足りない破片 054

禁転載

腹を抱えるようにして石畳の上に倒れてしまった雫を見て、エリクは険しい表情になると膝をついた。
意識を失った彼女の額に手をあて、喉にも触れると脈を取る。たまたま出くわした男も真っ青な雫の顔色を見て眉をしかめた。
「大丈夫か? 魔法士に診させよう」
「いえ。疲労で熱が出ているようですから。宿に戻って休ませます」
エリクは連れの少女を軽々と抱き上げる。そのまま軽く男に頭を下げると、踵を返して立ち去った。
入れ違いで店の中から少女が出てくる。彼女は庇うように雫を抱いたまま角を曲がっていくエリクを見て首を傾げた。
「どうかしたの?」
「いや。具合が悪かったらしい」
「あの女の子、変わってるね」
「変わってる?」
「何か『違う』」
何が違うのか、その意味を問おうとした男はしかし、少女の表情を見てそれを諦めた。
多分言った彼女もよく分かっていないのだ。少し違和感を抱いたというだけで。
男は自分の花嫁となる少女を促して店の中に戻す。
雫が彼ら二人と、思いもよらぬ形で再会するのはもっとずっと先のことなのだ。



夢の中で彼女は一人だ。
他の誰もいない。誰も入って来れない。
彼女は一人、三冊の本の前に立っている。それは全てが書かれた本だ。
おかしいのだと、こわいのだと、どこかで嫌がる自分がいる。
けれど彼女は動けない。彼女は一人だ。
何が怖いというのだろう。何も怖いことなどない。
これが当たり前だ。これが彼女だ。
そして彼女は一冊の本に手を伸ばす。
そこには、むかしむかしの王と魔女の物語が書かれていた。



「……きもち……わるい…………」
雫が目を開けた時、滲む視界に映ったのは宿の天井だった。彼女は乾く喉を鳴らして喘ぐ。
「くるし……」
「大丈夫」
聞き慣れた男の声と共に額を冷たい布が拭っていく。藍色の瞳が床にある彼女を覗き込んだ。
「少し熱が出てるだけだ。疲れが出たんだろう。ゆっくり寝てていいよ」
水のように心地よく染み込んで来る声。雫は半ば朦朧としたまま頷く。
そして再び彼女は目を閉じ―――― 夢の中に落ちていった。

苦しそうに歪んでいた少女の顔が少し落ち着いたことを確認すると、エリクは息をついて立ち上がる。
路上で突然倒れられた時は驚いたが、考えて見ればこの世界に慣れもしてなかったであろう彼女が、緩やかな日程とは言え二ヶ月もの間転々と旅をしてきたのだ。
出会った頃よりも痩せてしまった彼女にはそれなりの心労がかかっていただろうし、加えてカンデラでの事件である。
明るく振舞っていても疲れは蓄積していたのだろう。それがふとしたことで限界を越えてしまったに違いない。
期限がある旅ではないのだ。彼女の体が第一である。少し長くこの街に逗留しようと決めると、彼は汗で濡れた少女の髪を邪魔にならないよう指で梳いた。
もう一度少女の額と耳の後ろをよく絞った布で拭いてしまうと、宿の主人に薬を頼む為に部屋を出て行く。
半覚醒と眠りを繰り返す雫がようやく起き上がって目を覚ましたのは、この三日後のことだった。

「何か……夢をいっぱい見た気が」
「いっぱい寝てたからじゃないかな」
彼女の部屋で勉強の為の書き物をしていた男は、雫が目を覚ましたことに気づくと立ち上がって彼女の顔を覗き込んだ。
三日間寝続けた為か少しやつれてしまっているが、顔色は悪くない。エリクはコップに入れた水と薬を彼女に手渡す。
「体調を整える魔法薬。飲んどくといい」
「お腹からっぽでも大丈夫ですか?」
「何で? 関係ない」
変なことを聞くなと思ったが、彼女の世界に魔法はないのだ。ならば薬も大分作りを異にしているのだろう。雫は頷くと素直に薬を口に入れた。
彼女は汗で濡れた体が気持ち悪いのか、自分の服を引っ張って中を覗き込む。
三日の間にメアが何度か体を拭いたり着替えさせたりしていたのだが、雫本人はほとんど記憶がないのだろう。彼女はぼんやりとした声で呟いた。
「エリク、シューラって昔本当に出現したことあったんですね。とってもでっかい蛇で」
「え?」
「それで凄い人数の死体を動かして……ファルサスと戦ってました」
「………………それも、夢?」
少女は少し首を傾げて頷く。黒い瞳がまるで底のない負と繋がっているように見えて、エリクは瞬間ぞっとした。
彼女は眠り続けた間にどんな夢を見たと言うのか。
シューラが蛇の実体を持ってファルサスと戦ったことなど一度もない。
そんな記録はどこにも残っていないのだ。隠されているわけではなく存在しない。ファルサスの記録庫でも見たことはない。
禁呪と対面したことで、彼女の精神はそんな夢を作ってしまうほどいまだに恐怖を覚えているのだろうか。
雫は薬を飲んだ後の水のコップをじっと見つめている。だが彼がそれを取り上げると、彼女はひどく不安げな目で男を見上げた。
「エリク、私、怖いよ」
「何が?」
「わからない」
彼女はその後着替えを済ますとまたすぐに寝てしまった。そして翌日目覚めた時は既に、雫はこの時の会話を一つも覚えていなかったのである。



