無言の花嫁 057

禁転載

ちっとも帰ってこない雫に、エリクがおかしいと思ったのは彼女が森の中に消えてから十数分が経った頃だ。
すぐに戻ってくると思ったのにまったくその姿を現さない。まさかあの彼女が迷子になっているということもないだろう。
エリクは簡単に荷物を纏めると、メアを拾い上げ森の中に踏み入る。大体の方角に向って雫の名を呼びながら探し回った。
「おかしいな」
結構奥まで探しに来たにもかかわらず彼女は見つからない。一体どこに行ってしまったというのか。
足を止め、考え込む彼にメアは何かを見つけたのか鋭く鳴く。
使い魔の示したものを見てエリクは憮然となった。
踏み荒らされた草の上に落ちていたもの、それは彼女が探しに行ったはずのスケッチ画のメモだったのである。

電車の振動は眠気を誘う心地よさを持っている。
学校からの帰り、雫は電車で本を読みながらいつの間にか転寝してしまっていた。
「……せ」
高校に入ってから半年、ようやく生活リズムも掴めて来た。友人もいるし、勉強で困っているということもない。
ただ少し、想像していた高校生活より現実は起伏がないものなのだな、と思っているくらいだ。
今は同じ高校に通っている姉は、入学当初から家族に学校がどれほど楽しいところか、よく嬉々として話してくれていたので。
「水瀬!」
「うわっ」
突然大声で苗字を呼ばれて雫は飛び起きた。
見るといつの間にか目の前に男子高校生が立っている。
同じ高校の制服、見知った顔。クラスメートなのだから当然だ。
「……杉田君。どうしたの」
杉田秀二。話をするのは初めてだが、雫は彼のことをよく知っている。
入学してすぐ、知らない人間ばかりの教室に戸惑っていた彼女が筆箱の中身を床にばらまいてしまった時、彼は無言で拾うのを手伝ってくれたのだ。
たったそれだけのこと。けれど雫はとても嬉しかった。だからその後も何とはなしに彼の姿を目で追っていたのである。
その彼が自分に向って何の用があるというのか。雫は六割の困惑と、残りの何と言っていいのか分からない落ち着かなさに少年を見上げた。
彼は言い出しにくい用件でもあるのか、彼女を見たり目を逸らしたり数秒間不審な挙動を取っていたが、やがて無言で小さなメモを差し出す。
ぶっきらぼうなその仕草に、あの日シャープペンを拾ってくれた彼の姿が重なって雫は息を止めた。
「何?」
「これ、俺のメルアド。……海さんに渡して」
自分で渡せよ、と雫は反射的に思ったが、黙ってそれを受け取る。
こういうことは初めてではない。あて先は姉であることも妹であることもあったが、中学時代からよくあることなのだ。
だから、姉と彼の間に何があったのかも聞こうとは思わなかった。
使い走りのようなことは嫌だと断ることも多いが、相手は彼だ。雫はあの日の礼の気分でメモを受け取るとバッグにしまう。
「ありがと。じゃあ頼むな、水瀬」
杉田はそそくさと手を振ると立ち去ろうとする。その背に雫は声をかけた。
「杉田君、私の名前知ってる?」
ちょっとした悪戯心だ。「覚えてない」と言われたら笑い飛ばすつもりだった。
だが彼は目に見えて罪悪感の濃い、戸惑った顔で雫を振り返る。その表情を見て彼女は「ああ、馬鹿なことを聞いてしまった」と思ったのだった。

