよく引っくり返る。
「マスター!」
「……っ、だいじょぶ」
床に両手をついて体を起こす。しかし雫が顔を上げた時、すぐそこには既に彼女を見下ろす赤い両眼が光を放っていた。
蛇は頭をもたげゆっくりと空中を揺らぎながら獲物に向って狙いを定める。
「きゃあああッ!!」
悲鳴を上げたのは雫ではなく、彼女とぶつかった女官の方だ。
雫は半ば無意識で女官を廊下の端へと突き飛ばした。そのまま自分は逆方向に転がる。
この判断は正解だった。
彼女が避けたのに僅かに遅れて、蛇の頭が恐ろしい俊敏さで雫の居た場所に突っ込み、白く光る牙が床を抉ったのだ。
もしあれを食らっていたら―――― そう思うと全身が寒くなったが、想像に費やす時間さえ今は惜しい。
雫は何とか立ち上がる。だが、その時はもう蛇が再び彼女を狙って目と同じ色の舌を震わせていた。
―――― 逃げられない。
背を見せたらきっと食いつかれる。けれど、こうして睨みあっていても待つものはただの死だ。
選択肢のない極限で、雫は永遠にも等しい数秒立ち尽くす。
何も考えられない。誰のことも思い出さなかった。
これは敗北なのだろうかと、そんなことだけが頭をよぎる。

「マスター!」
メアの声。
続く誰かの怒声が時間を動かす。
蛇が苦悶の声を上げて身をよじる。
「突っ立ってんな、雫!」
いつになく厳しい声。その声に押されて雫は意識を引き戻した。蛇の後ろにいる男を見やる。
どうやって追いついたのか、そこにはターキスが険しい顔で短剣を黒い尾に突き立てていた。
普段彼が持っているものとは違う剣は、刺さった箇所から燻るように黒煙を上げさせている。
蛇が憎悪に満ちた目で彼を振り返ると、ターキスは短剣を引き抜いて跳び退った。不敵な笑いを浮かべながら構えを取る。
「こっちなら効くだろ? 精霊術士が鍛えた剣だ」
初めて傷をつけられたせいか、男の敵対姿勢が気に入らないのか、蛇はターキスに向って首をもたげた。
「ターキス!」
「さっさと行っとけ! 時間稼いでやる!」
そう言われても雫は咄嗟には動けない。
彼を身代わりにして逃げていいものか、それで本当にいいのか判断がつかず立ち竦んだ。だが男の声は更に彼女を打ち据える。
「行け! お前が逃げたら俺も撒いてくる!」
「……ごめん! 恩に着る!」
雫は踵を返すと走り出した。その後を使い魔が追って行く。
遠ざかる少女の背を見送ってターキスは苦笑した。だがそれもほんの一瞬のことで、彼は蛇の尾を避けて大きく右に跳ぶ。
人ならざるもの、魔物でさえない相手に嫌でも緊張せざるを得ない。城に忍び込んだ時よりも慎重に意識を研ぎ澄ませながらターキスは相手の様子を窺った。
蛇は何を思っているのか、赤い目がただ彼を睨むばかりである。
変わらず剣を構える男を排除すべき邪魔者と決定したのか、大蛇は続けざまにもう一度彼の立っている場所めがけて、丸太ほどの黒い尾をしならせた。
けれど彼は鍛えられたバネを使ってその攻撃に空を切らせる。そんなことを間断なく二、三度繰り返した。
決して長い時間ではない。だが、その間に雫は廊下の遥か向こうにまで距離を稼いでいた。それを確認してターキスはにやりと笑う。

しかし、彼の会心の笑みは長くは続かない。
蛇の輪郭が不意に歪む。
黒い大蛇自身は微動だにせぬまま、だが表皮がぼやけ黒い瘴気が宙に染み出し始めた。
そしてそれはゆっくりと床の上に集まると一つの形を成す。―――― 黒豹に似た一匹の獣に。
「……まじかよ」
黒豹はターキスを一瞥することもなく雫が去った方向へ走り出した。その後を反射的に追おうとした彼はしかし、蛇の巨体に遮られ、たたらを踏む。激しい舌打ちと 共に大蛇の牙を避けた。
自分の命さえもかかった急場だ。
判断の過ちは死に繋がる。
ならばどうすべきか。
彼は短く息をつく。
そして…………ターキスは豹に追いつくことを諦めた。
今は焦りを消す。目の前の敵に集中する。
静かに閉じていく視界と比例して戦いの高揚が湧き上がってくる。男は短剣を油断なく構えた。禁呪の結晶たる蛇を傲岸な目で見上げる。
「来い」
蛇はゆらりと首を動かしながら獲物に焦点を定めた。空気が張り詰めていく。
一つの城が道を踏み外した、その取り返しのつかない罪の清算が今、ゆっくりと幕を下ろしつつあった。