無言の花嫁 060

禁転載

目を閉じると今でも甦る光景がいくつかある。
街の子供が笑いながら石を投げてくる光景。大人たちが汚らわしいものを見るように侮蔑の視線を送ってくる光景。
自分を抱きしめる母親の手。幼い少女の冷ややかな目。
そんなものを、覚えていても少しも幸せになれない光景を、何故か片時たりとも忘れることはできなかった。
捨ててしまえばいいとさえ思わなかったのだ。ずっとその中に囚われていた。そう、今この時においてさえ。
結局、ここからは抜け出せないのだろう。永遠に乾いた荒野にいるままだ。
だから結局、自分を待っている道というのは――――

「やるべきことは覚えたか」
「八割方」
夕食の席でデイタスの正面に座った雫は簡潔に返した。長々話すようなことでも相手でもない。
求められているのは結果だけで、たちの悪いことにそこには彼女の命がかかっている。
自分を脅迫する男に必要以上に卑屈になる気はなかったが、無謀に喧嘩を売る気にも雫はなれなかった。
「しくじるなよ。お前の挙動は注目の的だ」
「努力する。完璧を目指す」
「それでいい」
どこの世界にこんな会話をする婚約者同士がいるのか。
彼らの真の事情を知らない人間がその場に居合わせたなら眉を顰めただろうが、部屋には二人の他には従者のネイしかいない。
彼の給仕で食事をしながら雫は、デイタスの視線が逸れる時を狙って逆に彼の瞳を注視していた。
何が気にかかるのか分からないが、彼ら二人の目には時折違和感を覚えるのだ。
まるでずっと遠くを見据えているような、定義されることを拒んでいるような虚ろがそこにはある。
その空虚を読み解こうとすることに意味はないのかもしれない。殺人者を理解することで何が得られようか。
にもかかわらず雫がデイタスの目を覗き込もうとするのは、単に他に考えることがないからだった。
何もしないでいれば不安の海に沈みこんでいく。だからせめて、自由になる思考を動かしていたかった。雫は探る目でデイタスに視線を送る。
「何だ?」
目を逸らすまもなく男の視線に射抜かれて彼女はぎょっと硬直した。手に持っていたグラスを取り落としそうになる。
「な、何も」
「嘘をつくな、わざとらしい」
何もないわけではないのだが、説明できるようなことでもない。雫はうろたえて言葉を探すと、結局別の気になっていたことを口にした。
「式が終わったら、私どうなるの?」
ネイは街から出て行けばいいと言ったが、彼女にとってあれはあくまでネイの言葉でしかないのだ。主人であるデイタスが「駄目だ」と言ったら覆されるも のでしかない。だから、聞くこと自体が危険なのかもしれないが、デイタス自身がどういう心積もりなのか一度確認したいと雫は思っていた。
男はかすめるように彼女を一瞥する。そこにまた、乾いた風が吹いていくような気がするのは彼女だけだろうか。雫の目線は思わず彼に吸い寄せられた。
「式が終わったなら何処にでも行けばいい。この街以外の何処かへな」
「…………逃げていいの?」
「終わったら、だ。それとも本当に俺の妻になりたいのか?」
「いえ、全然」
つい本音が出て即答してしまった。言ってから不味かったかな、と彼女は顔を強張らせる。
だがデイタスは鼻で笑っただけで怒りはしなかった。
「ただし式が終わるまでに襤褸を出して怪しまれるようならば、その分は命で支払ってもらう。いいな」
「分かった。けど……」
「けど何だ」
こんなことを聞いていいのか、雫は迷う。だがそれでも好奇心が勝った。知らなければ落ち着かなくて仕方ないのだ。
「私が別の街に行って、あなたのこと殺人犯だって言っちゃったらどうするの。困らないの?」
デイタスはアマベルを殺している。雫はそれを見ていた。
これが、覆すことのできない大前提なのだ。だからこそ雫は容易く解放されるとは思っていなかった。
この男は式の後、その問題をどう消化するつもりなのだろう。得体の知れない小娘一人の戯言など、議員になれば捻じ伏せられると思っているのだろうか。
それよりはよほど―――― 雫を監禁するか殺すかする方が確実ではないか。
問われた男は温度のない視線で雫の顔の表面を撫でて行く。何もないその視線を受ける度、彼女の中では違和感が募っていった。
「別に困らない。式の後、お前が何処で何をしようともはや俺には関係ないことだ」
デイタスはそう言って、食事を終えたらしく部屋を出て行く。
後に残された雫はぼんやり天井を仰いで……不思議とそこに描かれている模様が歪んでいるように見えたのだった。

