無言の花嫁 064

禁転載

細い廊下は、片端に婚礼の為に用意された飾りの余りや道具が積み重ねられ、余計に狭くなっていた。その中を雫はエリクと二人ひたすら走っていく。
無言での逃走。だがそれも長くは続かなかった。雫はすぐ背後に迫る気配にぞっと恐怖する。
だがその時不意に、彼女の手を引いて走っていたエリクが彼女を前に押しやると「走って」とだけ言った。
彼はそのまま追ってくるネイに相対する。
「エリク!」
一瞬、彼が切り伏せられる未来を想像して雫は青くなった。すぐには止まれない勢いのまま数歩を行って振り返る。
けれどちらっと見えた光景はそうではなかった。床に浮かび上がった魔法陣、その中に踏み込んだネイは無数の白い糸に絡みつかれ、それに剣を鞘ごと掴み取られていたのだ。まるで繭の中のような有様に雫を目を丸くする。
ネイは右腕に巻きつく白い糸を振り上げながら、詠唱するエリクを睨んだ。
「罠か。魔法士め」
「前もっての準備は魔法士の常套。連れを返してもらうだけだから怒られる筋合いはない」
どうすればいいのか、雫は二人の男を数歩離れたところから見やった。その袖を誰かが引く。
「行きましょう、マスター」
「メア」
いつの間に現れたのか少女の姿の使い魔はもう一度雫の手を引いた。
確かにエリクも先に行くよう促して手を放したのだ。彼女は躊躇いながらも足を踏み出す。 だがその時、視界の隅にネイが腕を振り上げる姿が映った。
白い糸を膂力によって引きちぎりながら、男は剣の柄を握るとそれを引き抜いたのだ。鋭い刃で糸を両断しながらそのまま剣をエリクへと振り下ろす。
しかし、本来の速度を糸によって殺されていた斬撃は、エリクが一歩後ろに下がったことにより空を切った。
蒼白になった雫は彼が無事だったことに安堵する。だが、ネイはそのまま糸を振り切ると魔法陣から一歩を踏み出した。
微塵の容赦もない剣が、再度エリクを襲う。

雫は目を閉じなかった。ただ、突き飛ばされるようにして走り出す。離れてしまった距離を埋めるようと手を伸ばした。
聞こえてきたのは金属の鳴る高い音。思わず彼女が目を瞠ったその先で、ネイは不敵な笑みを見せる。
「面白い。剣を使うか」
「実は得意じゃない」
真顔の為本気か冗談かは分からない。けれど現実としてあるのは、エリクは短剣よりも少し長い突剣で相手の剣を受けているということだった。
魔法士の男は僅かに剣の軸を捻りながらネイを押し返し後ろに距離を取る。
だがそれは彼の力が強いというよりも、ネイが自ら剣を引いたように雫の目には映った。
長剣を振り上げると、ネイは三撃目を打ち込もうとする。それが、今までとは比べ物にならない威力を込めたものであることは気配で分かった。
エリクは僅かに顔を歪め、半歩下がりながら突剣を上げる。それは彼にとっては分の悪い賭けであっただろう。
しかしそこに―――― 雫は間に合ったのだ。

