異質と罪人 066

禁転載

卵を三個、ボール状の食器の中に割り入れる。そのまましばらくかき混ぜると雫は陶器の壷から牛乳を注いだ。
更に中身をよく混ぜあわせると、それは柔らかいひよこ色になる。
彼女はその様子を見て、中にたっぷりの砂糖を追加した。最後にバターを塗ってちぎったパンを石の皿に並べ、上から混ぜあわせた液体を満遍なく注ぐと、 パンによく染み渡らせる。 ひたひたになった皿を確認して雫は「お願いします」と厨房の男に渡した。彼はそれを開けられた窯の中に入れる。
「ちょっと待っててくださいね! すぐ出来ますから」
「うん」
宿屋の食堂に勉強道具を広げているエリクはカウンター越しに雫を見返して頷いた。
もっともこのおやつはどちらかというと雫が食べたくて作り出したものであり、彼が期待して待っているかといったら分からない。
雫は焼きあがるまでの僅かな時間、彼の向かいに戻って本を広げた。
この文庫本は図書館からの借り物ではなく雫本人のものだ。その為あちこちに線が引かれ書き込みが為されている。
大学に上がるまでは本に直接書き込むことに抵抗があったのだが、教授は一年生の彼女たちに対し、むしろ「自分の本にはどんどん書き込みなさい」と教えたのだ。その方が読み返すごとに問題点を取り出すことが容易になり、調べものもしやすいからだと。
先生を尊敬する真面目な学生であり、また本を絶対汚したくないというほどの潔癖さもなかった雫はすぐにそれを実行に移した。
結果、上下巻の上巻しかまだ買っていないこの文庫本は、既に前半のページはめくられすぎていてよれているし、 ページの隅に鉛筆書きが細々とされていて買った時の面影は微塵もない。

雫は自分の書き込みを手がかりとしてレポートの草稿を纏めだした。ふと向いを見やるとエリクは漢字の書き取りをしている。
「鮪」という漢字を真面目な顔をして幾つも書いている大の男を見て、彼女は思わず吹き出した。そのまま堪えきれずテーブルに突っ伏す。
「何か違ってる?」
「い、いえ……何で鮪なんですか?」
「魚に有なんて面白いから」
「でも、エリクは鮪知らないですよね?」
「見たことも食べたこともないな」
それを聞くと余計におかしい。何故もっと実用的な漢字を選ばないのだろう。
肩を震わせて笑う少女をエリクは呆れる風でもなく見下ろした。
「何がおかしいの?」
「―――― 鮪美味しいですよ」
ようやく笑いを飲み込むと、彼女はそう返したのだった。

焼きあがった皿は厨房の男が二人のいるテーブルまで持ってきてくれた。そのまま男を加えた三人は雫が適当に作ったおやつを自分の皿に取り分ける。
食堂中に漂う甘い匂い。淡い黄色の柔らかい生地の中には、こんがり狐色がついたパンがいくつも埋もれていた。
雫は懐かしい香に満悦して、パンを一口大に切り分けると口に運ぶ。
「そうそう。こういう味なんですよ」
「甘い。美味しい。これ何?」
「フレンチトーストのようなパンプディングのような」
「ふーん?」
厨房を貸してくれた男も「子供や女の子が好きそうな味だな」と感想を述べながらまんざらではないらしい。
「子供にもらってく」と言って、小さな皿に取り分けて食堂を出て行った。
雫は柑橘類のジャムをたっぷりと柔らかいパンの上に落とすと、もう一切れを口に入れる。
熱いお茶の風味とフレンチトーストの懐かしい甘さが染み入るほど心地よかった。