電車だと思ったのは馬車の揺れだったらしい。
雫は電車よりも遥かに激しい振動に目を覚ました。床につけていた頭を上げる。
「起きたか」
頭上から降ってきたのは冷ややかな男の声だ。殺気さえ孕む声に彼女は本能的に身を竦める。遅れて流れ込むように気を失う前の記憶が戻ってきた。
「ひ、人殺し?」
見回すと馬車の中には彼女の他に二人の男が座っている。
一人はあの時女の首を絞めていた身なりのいい男。そしてもう一人は彼に仕えているらしい浅黒い肌をした従者だった。
男たちは床の上に転がっていた雫を氷のような視線で射抜く。その視線に彼女は己の末路を想像して蒼白になった。
人が人を殺すところを見てしまったのだ。まず間違いなくこのまま解放はありえない。行き着くところは口封じの他に何も思い浮かばなかった。
殺人者である男は雫の顔をじろじろと睨む。
「変わった顔をしてるな。どこの出身だ」
「……タリス」
「東の国の人間か。髪も……少し茶がかっているが黒髪で通るな」
「な、に?」
「アマベルを殺してしまったのは不味かった。人気のないところで置き去りにすると言えば言うことを聞くと思ったが……。あの高慢め。
 だが結果としてはこれでいいだろう。言うことを聞かぬ妻など私には不要だ」
不要、という言葉にぞっとして雫は馬車の隅へと後ずさる。
何の躊躇もなく女の首を折った男が自分に何をしてくるのか、恐怖で全身が強張った。
今はエリクも、メアもいない。彼女は何も持っていない。おまけに走っている馬車の中で逃げることもできないのだ。
馬車の扉に背を張り付かせた少女を男は値踏みするように眺めていたが、不意に立ち上がると彼女の腕を掴んで自分の手元に引き寄せた。
顎に手をかけ、上を向かせる。
「名前は何だ」
「し、雫」
「そうか、シズク。ならその名は今日で捨てろ。お前の新しい名はアマベル・リシュカリーザ。
 殺されたくなければお前はアマベルとして私の妻になるのだ」
「……な……っ」
反射的に反論しようとした雫はしかし、男の手が顎から首に移動したことにより何も言えなくなった。
大きな手が喉を締め上げる。彼女はその手を掻きむしったが、万力のようにがっちりと首に食い込み、はずれそうになかった。
息苦しさの向こうに殺された女の壮絶な形相が甦る。必死に雫に手を伸ばしていた、彼女の顔が。
―――― 殺される。
恐慌に陥りかけた時、だが男は雫から手を離した。解放された彼女は床に四つんばいになって咳き込む。
「分かったな。余計なことを言えば殺す。言った相手も殺す。大人しくしていれば裕福な暮らしをさせてやる」
何も言えない。味わった恐怖に塗り込めるような男の脅しに、雫はただ咳き込み続けた。
男はそれで満足したのか座りなおすと、窓の外に視線を送る。
「もうすぐラオブの街につく。ああ……私の名はデイタスだ。婚約者だからな。よく覚えておけ」
これが夢だったらいい。雫はそう切に願った。或いはスケッチを探しに森に入る、あの時まで戻る事ができたらいいと。
けれど現実は変わらない。喉にいまだ残る指の感触に彼女はそれを思い知って、きつく自分の膝を抱えたのである。

