無言の花嫁 062

禁転載

たとえば誰かの過去を知り、同情し、いたたまれない気持ちになったとして
それを相手に伝えるということは何かを変えるだろうか。
力になりたいと、相手を変えたいと思う心が純粋であったとして
それはどうすれば変質せずに相手に届くのだろう。
人は、自分という狭い檻を出られない。伝えるも受け取るも格子越しのやり取りでしかない。
だから千の言葉を発して、百が届いて、十が理解され―――― そして受け入れられるのは、一か零か。
不自由な自由。その絶望を、いつか誰もが知ることになるのだ。

結婚前日の花嫁というと、座敷の間に正座をして両親に「今まで大変お世話になりました」と頭を下げるイメージが雫にはある。
だがこの世界には畳が存在しないし、彼女の両親もいない。おまけに結婚といっても偽装だ。
だから雫はそんなしんみりした気分には微塵もならなかったし、むしろ別種の緊張で食欲が失せたくらいである。
「今日はお早くお休みになられてください。お肌に障りますから」
そんな風にオーナに言われて、雫は早々と床についた。だが目を閉じて羊を数えても一向に眠気は訪れない。寝ようと思えば思うほど眠れないものなのだ。
羊の頭数が八千を越えた時、彼女は喉の渇きを覚えて寝台から立ち上がった。水差しから水を汲んで乾きを潤す。
部屋の中はどこか蒸し暑く、雫は換気の為に窓を開けた。束の間の涼しい夜風にほっと息をつく。
そのまましばらく風にあたり……閉めようとした窓を、だが彼女は逆に大きく開いた。
雫は外に身を乗り出して庭を覗き込む。何かが月光を反射して光ったような気がしたのだ。
きょろきょろと首を回して辺りを窺った彼女は、それが何だったのかようやく見つけ出した。
植え込みの中、まるで隠されているかのように数十の白い花の鉢植えが置かれている。その花のどこかが光をちらちらと辺りに振りまいているのだ。
「何だろ……綺麗」
目を凝らしてみるが何が光っているかまではよく分からない。雫は少し考えると、窓を閉め上着を羽織り部屋を出た。
このまま眠れずに鬱屈としているより、気晴らしに散歩でもした方がいいかと思ったのだ。
人気のない廊下を抜け、一階の扉から庭へと出る。方角を掴むのに一瞬だけ迷ったが、すぐに目的の植え込みへとたどり着くことが出来た。
鉢植えは、上から見ると容易に見出すことが出来たが、地上からは高い垣根ですぐには窺えない場所にあるらしい。
彼女はうろうろと迷った挙句、ようやく垣根の切れ目を見つけて体を滑り込ませた。途中、枝葉が髪にひっかかりそうになって慌てて取り除く。
何とか雫が細い隙間を抜けて植え込みの角を曲がると、その先には白い鉢に植えられた白い花が一面に置かれていた。
「わあ。凄い」
見ると鉢植えの一つ一つはセロファンのように光る紙で飾られ、やはり白のリボンが結わえられている。
この感じでは明日の式場で使われる花なのかもしれない。雫はしゃがみこむと月光を受けて様々な色に光る紙をつついた。
小さな白い花が集まっている様子はとても可憐だ。手触りのよい花びらに触れて雫は自然と微笑む。
香を嗅ごうと顔を寄せて、しかし彼女は怪訝な顔になった。何だか花の香ではない別の臭いが鼻をついたのだ。
記憶の中で何度か嗅いだことのある刺激的な臭い。何だろうと首を捻った瞬間―――― だが雫は頭部に衝撃を受けて草の上に叩きつけられた。
何が起こったのか分からない。目の前が真っ白になって彼女はただ地面に伏す。頭上から冷ややかな男の声が響いた。
「ここで何をしている」
デイタスの声だ。だがそれが分かっても雫は答えることが出来ない。頭を横から殴られた為か、激しい眩暈に声が出せなかったのだ。
口の中で血と草の味が混じり合う。うつ伏せになったままかろうじて動かした右手を、しかし男は苛立ちと共に無造作に踏みにじった。新たな痛みに雫は声にならない悲鳴を上げる。
「何をしていると聞いているんだ。脱走でもするつもりか?」
「…………ち、が……」
―――― 弁解をしなければ、殺されるかもしれない。
だがそうは思っても、手は踏みつけられたままであり、容易には起き上がることが出来なかった。彼女はかろうじて反対側の手で頭を支えると口を開く。
「……違う……散歩、に……」
「散歩でわざわざこんなところにか?」
「窓から、花が、見えたから……」
舌打ちと共に男の足がどけられた。雫は震える両手で体を起こすと口元を押さえる。どこか切ったようだ。だがこの暗がりではよく分からない。
デイタスを見上げることは怖かった。だから彼女は自分を庇うように抱きしめると視線を草むらに固定する。視界の端に白い花が見えた。
こういう男だったと、忘れかけていた。
初対面の時に散々な目に合わされたにもかかわらず、ほんの数日暴力を振るわれなかっただけで、逃がしてくれると言っただけで、 雫は少し油断をしてしまっていたのだ。或いはそれは、彼が時折見せる目と聞いてしまった過去のせいかもしれない。少なくとも実際に殴られる今の今まで、 彼女は再び自分がこんな目に合うとは思っていなかった。
恐怖が背筋を走り、言葉が思いつかない。最初に与えられた痛みが重苦しく彼女の精神を支配していた。
「命が惜しいなら無闇に部屋を出るな」
「…………わ、かった」
「なら部屋に戻れ」
男の手が伸びてくる。雫は反射的に体を震わせて後ずさった。デイタスはそれを見て刹那、自嘲を顔に浮かべる。
だが彼は手を引くことはせずに、彼女の髪についた草を払った。汚れてしまった顔を指で拭う。
それは優しい手つきではなかったが、先ほど彼女を殴った手と同じとはとても思えない仕草だった。男は最後に彼女の手を引いて立たせる。
「一人で戻れるか?」
「平気……」
雫は彼の気が変わらないうちにそそくさとその場を立ち去る。垣根を曲がる時にデイタスを振り返ると、彼はまだ鉢植えの前に立って花を見下ろしていた。
どんな表情をしているのか、それは見えない。暗くて分からない。
だが雫は不思議とそれが分かってしまう気がして、身を翻すともはや一度も振り返らずに自分の部屋へと戻ったのだった。