目が覚めたら四日も経っていたという事実は雫を唖然とさせた。
彼女は腕組みをして眉を寄せると、目の前にいる男に聞き返す。
「えーと、それって本当に私の話ですか?」
「他に誰がいるの。とりあえずいい加減食べた方がいいよ」
「まずお風呂入ってきていいですか」
「うん」
熱を出していたという体はだるさがあちこちに絡み付いており、いまいち感覚もはっきりしない。一度お湯に浸かって倦怠感をさっぱり落としてしまいたかった。
雫は午前中の為か誰もいない宿の風呂に入る。めずらしく浴室内に姿見が置かれており、何気なくそれを見て彼女はぎょっとした。
鏡の中に映る裸身はまるで自分の体ではないかのように痩せてしまっている。四日食べなかっただけでここまで変わってしまうものだろうか。
「か、過労死寸前、とか? そんな馬鹿な」
エリクは疲労の為だと言っていたが、強がりではなくそれ程疲れているとは思っていなかったのだ。
カンデラの城都につくまでも彼は雫の体調に注意を払っていて、少しでも疲れが見えれば町での滞在日程を伸ばしてくれたりしていた。
大体禁呪の事件が大変だったと言っても、それからもう二週間以上経っているのだ。今更何日も寝込むほど影響があるとは思えない。
それとも自分で気づいていないだけで、本当は徐々に疲労が溜まりこんでいたというのか。
雫は悩みながらも時間をかけて汗とだるさをお湯で流していく。
元の世界にいた頃はよく「痩せたい」と思っていたものだが、今はもうちょっと体重を戻さなければならないだろう。
脱衣所に戻るとメアが待っていて、大分伸びた雫の髪を乾かしてくれた。「目が覚められてよかったです」という使い魔に「心配させてごめんね」と返す。
「四日かぁ。ちょっとした浦島太郎の気分」
「何ですかそれは」
「何だろう。今の私みたいなものなのかな」
今、元の世界に戻ったとしたらまさしく似た気分を味わえるに違いない。
せめてこっちの世界と比べて元の世界は時間の流れが早くありませんように、と雫は念じた。帰ったら五十年後だった、とかはさすがに嫌である。
雫は宙に浮いて彼女の髪を整えている魔族の少女を見上げた。
「メアはさ、私が元の世界に戻る時どうする?」
「お許しが頂けるのならお供させて頂きます」
「うん。……ありがと」
何もかもなくしてしまうのは嫌だ。人も自分も思い出も。
元の世界にいたころはあれほど姉妹の影に隠れ、自分でも輪郭が掴めなかった「自分」が、今は一人の人間として結実しつつある気がする。
はたしてあのまま普通に夏休みを過ごしていたとしたら、自分は「こう」なれていただろうか。
もしこの旅の果てに無事帰還できたとしたら、その時は自分はどんな人間になっているのだろう。
雫は十八歳には見えないらしい自分の顔を鏡越しに睨む。
少し頬のこけた少女は「未来のことなどその時にならなければ分からない」と、そう言っているように見えたのだった。

風呂から上がってすぐはそうでもなかったが、食堂で待っているエリクのところに戻った時、雫は自分の空腹をようやく自覚した。
お腹がすき過ぎて胃が痛いくらいである。彼女は既に何品か並べられたテーブルの前に座ると空いた場所につっぷした。
「うううう。おなかすいた」
「そりゃそうでしょ。でも君は消化しやすいものからだよ」
「や、やっぱり」
雫が顔を上げたタイミングを見計らったかのように、彼女の前にスープが運ばれてくる。
具の入っていないスープを飲む彼女の顔をエリクはじっと見つめた。
「どう? 一応医者に見てもらう?」
「あー、平気ですよ。多分」
「本当? 医者は今混んでるらしいけど、予約を取れば時間はかからないらしいよ」
「混んでるって、風邪でも流行ってるんですか?」
スプーンを片手に何気なく聞いた雫は、けれどすぐに答が返ってこないことに訝しさを感じて目を丸くした。
見るとエリクは僅かに眉を寄せている。彼がこういう表情をしているということは、何か問題があるのだろう。
「流行り病がこの街にも発生してるらしい」
「え。空気感染するとかですか?」
「いや、僕たちは平気だよ。子供しかかからない病気だし。一歳から二歳くらいまでの子がかかる」
「うっわぁ……。それは嫌ですね」
それくらいの年齢の子がいる親はさぞかし気が気ではないだろう。雫は他人事ながら心配になってスプーンを置いた。
お茶のカップを手に取る男に向かって身を乗り出す。
「どういう病気なんですか? 命に関わるとか?」
「命には関わらない。ただ言語障害が出るらしいんだ」
「言語障害?」
「そう。実は今、大陸西部でかなり広まっている病気なんだよ。どの国も対策を講じようとしているが今のところ原因も治療方法も不明だ。
 ファルサスでさえ現在どうにも出来てなくてかなり問題になってる。感染するのかどうかも分からないみたいなんだよね。
 爆発的に広がり出したのは三ヵ月以上前のことだし、東部はまだ発症している子供は少なかったみたいだったけど」
実に物騒な話題だ。雫もまた眉をしかめてしまう。
そう言えば最初の町で世話になったシセアもそんな話をしていたのだ。少し前から大陸西部で子供しかかからない原因不明の病が流行っていると。
だがこの世界より医学が発達した世界から来た雫でも、言語障害を引き起こす病気と聞いてこれという原因には思い至らない。
もともと彼女はそれほど病気に詳しいわけでもないのだ。特に医学についての知識はゼロに近いと言っていいだろう。
それともこれは、この世界特有の病なのだろうか。彼女はしきりに首を捻る。
「そんなだから医者は混んでるんだよ。医者に診せてもどうにもならないらしいんだけど」
「それは……親なら診せたくもなるでしょうね。駄目元でも」
「うん」
雫は何とも言えない気分で食事を再開する。
ふとずっと前にイルマスの宿屋裏で出会った幼い兄弟を思い出して、今頃彼らはどうしているのだろうと彼女は心配になったのだった。