受けきれないかもしれない剣を受けようとしたエリクの判断が賭けならば、雫の判断もまた賭けだった。
彼女は、ネイが自分を追ってくるということはヴァローラが身代わりになったことを知らないのだと、あくまで「花嫁」が必要な為だと考えたのだ。
だから、彼はできれば雫を殺したくないはずだ。侵入者であるエリクに対してよりも、彼女には剣を振るうことを躊躇うに違いない。
後から整理してみれば、そんな思考の結果だったのだと思う。けれど実際には彼女はただ夢中でエリクの前に飛び込んだだけだった。
雫をみとめて剣の勢いが鈍る。エリクは顔色を変えると彼女を庇って抱きしめた。その腕の中で、雫は叫ぶ。
「メア! 花籠取って!」
主人からの命。それを受けて廊下に積まれていた箱の上から花籠が落ちた。
中に詰まっていた色とりどりの花びらが、剣を引きかけたネイの視界を遮る。
そしてその隙に、雫は箱の中に差し込まれていた棒を抜き取った。それを見たエリクの腕が緩む。
「ごめんね!」
ネイに殴られたことはなかった。親切にされたこともあった。
だからそんなことを叫びながら、雫は木の棒を振り被って―――― 棒を受けようとする剣ではなく、男の手首に向って打ち下ろす。
一瞬の差でその意図を見抜いたネイの動きを、しかし後ろから伸びてきた白い糸が再び遮った。エリクが目を細めて詠唱を再開している。
木の棒はほぼ正確に男の手首のくるぶしを打ち抜く。直接骨に響く衝撃は、雫の力であってもネイの手を瞬間しびれさせた。
ほんの僅かな隙。だが指が緩んだその間に白い糸が剣を抜き取っていく。反射的に柄を掴み直そうとした指を、雫がまた棒で打った。
自分が痛そうに顔を顰めて、彼女は白いリボンが巻きつけられた棒を構えている。
その隣で魔法士の男がネイのものであった長剣を手に取った。エリクの方は冷淡さが滲み出る容赦のない視線をネイに注いでいる。
武器を失った男は二人を見て皮肉げに笑った。
「面白い」
男はそれだけしか言わなかった。そして素手のまま半歩を踏み出す。
ただの半歩、だが雫は何故かそこに強い恐怖を感じずにはいられなかった。硬直しかけた体をエリクが後ろに押しやる。
「エ、エリク!」
「大丈夫。逃げてて」
「逃げてもすぐに捕まえる。その男を死体にしたくなかったら戻って来い」
ネイは顔と同じ肌の色の指を上げた。そこには古びた剣のように正体の分からぬ忌まわしさが漂う。雫はメアの名を呼びかけた。
だがその時―――― 彼らの遥か背後で大きな歓声があがる。
式場から聞こえる花嫁たちを称える声。それは、祝祭の一部でもある式の始まりを表すものだった。

ネイは目を細めて聞こえてくる歓声に聞き入った。エリクの後ろにいる雫に視線を移す。
「ドレスはどうした。身代わりを立てたのか?」
「あ、ヴァローラさんが……」
つい答えてしまったのは、男の声音が一瞬前とは違い、数日間一緒にいた時と同じ平坦なものだったからだ。
ネイはそれを聞いて少しだけ眉を寄せる。だがすぐに男は笑った。
「そういうことか、あの女……」
その笑いは楽しげというにはどこか歪な昏さを拭えないものであった。雫は顔を歪めて、初めて見る男の笑い顔を見つめる。
ネイは彼女の視線に気づくと追いやるように手を振った。
「ならば行くがいい。折角助かった命だ。その男と一緒にまっとうしろ」
唖然として何も言えない雫の前で踵を返し、そうして男は去っていった。狭い廊下には二人と、メアだけが残される。
しばらくしてようやく雫は、取り上げた剣を適当な箱に押し込むエリクを見上げた。
「助かった?」
「みたいだね。今のうちに行こう」
廊下の先を示すエリクの後について、雫は何度も振り返りながら廊下を歩いていく。
通用口と続く細い道は確かに、舞台の外へと彼女を導くものであったのだ。

ディセウア侯爵がいたという報告は入ってこない。あれからネイは戻ってこない。
膨れ上がる苛立ちを抱えながら、だがデイタスは背筋を伸ばすと堂々たる姿で式場内に足を踏み入れた。
既に六人の花嫁は祭壇の後ろに並んでいる。その一番右端が、妻たる女の場所だ。
列席する上流階級の人間たちが、ある者は尊大に、ある者は感心したように若く才能ある男を見つめる中、デイタスは傲然と頭を上げ、真っ直ぐに伸びる通路を歩いていく。それは子供の頃彼が描いた数多くの想像の一つに近しいものだった。
『いつか奴らが無視できないようなところまで行ってやる。自分の力でのし上がって、奴らの前に立ってやる』
まだ幼かった彼がそう言った時、病床にあった母親が悲しそうな顔になったのは、彼の言葉が子供らしい野心というには余りにも妄執に似た響きを帯びていたからだろう。
だがその母もあれからまもなく亡くなった。そして彼は今までずっと独りで生きてきたのだ。
暗く淀む憎悪を何故忘れられなかったのか分からない。もっと陰惨な生を送る人間も広い大陸にはいくらでもいただろう。
しかし、彼には彼の人生しかない。そしてそれは、別の誰かと比べて溜飲を下ろせるようなものではなかったのだ。
デイタスは祭壇の後ろに立つ白いドレスの女たちを見やる。
男の言葉を聞かない五人の女と、向かい合う一人の娘。けれどそれは単なる神話でしかない。
彼の言葉を聞こうとした人間など今まで一人もいなかったのだ。似た淀みを抱える従者であった男を除いては。
どうせ言っても伝わらないのなら、それを口にする必要などあるのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。全ては欺瞞だ。皆が皆、適当なところで折り合いをつけて他人を嘲笑っている。
そんな些細なことで幸福になれるのだ。だが、デイタスは自分がそうなることに我慢ができなかった。
祭壇の前に立った彼は振り返ると参列者に一礼する。
そして、再び踵を返すと左端の女の前に立った。手袋をしている手を取り、「あなたの名は何であるか」と問う。
しかし女は答えない。そのことに心地よささえ覚えてデイタスは次の花嫁の手を取った。

