禁じられた夢想 052

禁転載

苦しい時にある最中は、それが終わった時のことを想像すれば気が紛れると聞いた。
だから大学受験の為に昼夜机に向っていた時は、大学に入学してから何をしようかとよく考えを巡らせていたものだ。
だが、異世界にあってよく分からない揉め事に巻き込まれて、よく分からない怪物に追われている現在、苦しいと言ったら過去最高に苦しいのだが、何を想像すれ ば気が紛れるのかさっぱり分からない。少なくとも元の世界にいたころ思い描いていた「楽しい夏休み」はどこかに行ってしまったし、家族も、友人も、肺と心臓が壊れ そうな今は遠すぎてよく想像できなかった。
何ならば鮮明に描けるのかと言えば、それは宿屋の部屋でお茶を飲みながら本を読み―――― 時折彼と会話を交わす 、そんな光景だ。
―――― これが終わったら、彼と何の話をしよう。
答の出ない問いだけを呟きながら雫は角を曲がる。その背後へと黒い影が迫っていることも知らずに。

豹は、蛇だった頃より軽やかに逃げた少女の後を追い、確実にその距離を縮めていった。
角を曲がり廊下の先に標的の背を捉える。
音をほとんどさせぬまま、まるで本当の豹のように俊敏な動きで彼女に向っていった豹は、けれど当の少女が急に振り向いたことで速度を緩めた。
彼女は黒い瞳に驚愕と恐怖を混ぜ合わせて突然現れた黒豹を見つめる。
「な、何あれ!」
「禁呪です。形を変えて追ってきたようです」
「しつっこい! でも蛇よりまし!」
大蛇よりは大分小さくなった黒豹は、もう一度速度を上げて少女へと向う。
それを見て何の武器も持っていない彼女は無謀にも迎え撃つつもりなのか、敵に向き直ると持っていたバッグを振り上げた。
無防備な喉笛を食いちぎろうと豹は床を蹴る。
「メア! 止めて!」
主人の命を受けて使い魔が放った力は、ほんの一瞬豹を拘束する。だが、彼女が狙ったのはその一瞬だった。
間髪置かず勢いをつけたバッグが豹の頭めがけて打ち下ろされる。
バッグは黒い頭部を靄を散らすように霧散せしめた。頭を失って豹は床の上に落下する。
本物の生き物ではないので悲鳴は上げない。血も流れない。ただ散ってしまった瘴気を集め、頭を再生する為に時間がかかることは確かだった。
豹がすぐには起き上がれないでいる間に、少女は再び逃げ始める。
それは、見えない結末をすぐそこに控えた奇怪な逃走劇だった。

苦手な蛇ではないことだし、かなり走る速度が速いので試しに攻撃してみたが、普通の攻撃は禁呪の塊である豹には効かないらしい。
あっという間に元通りの姿になって追いかけてきた敵に、雫は走っているせいもあるのだが、何も言えなかった。
おそらくすぐに追いつかれる。だが、迎撃するにしても先程と同じ方法では読まれてしまうだろう。
雫は悩みながらも背中に食いつかれる前に足を止め、振り返った。
どう対応しようか、メアに何と命じようか、バッグを持ちながらも悩みかけた時、豹は急激にそのスピードを速める。
反射的に頭と心臓をバッグで庇う雫の、逃げられない足に向って黒い獣は飛び掛った。
「っああ……っ!!」
予想外の箇所に来た攻撃に、彼女の判断は一瞬遅れる。牙が左のふくらはぎに深々と突き刺ささり、雫は絶叫を上げた。
「メアっ! 剥がしてぇ!」
使い魔の攻撃が豹の頭を薙ぐ。黒い頭部はまたあっけなくかき消されたが、傷は消えることはなかった。丸く開けられたいくつもの穴から血が零れだす。
雫は長いスカートを捲り上げてそれを確認した。
「いたい……」
「痛みを消します」
メアの声は平坦ではあったが悔しそうな色が滲んでいた。主人に怪我をさせてしまったことを悔やんでいるのだろう。おまけに彼女は治癒を使えないのだ。
麻酔のような魔法をかけてもらい雫は再び走り出す。だが、攻撃を受けた衝撃が彼女の精神に影を落とし、息苦しさは一層増していった。