「アマベル・リシュカリーザ。南部の貴族の娘か」
エリクは宿の机の上にメモ書きを投げ出す。これらは彼が午後の間街を歩き回って聞き込んだものだった。
もうすぐ結婚する「アマベル」。彼女が何者であるかはすぐに分かった。彼女の式はアイテア祝祭の一部として組み込まれていたからだ。
議員になる男と遠く離れた街の貴族の娘。二人の結婚はラオブの貴族たちと有力商人によって盛大に祝われる。
その肝心の主役に雫が「嵌めこまれて」しまっているのは最早確定のことだろう。
「真の花嫁」という言い方がなされるなら、裏を返せば「偽物の花嫁」がいるということなのだ。
「”killed”か……過去じゃなく、受動だろうな。”殺された”」
エリクは雫の辞書とメモを見ながら嘆息する。
彼女は自分で思っているより語学が苦手ではないようだ。もし時間があったなら詳しい事情を文章にすることはできただろう。
だがそれを最小限の単語に絞ってきたということは常に監視を受けている状況に置かれているに違いない。
「ディセウア侯爵の紹介で嫁ぐことになった娘。だが、誰もその顔を知らない、か」
まさに入れ替わりに打ってつけの状況だ。けれど、これが計画的な入れ替わりなら雫を使うことはないだろう。
何か計算外のことが起こってしまったからこそ、たまたまそこにいた雫を攫った。その計算外とは「花嫁が殺されたこと」だろうか。
「花婿はもともとディセウア侯爵の娘の恋人だったらしい。それをわざわざ遠くの娘を連れてきて結婚させるってのは何かあったのか?」
思考を纏める為の呟きに、テーブルの上にいる小鳥が首を傾げる。エリクは小鳥の頭を指で撫でた。
ともかく有力者の屋敷だ。簡単に忍び込むことも攻撃をしかけることもできない。相手に後ろ暗いところがあるなら尚更用心しているだろう。
式はあと四日後。一番つけこめるとしたらその式の前後だろうか。
エリクは頭の後ろで手を組むと天井を見上げる。そして彼はそこに頭の中で街の地図を描いたのだった。

雫がヴァローラと出会ったのは、偶然でも何でもなく彼女が雫を訪ねてきたからだ。
ヴェールを選びに言った翌日、式の練習をしていた彼女のところにディセウア侯爵令嬢ヴァローラが突然供も連れずに現れたのである。
彼女は気位の高さを窺わせる態度で薄く微笑んで自己紹介をした。その高慢とも言える態度に、雫は「これが貴族か」とむしろ感動してしまう。
「アマベル様には是非お会いしておきたかったのですわ。式当日は私も『花嫁』としてお世話になりますれば」
「あ、こちらこそよろしくお願いします」
美辞麗句を返そうとしても不可能なことは分かっているので、雫は自分の言葉で頭を下げた。途端にヴァローラはきょとんとした顔になる。
本当の花嫁である「アマベル」は、自分と同等かそれ以上の態度で返してくると思っていたのだろう。裏のない率直な礼を返されて毒気を抜かれてしまったようだ。
「あなた、貴族らしくないのね」
「よくそう言われます」
背伸びをするより「貴族らしくない貴族の娘」として振舞った方がいい。そう判断した雫は一応部屋にいるネイを一瞥したが、彼は表情を変えないままである。ということは問題がないと思っていいだろう。彼女は背筋を伸ばすことだけを意識した。
「ヴァローラ様はわざわざご挨拶の為にいらして下さったのですか」
「ええ。あなたがどのような方なのか拝見しに。でも予想を裏切られたわ」
「それは失礼いたしました」
偽者です、すみません、と心の中で付け足して雫は苦笑する。もっとも彼女自身も好きで偽者をやっているわけではない。可能ならさっさと逃げ出したいく らいだ。表皮の下で自嘲する雫にしかし、ヴァローラは不透明な瞳を向けた。
「あなた、デイタスには会ったのでしょう?」
「はい」
「彼のこと、どう思う? うまくやっていけそうかしら」
―――― 短気な殺人犯だと思います。やっていけません。
などと言ったらネイに口封じをされかねない。そもそも何故そんなことを聞いてくるのか。怪訝に思った雫は、ヴァローラが「アマベル」をデイタスに紹 介した侯爵の娘であることを思い出した。ならば彼女は父に命じられて様子を窺いに来たのかもしれない。納得すると同時に雫は口を開く。
「よくして頂いております。お気遣いありがとうございます」
「……そう」
ヴァローラの返答は沈み込んでいくようなものだった。雫は僅かに眉をひそめる。何だか自分だけが知らない何かが足の下に広がっている気がしたのだ。
だが、それだけで訪ねてきた用件は済んだらしい。ヴァローラは華やかなドレスの裾を引くと優美に笑った。大きな瞳に安堵と寂寥が光る。
「そうね。あなたのような方がデイタスの傍にいるということは、彼にとって幸運なのかもしれないわ」
「そうでしょうか」
「ええ。彼にはきっとそういうものが必要なのよ。―――― ではまた、式でお会いしましょう」
そう言って彼女は来た時と同じように唐突に去っていった。取り残された雫はネイを振り返って、首を傾げる。
「そういうものってなんだろ」
「さぁ」
答えた彼は雫に背を向けた。窓の外から屋敷の門前を見やる。そこにヴァローラが乗ってきた馬車が止まっているのだ。
「持っている者は当たり前すぎて分からない。きっとそういうものだろう」
男の声は、自分もまたそれを持っていないのだ、と言っているようにも聞こえた。雫は今度はあからさまに眉を寄せる。

結局、雫は最後まで何も分からないままだった。彼女が現れた時既に事件は始まっており、そして彼女の退場の後に幕は下りたのだから。
渦中にありながら通り過ぎるだけの偽者であった彼女は知らぬまま終わる。
デイタスが何を考えていたのか、そしてヴァローラが何を望んでいたのか、雫はこの街を去るまで何一つ言葉としては聞かなかったのである。