ヴァローラを初めて見た時のことは忘れられない。
それは侯爵邸の裏庭でのことだった。そこにデイタスは迷い込み、そして彼女に出会ったのだ。
こんなに綺麗な生き物が世の中にはいるのかと思った。それくらい彼女は完璧で、手の届かない存在に思えた。
それでも、彼女と話をしてみたいと思ったのだ。だからこそ、彼は散々迷ったけれど緊張に震えながらも話しかけた。
ヴァローラは不思議そうに彼を見上げて、微笑んでくれた。彼の名前を尋ねて、自分の名も名乗った。
それから二人はお互いの手を取った。そうすることが自然に思えた。
だが、砂糖菓子のように幸福に似た時は、あっという間に終わりを告げたのだ。

別の人間と結婚すると言った時、彼女は「そう」としか言わなかった。おそらく父親の介入のことを知っていたのだろう。
それきり一度も会っていない。けれど彼女は今彼のすぐ傍に立っているのだ。彼の言葉を聞かない数多の人間の一人として。
デイタスは五人目の女の手を取った。それがヴァローラの位置であることを彼は知っている。
けれど彼はお決まりの問いを口にしながらも、あることに気づいて表情を変えた。
違和感を覚えた手から視線を上げ、厚いヴェールの向こうに目を凝らす。
よくは見えない顔。だが微かに見える口元から彼女がヴァローラでないことは分かった。デイタスは怒りに顔を引き攣らせる。
―――― 結局、また彼女は彼を拒絶したのだ。そうして逃げた。父ともども。
最後まで彼の前に立とうとはしなかった。そんな女なのだ。
許しがたい傲慢。しかしそれは、最初から期待を抱いた自分が悪かったのだろう。何かを返してくれると思っていた自分が愚かだった。
デイタスはヴァローラのドレスを着た女を鼻で笑うと最後の一人の前に立った。
出会ったばかりの、不思議な少女。
弱くて、だが芯を持っている。彼を恐れながら、時折透き通るような目で彼を覗き込んでくる。
おそらく真っ直ぐに育った娘なのだろう。苦労を知らないという程世間知らずなわけではない。
ただきっと愛情を受けて育った彼女は人を信じたがっている。
お人よしなのだ。森で会った時にも最初から逃げていればよいのにアマベルを助ける為に飛び込んできた。
そして、あれだけの目にあったにもかかわらず、どこかで彼のことを心配そうに思っている。
あんなではとても大人になって生きていけないだろう。さっさと家族のところに戻ればいいのだ。騙され傷つけられて変わってしまう前に。
デイタスは最後の女の手を取る。白い手袋ごしの手は少しだけ震えていた。彼はヴェール越しに女を見つめる。
「あなたの名は何であるか」
少しの空白があった。
何だか懐かしい時間。だが、それは失われたものそのものではありえない。
女の手が、彼の手をそっと握る。温かな感触はお互いの手袋を越えて不思議なほど染みいった。
よく知る感触。その意味することを悟ってデイタスは愕然とした。女は口を開き、囁く。
「私の名は、ヴァローラ・ディセウア」
その声はかつて清んでいた。世の何よりも美しく聞こえた。
まるで硝子細工のように、どこまでも煌いて、純粋な存在。
デイタスは最後の女をただ見つめる。それはあの時よりもずっと緊張をもたらす、悲しい時間だった。