足りない破片 055

禁転載

目覚めてから更に二週間、雫は街に留まって体を休めた。
三日もすると細くこけていた手足の肉も若干戻り、一週間後にはおおよそ不健康に見えない程度にまで回復する。
浴室の鏡を日に一度は確かめながら、雫はターキスではないが簡単な筋トレもして体調を整えることに専念した。
このまま同じところで生活していくなら筋肉が落ちていようが息があがりやすかろうが何とかなるだろうが、彼女はこれからまた旅に出なければならないのだ。
異世界であるこの世界では何が起こるか分からないのだし、最後に物を言うのは自分の体力という気もする。
その為、朝は少しジョギングをして午前午後と勉強をし、寝る前に腹筋などして基礎体力をつけていくという、まるで絵に描いたようなよい子の夏休みを彼女は送っていた。
「もっとも時間の流れが二つの世界で同じなら、もうとっくに夏休みは終わってるんですけどね……」
「何で夏に長期休暇があるの?」
「暑くて勉強が捗らないからとか家の農業を手伝うからとかでしょうか。
 大学は、教員の研究の為にって側面もありますけど。普段は授業や雑務で自分の研究があまり進みませんから」
「なるほどね」
広い机の上には本やノートがところ狭しと広げられている。
雫はこの世界の単語と元の世界の単語を並べて作った手書きの辞書をチェックしながら、重要単語を書き取りしていた。
一方エリクはエリクで自分で作ったメモを見ながら、雫の初心者用のドイツ語教本を読み解こうとしている。
彼は発音こそ気にしていないものの、言語の規則性を一通り要点として押さえてしまうと、早々に読解へと挑戦し始めたのだ。
独和辞書が読めないというハンデはあるものの、時折される質問の様子を窺うだに、既にドイツ語では雫と大差ないレベルまで近づいてきていると言っていいだろう。
この分では半年も過ぎる頃には英語でさえも彼に抜かれてしまうかもしれない。
そう思うと雫は言葉にならない危機感を覚えて、つい書き取りをする手に力がこもってしまう。
受験生として同年代の人間たちと争っていたのはもう数ヶ月も前の話だが、まだ当時の感覚が抜けきっていないのだろうか。
「やっぱりニホンゴが一番難しいよ」
「あーそうでしょうね。元の世界でもよく言われます」
「語順に融通がきいてるよね。多少のことは助詞を見て判別するんだろうけど」
エリクが指し示した日本語の「明日には私は図書館へ行きます」という一文を見やって雫は苦笑した。
一度この文を「何で『私は明日図書館に行きます』じゃないの?」と書き変えながら聞かれた時、数秒間答に詰まって困ってしまったことがあるのだ。
助詞の使い分けによる微妙なニュアンスを、日本語を母国語としていない人間に教えることは難しい。
「明日」でも伝わるのに何故「明日には」と言うのか、「図書館に」ではなく「図書館へ」と書いてあるのはどうしてなのか。
もう一方に置き換えても意味は伝わるが、受ける印象はささやかにだが違ってきてしまう。
そのささやかさを伝える為に、雫は助詞の数千倍の文字数を費やしてエリクとやりとりしなければならなかった。
「君は品詞の格変化を嫌がるけどさ、ニホンゴはその分助詞の使い分けが難しいよね」
「そ、そうですね」
一文の情報量を損ねることなく他言語に置き換えるには、どれかの単語にその情報が込められなければならない。
ラテン語などは品詞の変化が多くて覚えることが多いと上級生から伝え聞くが、語順もまた比較的自由だ。
そして同じく語順に融通がきく日本語は形容詞や名詞の変化が少ない分、「てにをは」が文中の構成を補っているのだろう。
こうやって客観的に見てしまうと、格変化もそれなりにあり、なおかつ語順に規則性があって前置詞なども多い英語ドイツ語は、言語を一から学ぶ人間になかなか親切な作りではないかとさえ思えてくる。
とりあえず日本人でよかった、と強引に結論づけて雫は伸びをした。
「あー……頭が凝りますよ」
「糖分取って目を休めればいい」
まるで受験勉強中のような会話に彼女は笑い出す。
こうして彼と向かい合いのんびり勉強に時間を費やせる「今」が、自分でも不思議なほどに楽しいと思えていた。