いつまで、どこまで、逃げればいいのか。
本当に終わりはあるのか。助かる道はあるのか。
ファルサスがどんな国か、彼女は知らない。
来てくれるかも分からない。何も分からない。
何も感じない。足の感覚がない。
傷口から徐々に絶望が染み込んで来る。
思考が絡め取られ、うまく前に進まない。
雫はもつれる両足を動かす。
自分がどうやって走っているのか、もうそれさえも分からなかった。

―――― 追いつかれる。
曲がり角にさしかかろうとしたその時、音も気配もないのに分かったのは、これまでの短い間に幾度となくそれを体験した為であろう。
足を止めようとして雫は、自分の体が言うことをきかないことに気づいた。
怖い。振り向きたくない。襲われるのは嫌だ。そんな思いが頭の中を交差し体を束縛する。
迷いによって動きが鈍ったのはほんの数秒。
けれどそれは雫の明暗を左右する数秒だった。
「マスター!」
もう振り返れない。そんな猶予はない。豹の爪がメアの結界に突き刺さる。だが、禁呪の結晶たる豹はそれを容易く切り裂いた。
白く光る爪がそのまま雫の背に振り下ろされる。
ひやりと背筋に冷たいものが走った。

怖くて仕方ない。
もうきっと限界だ。
誰か助けて。
終わらせて。
終わりにして、欲しい。

手を掴まれる。
雫はそのまま前に引き摺られた。豹の爪は空を切る。
詠唱が聞こえる。男の声。低い、心地のよい声。
床に魔法陣が浮かび上がる。赤い魔法陣。豹はそこに吸い寄せられる。
そしてそのまま―――― 陣の上にしばりつけられたかのように動かなくなった。
男はそれを確認すると腕の中に抱き取った少女を廊下の先へ押し出す。藍色の目が窓の外を見上げた。
「もう終わる。精霊が来た」
「エリク!」
それ以上は言葉が続かない。何も言えない。
雫は崩れ落ちそうになって男の手に支えられる。
ずっとずっと帰りたかった日常。
その半分が確かに今、彼女の元に戻ってきたのだ。
疲労の為か緊張が解けた為か座り込みそうになる雫を、だが険しい表情のエリクは半ば持ち上げるように立たせる。その上で彼は廊下の奥を指した。
「行くよ。あまり長くは持たない」
慌てて彼女が振り返ると豹は魔方陣のくびきから逃れようと体を捩り始めている。自分を見上げる赤い瞳に雫はぞっとして息を飲んだ。
連れの少女の手を引いてエリクは走り出す。
「エリク、ど、うやって、ここに」
「走ってきた」
「……それは、分か、る」
息が切れてうまく喋れないというのに噛みあわない会話はやめて欲しい。
無言の非難が伝わったのか、彼は続けて口を開いた。
「禁呪の圧力が消えた。から、様子を見に来たんだ。そしたら君が豹に食われてた」
「まだ、食われて、ません」
相変わらずの物言いに言いたいことはいっぱいあったものの、雫はそれとは別に不思議なほど気が軽くなる思いを味わっていた。
彼が来て、そして「終わる」と言った。ならば確かに自分たちは終わりに向って走っているのだろう。
もう少しだ。きっとうまくいく。そこには言葉にならない信頼があるのだ。
エリクは雫の手を引きながら後ろを振り返る。
「あ、もう逃れてきたか」
「えええ……」
「大丈夫。着いたから」
一つの扉の前、彼は唐突に立ち止まると大きなドアを乱暴に押し開けた。雫を先に中に入れる。
だだっ広いだけの部屋。その床には壁に沿っていくつもの魔法陣が書き込まれている。
雫は自分の現在地と地図上の点を思い出し、ここが何の部屋なのか思い至った。
「転移陣の……」
「そう。ここから外へ逃げるよ」
「でも、私がいなくなったら」
「平気。後はもうすぐ来る人間が何とかする」
エリクは自分も中に入ると床にはめ込まれたプレートを近い場所から走って確認していく。行く先を選んでいるのだ。
雫は自分も手伝おうと別の転移陣に向いかけた。だが、次の瞬間扉を振り返って凍りつく。
もはや豹の形を留めていない瘴気。それが空中を漂いながら雫めがけて押し寄せようとしていたのだ。絶叫が喉につかえる。
「マスター!」
メアが雫の服を掴んで引っ張った。彼女は慌てて使い魔の手を取ると部屋の奥まで踏み込んでいたエリクの前に駆け寄る。
彼もまた瘴気に気づくと舌打ちして詠唱を開始した。