密かに心配していたが、殴られた箇所は目立つような痕にはなっていなかった。
雫は起きてから入浴してそのことを確認すると安堵でいっぱいになる。
何しろ今日を問題なく乗り越えられれば自由になれるのだ。不安要素は少しでも減らしたい。
頭の中で式の手順を確認すると雫は慌しく身支度をし、女中たちによって馬車に乗せられた。ネイがいつものように同行する。
馬車の中で二人になると、ネイは小さな皮袋を彼女に差し出してきた。
「何これ」
「報酬だ。持っていけばいい」
その意味するところを理解して雫は眉を寄せた。手を振って皮袋を避ける。
「要らないよ。それ貰ったら共犯になっちゃうし」
「せめてもの得を取ろうとは思わないのか? 割に合わないだろう」
「損得の問題じゃないよ。私はそれを貰いたくないってだけ」
雫は溜息をついてかぶりを振る。こういったものは伝わるかもしれないし伝わらないかもしれない。子供じみた拘りとも言えるだろう。
だが彼女は、アマベルを殺したデイタスを矢張り肯定することはできないのだ。
この世界に来て今まで少なからず死を見てきた雫だが、あんな風に感情で人を殺すことは許されるべきではないと思う。
たとえ二人の間に何があったとしても、一方的な死を以ってそれを終わらせることがいいことだとは雫には思えなかった。
彼女は馬車の窓から外を見やる。目に入る街並みは祝いの空気で賑わっていた。子供たちが笑いながらお互いの頭に花飾りを乗せあっている。
自然と気分が浮き立つような温かい景色に、けれど雫は沈痛さを覚えて目を閉じた。

貴族や議員が出席する式は厳重な警備が敷かれ、聖堂内部には関係者以外の部外者は入ることは出来ない。
その代わり式が終われば結婚した二人は馬車に乗って、街を一周してお披露目をすることになっていた。
雫はけれど、お披露目には出ない。それ以前に聖堂の裏口から抜け出るようネイに言われている。
花嫁不在でデイタスはお披露目をどう切り抜けるのか気にはなったが、彼女が気遣うような筋合いでもないだろう。
聖堂の控え室に到着した雫は、そこでまず徹底的に化粧をされた。
ここまで時間をかけて何重にも化粧をされるのは初めての経験だ。
大体元の世界にいた時も、彼女は外出する際に目元や唇に軽いメイクをするだけで、ファンデーションを塗ったことはない。
大学に入る際に姉が化粧の仕方を一通り教えてくれたが、その時に「雫ちゃんは肌、綺麗だし当分そのままでもいいんじゃないかな」と言われたので、せいぜい日焼け止めを塗るくらいに留めていたのである。
あっちをむいて、こっちをむいて、目を閉じて、上を向いて、と絶えず指示を繰り出されていた雫は、途中から意識を半分明後日の方向に離脱させていた。
椅子に座ったまま一歩も動いていないのに何だか次第に疲労していく気がする。本物の花嫁でもこれはぐったり疲れてしまうのではないかと思われた。
だが、「これで出来上がりですわ」と言われ鏡を見た雫は絶句する。
長すぎると思った、それだけの時間をかけた結果は確かにそこにあったのだ。
もともと大きめだった目は今は綺麗に入れられたラインと白金で華やかに彩られ、艶を増した黒い睫毛が瞳と相まって愛らしいながらも蠱惑的な印象を醸し出している。 少し荒れてしまった肌は丁寧に塗られているにもかかわらず透き通るように白い。
あちこちにそっと入れられた真珠色の光と薔薇色の翳が鼻梁を高く見せ、頬を幸福そうに彩っていた。
顔立ちの違いはあっても、これなら或いは貴族令嬢と言って通るかもしれない。雫は自分であって自分でない鏡の中の少女に感嘆の声を上げた。
「うわぁ、化粧って凄い。これは騙されるかも」
満足げに微笑んでいた介添えの女は花嫁のあんまりな感想に肩を落としたが、雫自身は興味津々で鏡を覗き込んでいる。
だがいつまでもそうしている時間はない。式の予定は分刻みで動いているのだ。
「アマベル様、次は着替えをなさってください」
「あ、はい」
雫は慌ててドレスを準備する邪魔にならないよう部屋の隅に避ける。
そこにいると傍にある窓から聖堂の裏口付近が目に入った。彼女は何とはなしに開かれた出入り口を眺める。
止められた馬車から次々運び込まれる鉢植え。あれは昨晩彼女が庭で見つけたものだ。
矢張り式場を飾るものだったのか……と納得しかけて、雫はふとあることに思い当たった。
白い花に顔を寄せ、嗅いだ香。それは―――― 火薬の臭いに、よく似ていたのだ。