出歩けるようになってから何度か雫は、あの路地裏のウェディングドレス屋に行ってみたものの、ドレスを頼んでいた少女と再会することはなかった。
この街は近隣で最も大きい街であるらしいから、彼女もどこか遠くから衣裳を作りに来ていたのかもしれない。
もう一度会ってみたかったな、と少し残念に思ったが、店の中に入って行ってまで店員に彼女のことを聞くほどの興味でもない。
雫はやがて街を旅立つ頃にはすっかり、小さな店で見かけた少女のことなど忘れてしまっていたのである。

「よし! 大変お待たせいたしました!」
「急がなくていいよ。忘れ物はない?」
「大丈夫です」
雫はバッグを先に馬の鞍に乗せると、自分も鐙に足をかけ馬上にあがった。
最初は非常に高く思えた鞍上も今は慣れてしまって何とも思わない。彼女は細縄を使ってバッグを落ちないように固定する。
自分も馬に乗ったエリクは、雫の準備が出来たことを確認すると軽く馬の腹を蹴った。
これから二人はファルサス北西国境に向うのだ。順調に行けば明後日にはファルサス内の町に到着するという。
ようやく間近に迫った魔法の国に雫の心は自然と浮き立つ。それは、元の世界に帰れるかもしれないという期待とはまた別のものだった。
「私、人が空飛ぶところまだ見たことないんですよね。箒とか使うんですか?」
「何で箒。掃除でもするの?」
「またがって飛んだり……」
「何で。動きにくそうだよ」
「………………」
正面から冷静に聞かれると、確かに非常にシュールな光景だ。雫は自分の先入観の奇妙さを自覚するとそれ以上箒に触れることをやめた。
代わりに「どうやって飛ぶんですか」とエリクに聞いてみる。
「浮遊構成を組んで空中で体を支える。腕のいい人間はそのまま空中で移動できるけど限度があるな」
「あー、超能力みたいに飛べるんですね」
「超能力?」
「私の世界では魔法みたいなのをそう言うことが多いんですよ。作り物の話がほとんどで実在は不確かですけど」
「そこで箒が使われるの?」
「すみません。箒から離れてください」
エリクのこの手の追及をかわすには強引に話題を中断するしかない。雫が語尾に力を入れてきっぱりと断るとひとまず話はそこでおしまいになった。
街道を行く二頭の馬は緩やかな速度で走っている。草原が続く周囲は見晴らしがよく、時折正面から吹き付けてくる風が心地よかった。
なだらかな丘陵が街道の左右に続き、青々と茂る草がゆったりと波打つ様はまるで緑の海に見える。
初めて見る広大な景色に雫は、姉や妹にもこの風景を見せてやりたいと、二人のことを思い出した。
彼女がこの世界に迷い込んでから約三ヵ月半。今頃家族はどんな思いでいるのだろう。
姉は泣いているかもしれない。妹は気丈にも家族を支えながらあちこちに情報を求めている、そんな情景が容易く想像できた。
もし叶うなら、「大丈夫だよ」とそれだけでも伝えたい。
分からないことだらけのこの世界でも、自分は人に恵まれて助けられて、元気でいるのだと。
雫は目を細めて長く続く道を見つめる。溜息ともつかぬ息が、自然と鞍の上に零れ落ちた。
「どうしたの」
「いやー……家族のことをちょっと。……エリクには兄弟っていないんですか?」
「妹がいる。もうずっと会ってないけど」
彼が自分の家族について教えてくれたのは初めてのことである。雫は自分で聞いたにもかかわらず驚いて手綱を取り落としそうになってしまった。
すぐには家族と一緒にいる彼を想像できない。妹というと彼に似ているのだろうか。
雫は少し躊躇ったが、結局本人に聞いてみることにした。
「どんなご家族か聞いていいですか?」
「うん。別に普通だよ。両親と妹。もう十年くらい前に会ったきりだけど」
「…………」
十年間家族と会っていないということは普通なのだろうか。
雫は微妙にそこで悩んでしまったが、まさか「普通ですか?」などとは聞けない。大体十年前は彼はまだ十二歳だったはずなのだ。
短い間の雫の戸惑いを感じ取ったのか、彼は微苦笑と共に自分から口を開いた。
「魔法士として勉強する為に家を出たのが十二の時だ。僕が生まれたのは小さな村だったからね。
 それ以来あちこちを転々として講義を受けたり研究したりで一度も村には帰ってないな」
「エリクってワノープの町が故郷じゃなかったんですか!」
「違うよ。あそこには三年前から住んでただけ」
「わー。私、そうだとばっかり思ってました」
それなりに長く一緒にいたつもりだが、彼の基本的な経歴さえ雫は知らない。
自分のことは随分いっぱい話してしまった気がするが、それは異世界から来た彼女にはこちらに基盤たるものが何もなかったからだろう。
家族のことや自分のこと、学校の話に文字の話に御伽噺。
ふとした時に彼にそれらを話し頷いてもらうだけで、雫はともすれば陥って戻れなくなりそうな底なしの閉塞感からずっと解放されてきていたのだ。
押し入ってくるわけでも突き放すわけでもない距離感は、彼が相手だったからこそ得られたものなのである。
「色々ありがとうございます」
「何、急に」
エリクは藍色の瞳を丸くして彼女を見やる。そんな表情が妙におかしくて雫は笑ってしまった。
「お礼は言いたい時に言う主義です」
「君の思考って結構飛び石だよね」
「水面下でバタ足してるんですよ」
「石が?」
それは、箒で飛ぶ人間以上にシュールな空想だ。彼女は堪えきれずに声を上げて笑い出す。
エリクは連れの少女の反応に呆れた視線を送っていたが、理解不能と判断したのか前を向き直したのだった。