―――― どうなってしまうのだろう。
想像のつかない決着に雫の頭は真っ白になりかける。彼女は何をすればいいのか分からず、ただ動転して辺りを見回した。
けれどその時、広間の奥、一つの転移陣が発光し始める。
青白い光と共に陣の上の空間が歪み、雫の視線はそちらに吸い寄せられた。
ふと背後のエリクを見上げると、彼もまた詠唱をやめそちらを凝視している。
一体何が起きるのか。彼女が固唾を呑んだ瞬間、だが不意にエリクが彼女を引き寄せ、自分の後ろに突き飛ばした。
余所見をしていた僅かな隙に瘴気がすぐ傍にまで迫ってきていたのだ。
雫はバランスを崩しながらすぐ後ろにあった転移陣の中に倒れ込む。
たちまち青白い光に包まれた彼女が最後に見たもの、それは―――― 奥の転移陣の上に現れた長い黒髪の美女だった。






ざっぱーん、としか言い表しようのない光景に彼女は立ち尽くす。
大岩の上に佇む女官姿の少女は目の前の岩場に打ち寄せる白波を呆然と見下ろした。すぐ後ろでは使い魔が沈黙したまま佇んでいる。
岩だらけの浜辺の背後は緩やかな坂になっており、その上は森に繋がっているようだった。
鬱蒼とした木々は明るい空とは対照的な色合いで坂の向こうに広がっている。少し木々の間に隙間があるように見えるのは道でもあるのかもしれない。
そして―――― 彼女の目の前は果てしなく海。
正真正銘、疑いようもない水平線が遥か向こうに見えていた。
それは見えているのだが、すぐには理解しがたい景色に彼女は何も言えない。
しばらくしてようやく隣に立つ男に話しかける。
「こういう日本海! って場所に立つと、演歌を歌いたくなりますね」
「何それ」
「…………」
禁呪からは逃げ出せた。致命傷はないし、三人とも無事だ。
だが適当な転移陣に入った彼らの飛ばされた場所は、内陸部にあるカンデラから遠く離れた、どことも知れない海辺だったのである。

「多分、禁呪が城内を汚染した時に転移陣の構成が歪んじゃったんだと思う。普通城はこんなところに転移陣書かないから」
「どこですか、ここ……」
「さぁ。上に道があるみたいだし、あとで町を探して聞こう」
小鳥に戻ったメアを肩に乗せ、岩で出来た坂を苦心して登りながら雫は空を仰いだ。
カンデラでは赤みを帯びていた空がまだ青々と晴れているのだから、大分西に来てしまったのかもしれない。
二人は坂を上りきると森の中に入って適当な木の陰に腰を下ろす。エリクはメアの力を借りて雫の傷を治してしまうと、大きく欠伸をした。
「ごめん、少し寝かせて。何かあったら起こしていいから」
「あ、お疲れ様です」
彼女の声が聞こえたのかどうか怪しいタイミングで、すぐに規則的な寝息が聞こえてくる。
二日間ほとんど寝ていなかったのだろう。雫は疲れが見える彼の寝顔に同情した。
そういう彼女は何だか気が抜けてしまって、自分の足をじっと見下ろす。そこに傷はなくただ血があちこちにこびりついているだけだ。
今までのことは本当に現実だったのだろうか。今となってはそれさえもあやふやである。
ターキスは、リディアは無事なのか。禁呪の塊はどうなったのか。
転移してしまった雫にはそれを確かめる術はない。できることはただ祈るだけだ。
彼女は疲れ果てた体を木の幹に寄りかからせる。
そして束の間の休息に、雫もまた落ちて行くのだ。