街に入る直前に、雫は馬車の中で着替えをさせられた。
旅人の軽装では貴族の女であるアマベルには見えないとのことで、どこに用意してあったのか白いドレスを着ることになったのだ。
怪しい真似が出来ないよう、男二人の眼前で下着になって着替えをするのは、雫にとっては恐怖と恥辱以外の何ものでもなかった。
だが逆らうことは許されない。デイタスはじろじろと遠慮ない目で彼女を見たが、従者らしき男は彼女など存在していないかのように無視してくれたのがせめてもの救いだった。
「まぁまぁだな。屋敷に戻ったら化粧をしろ。今はこれでも被っておけ」
そう言ってデイタスは紗のヴェールを放ってくる。薄い上質な生地を握り締めながら彼女は震える声で反駁した。
「顔、隠さなくていいの? 全然違うよ」
「アマベルは南部の海際の出身だ。今日、輿入りの為にこちらに来て、私が迎えに行っただけで、誰も彼女の顔を知らない。
 ただリシュカリーザの娘の髪色は黒だと、皆が知っているだけだ」
それで自分が選ばれたのかと雫は得心する。真っ黒というほどでもないが日本人として一般的な、染めていない黒髪。
もし彼女の髪がこの色でなかったら、あの時あの森で殺されていたかもしれない。
雫はヴェールを被りながら危うかった自分の立場にぞっとした。だが今も、決して助かっているというわけではないのだ。
この男の妻の身代わりとして生きていく人生など御免こうむりたい。何とかエリクかメアに連絡を取って状況を知らせたいが、デイタスたちの前で 連れがいることを話せば、彼らは先にエリクたちの口を封じようとするだろう。唯一光明が見えるとしたら、目的地であるラオブの街は、もともと雫たちが 向っていた街だということだろうか。上手くすればエリクと街で落ち合えるかもしれない。
馬車はやがて街中に入ったのか振動が少なくなった。数分後、ゆっくりと停車し扉は外から開かれる。
「お帰りなさいませ。デイタス様」
「ああ」
使用人らしき中年の男が深々と頭を下げると、デイタスは堂々とした態度で馬車から降りた。彼は振り返って馬車の奥に手を差し伸べる。
だが、男に手を向けられた雫は咄嗟にそれが何だか分からなかった。上流階級の人間の所作など彼女はほとんど知らないのだ。
「手を取るんだ」
囁いたのは今までずっと黙っていた従者の男だ。言われたことの意味を悟ると、雫は慌ててデイタスの手に自分の手を乗せる。
彼は満足したように笑って、偽の花嫁の手を引くと馬車から降ろした。
「アマベルだ。式の日まで丁重にもてなすように」
「かしこまりました。離れに部屋を用意してございます」
女中らしき女は雫の前に立つと頭を下げる。母親ほどの年齢の女は「オーナと申します。アマベル様のお世話をさせて頂きます」と挨拶すると、花嫁の居館 である離れに案内しようとした。ようやくデイタスから離れられると安堵した雫の耳元で、だが彼は囁く。
「分かっているだろうな」
「…………」
味方はいない。誰にも本当のことを言うことはできない。言えば雫も、その相手も殺されるのだ。
彼女はヴェールに隠れて項垂れながらオーナの後について歩き出す。
名前を隠された人間として一人きりであることが、とてつもなく不安だった。

雫が通されたのは離れにあたるという一軒の広い屋敷だった。
彼女はまずそこで入浴し、着替えをして化粧をさせられた。オーナは若い女中に入浴を手伝わせようとしたが雫はそれを断る。
今はドレスの高い襟で隠れているが、彼女の喉にはデイタスの指の痕が残っているのだ。消えるまで誰にも見せることはできない。
オーナは肩より少し下まで伸びた雫の髪を梳りながら、感嘆の声を上げた。
「本当に綺麗な黒でらっしゃいますね。少し荒れているのは潮風のせいでしょうか」
「あ、そ、そうなんです」
「後で毛先を揃えましょう。今は香油を塗っておきます」
会話が途切れると雫は内心ほっと胸を撫で下ろす。この調子ではいつ襤褸が出てしまうか分からなかった。
彼女は貴族の娘でもなければこの世界の人間でさえないのだ。とてもではないが長期間周囲の人間を誤魔化せる自信はない。
「式は五日後の、アイテア祝祭の最終日ですから。それまでにお肌の調子を整えてしまいましょう」
「い、五日後?」
「ええ。遠くから到着されたばかりでお疲れでしょうが、それまでよく休まれてください」
そんな至近な日程だとは思わなかった。雫は目の前が暗くなるような気分で椅子の背もたれによりかかる。
「きっと素敵なお式になりますわ。街の聖堂はとても賑わいますから。
 デイタス様はご結婚後は街の議員になられますので、貴族様たちも多く列席なさいます」
「…………そ、うですか」
雫は表情を読まれたくなくて深く俯いた。
エリクのところに戻りたい。それが無理ならせめて、一人きりになりたい。
だがそのどちらも叶わないことをまた、彼女はよく分かっていたのだ。