ファルサスへの入国審査は草原の真ん中、街道上にぽつんとある石造りの門にて行われていた。
大きな門の他には左右に塀が伸びているわけでも何でもない茫洋とした光景に雫は虚を突かれる。
「これ、門避けて横走ってちゃったりする人いないんですか?」
「結界に引っかかるよ。大きな国はたいてい国境に感知結界を引いてある。
 この検問を受けなくても感知に引っかかれば監視されて、最寄の町についたらそこで手続きするように言われるだけだ」
「うっわー。無形の壁ですね」
「国境全部に塀を建てたりあちこちに門を置くより、結界張る方が楽なんだ。君の世界では全部に壁張ってあったの?」
「私は島国出身なんで、国境は海なんですが……。大陸は壁があったりなかったり色々みたいですね」
国境を区切る壁として一番に思いつくのはベルリンの壁だが、あれは雫の中では物心ついた時から既に壊れていたものである。
第二次世界大戦後東西に分割されたドイツにあった壁を、彼女は最初東西ドイツの境界上にあるものだと思い込んでいたのだが、 高校で世界史の授業を受けた時にその誤解は払拭された。本当は「東ドイツの中に内包されたベルリンが更に東西に分割されており、その西ベルリンを囲んでいたもの」が「ベルリンの壁」なのである。
かつてあったベルリンの壁では、亡命の為に監視の目をかいくぐってそれを越えようとした人間も多数いたらしいが、魔法の壁が相手では雫などはお手上げである。ここは素直にエリクに任せた方がいいだろう。門について馬を下りると、雫は彼の後ろについて審査を待つ。
槍を携えた兵士はエリクから二人分の書類を受け取ると、書面と照らし合わせながら彼と雫を一瞥した。
いつも通り平然としているエリクとは逆に、雫はつい緊張に顔が強張ってしまう。
大体大陸西に来たのも予期せぬ事故そのものなのだ。彼はそれをどう取り繕っているのだろう。
「魔法士とその妹か。城都に留学希望と」
「はい。開放されている図書館に閲覧したい資料がございまして」
「似ていないな」
唐突な指摘は雫の顔を見ながら言われたものだった。彼女はまるでその一言で息を止められてしまったかのように硬直する。
兄妹にしては顔立ちが似ていないのだと、そう言われているのだ。実際、兄妹ではないのだから当然だろう。背筋がひやりと冷たくなる。
けれどエリクは平然と「母が違いますので」と付け足すと、軽く作った拳で雫の頭をノックのように二、三度小突いた。
時折される仕草。その時によって嗜めるようにも元気づけるようにも思える振動に、今の雫は安心する。
大丈夫だ。きっと何も問題ない。そう信じて彼と一緒にいる限り。
兵士は、困ったように微笑む彼女を見て「そうか」とだけ返した。書類に印を押すとそれをエリクに返す。
「城都に行くなら、南東に下ってラオブの街に行くといい。魔法士なら転移陣の許可が取れるだろうし、ちょうどもうすぐ祭りが始まる」
「ありがとうございます」
終わってしまえば拍子抜けする程の短い時間だった。
再び馬上の人となった二人はファルサスの街道を南東に向って駆けて行く。
この先何が雫を待っているのか、まだ二人は知らない。
だが後から思えば確かに、これは大陸に影ながら一つの変革をもたらす前例のない旅であったのだ。