「戻りました。兄上」
「どうだった?」
「どうもこうも。禁呪の後始末をさせられました」
女は黒髪を鬱陶しげに束ねながら忌々しさを隠さない口調で報告する。
すなわち、カンデラ城内は禁呪に侵され、王を初め高官や将軍たちがほとんど死に絶えたことと、禁呪の結晶となっていた二匹の獣を彼女が消滅させてきたこと。
そして禁呪を妨害する為、城に侵入していたという人間たちは、死者を除いて全員がいつの間にか逃走していたということを。
「城都は数十人ですが民にも死者が出ており、今も城に人が詰め掛けています。が、それらを対処できる人間はおらず、当然ながら城は沈黙したままです」
「それは大変そうだ」
「他人事のように仰らないで下さい。いかがされるおつもりですか」
突き刺さる妹の詰問に、しかし王は人の悪い笑みを見せただけだった。処理している書類から顔を上げぬまま肩を竦める。
「どうもしようがないだろう? 所詮、他国の話だ」
「カンデラは瓦解しますよ」
「自業自得だな。愚かな王を持つと下は大変だ。いい教訓になる」
「私も面倒ごとが嫌いな兄を持って苦労しております」
即座に切り返されて彼は沈黙する。何だかんだ言って、彼はこの妹に弱いのだ。
しばしの間を置いて、王は一枚の書類を書き上げると妹に差し出した。
「これを持ってカンデラを緊急統治してくれ。人間は好きに連れて行って構わん。混乱を最小限に抑えるように」
「禁呪のことは明るみに出してよろしいので?」
「構わん。そうでなければファルサスの大義名分が立たぬからな。
 生き残ったカンデラの人間から証人を選んでおけ。後はこちらからの侵略と取られぬよう中立の第三国に協力を要請する」
女は受け取った書類に目を通していたが、兄の言葉を聞いて怪訝そうな顔になる。
「第三国? 適任がいますか? 禁呪がらみですよ」
「いなくもない。場合によってはカンデラの統治を当分代行してもらうことになるかも知れんから、切れる王を選ぼう。
 ちょうどすぐ南のアンネリをロズサークが攻め落としたばかりだろう? ロズサークの王は俺の……」
「兄上! 滅多なことを仰らないで下さい!」
「すまん」
男はけろりとした顔で舌を出す。その表情に彼女は脱力感を覚えたが、時間が惜しいのか、未だ混乱の只中にあるカンデラの政治的な収拾をつけるために執務室を出て行った。一人になった男は書類処理で凝ってしまった肩をほぐす。
「城に侵入して暴れまわった連中か……。面白い人間がいるものだ。どんな奴らか見てみたいくらいだな」



カンデラ城を中心とした突然の凶事は、それを収めたファルサスによって禁呪が原因だと明らかにされ、近隣諸国をざわめかせた。
最初の襲撃が起きた夜から、城がファルサスの指示の下まともに機能するまでの三日間、混乱が城都を覆っていた時のことは後に「無言の三日間」と呼ばれ、大陸の歴史に忌まわしい痕を残すこととなる。
その渦中にいた一人の少女について、記録には何もない。名前を聞いた人間も残っていない。ただ、彼女を目撃したという何人かが残るのみだ。
異世界の少女は今は遠く離れた地で深い眠りの中にある。
無力ながら根源によって「異質な棘」と呼ばれた彼女が、再び歴史の混沌の中に現れるまでには、もうしばらくの時間が必要とされていたのだ。



Act.1 - End -