二人がラオブの街で揉め事に巻き込まれてから二週間。
貴族の追っ手を逃れて更に街道をファルサス城都方角へと移動した二人は、 三日前からこの街に滞在している。
この街にも一般に開放されている転移陣があり、その使用許可を取るために書類審査を受けているところだ。
「っていうか暑いですよ。何ですかこの陽気は。エリクよく長袖で平気ですね」
「暑いかな。別にそうは感じないけど」
「じめじめしてないだけましだとは思うんですけどね。暑い」
そういう雫は半袖のブラウスに膝丈のスカートを履いている。本当はもっと薄着になりたいのだが、度を越しては奇異の目で見られてしまうだろう。
一方エリクは首が詰まった長袖の魔法着とやらを着ているが、まったく暑そうにはしていない。見ている雫の方が暑がっているくらいだ。
文字を専門に研究する魔法士は「鮪」に飽きたのか「鮎」を書き始めている。
一応漢字に見えるのだが、どちらかというと幾何学的な印象を受けるのは彼が「とめ」「はね」「はらい」をまったく意識していないからに違いない。
雫はフレンチトーストをお代わりしながら、まるで寿司屋の湯のみのようになりつつある彼のノートを眺めた。
「面白いですか?」
「うん」
「鮎って食べたことあります?」
「存在自体知らない」
予想通りの言葉に雫は笑いを堪える。鮎は川魚だが、この世界にいるかどうかも定かではないだろう。彼女はハーブティに似た風味のお茶を一口含む。
「鮎も美味しいですよ」
「君って魚好きだね」
「魚偏の漢字ばっかり練習している人に言われたくないです」
その時、食堂の入り口が開いて旅人らしい男たちが何人か入ってきた。時計を見ると昼時である。
たちまち周囲のテーブルが埋まり始め、小さな食堂は喧騒でいっぱいになった。厨房に戻っていた男も対応に追われている。
雫は席を空けたほうがいいだろうかと辺りを見回した。見上げた視線が、近くに来た男のものと合う。男は愛想良く笑って二人のテーブルの隣に立った。
「お嬢ちゃん、お使いか?」
「……一応、旅を」
本当に自分は何歳に見えるのだろう。面倒だからそろそろ十六歳ということにでもしてしまおうか、などと考えた時、男はテーブルを覗き込んで軽い歓声を上げた。
「何だそれ、面白いな」
男が指しているのはエリクの魚偏だらけのノートだ。雫はまた吹き出しそうになって口元を押さえた。だがエリクは平然と答える。
「これ? 東の方の国の文字だよ」
「へぇ。格好いいな。ちょっと何か書いてくれよ」
「彼女の方が上手い」
「え」
示されて雫は突然のことにうろたえた。だが男は期待に満ちた目を彼女に移すと、エリクから小さなメモ用紙を受け取って「ここに書いて」と差し出してくる。
「な、何を書くんですか」
「何がいいだろ。あ、風がいいな。俺好きだから」
「はぁ……」
何だか外国人がおかしな漢字Tシャツを着ているところを連想してしまったのだが、気のせいだと思いたい。
雫は緊張しながらも習字の時間のように丁寧にメモ帳に「風」と書いて渡した。男はそれを見て喜ぶ。
「これいいな! ありがと、お嬢ちゃん」
あまりに無邪気に喜ばれて雫もつい笑ってしまった。その声に引かれたのか他の客たちも集まってくる。
「何だ何だ。何があるんだ?」
「お、これ俺も書いて欲しいかも」
「待て、俺が先に選ぶから」
「あ、あの…………?」
何故こんなことになってしまったのか。雫は妙に楽しそうな客たちに囲まれて助けを求めるようにエリクを見たが、彼は「鱒」の書き取りに集中しているらしく、まったく彼女の方を見ていない。そして彼女は、客たちが食事が終わって食堂を出て行くまでの小一時間、彼らに漢字を書いて書いてとせがまれる羽目になったのだった。

これ程字を書くことに気を使ったのは小学生の習字の時間以来かもしれない。再び食堂に二人だけになると雫は机に突っ伏した。
緊張に硬くなった右手を伸ばす。
「つ、疲れました……」
「お疲れ様」
テーブルの上には銅貨や小さな装飾具などが積み上げられていた。これは雫に漢字を書いてもらった男たちが礼として置いていったものだ。
中から小さな花のブローチを手に取って雫は息をつく。
「……またバイトしようかなぁ」
「バイトってアルバイトのことだっけ? 何か欲しいものでもあるの?」
「そういうわけじゃないんですけど。旅の費用も含めてエリクに頼りきりなので、少しでも返したいなーと思いまして」
ただでさえ変な揉め事に巻き込まれてたりして迷惑もかけているのだ。それこそ外見通り子供でもないのに申し訳なくて仕方ない。
だが、彼女の意図を聞いた彼は少し眉を寄せただけで頷かなかった。
「この旅の費用その他を僕が持ってるのは、君の知識を教えてもらうことへの正当な報酬ってことになってるはずだけど。
 何故そこに引け目を感じるのか分からないな」
「だって大して私、それほど知識があるわけじゃありませんし……。
 それに色々してもらってますよ。こないだだって下手したら大怪我じゃないですか」
「あれは君のせいじゃないよ」
彼は軽く肩をすくめるとペンを置く。そのまま数秒の間思案顔になったエリクは、急に全然違うことを聞き返してきた。
「君の世界の教育の状況ってどうなってるの?」
「教育って大学ですか、子供ですか」
「両方」
何が気になるのだろう、と雫は思ったが、「私の国の話ですけど」と限定して説明を始めた。
「十五歳までは義務教育です。国が費用を負担して全員に多分野にわたる学問を詰め込みます。
 そんなんで識字率は十割近いですが、これは世界全体でも高い方です」
「すごいな。他にも生活に即したものを教えるの?」
「いえ。それもあるんですが、どちらかというと生活とは直接関係ないことをやります。文学の他には歴史とか複雑な数学とか。
 一般教養の他に、各専門分野に分かれた時の基礎知識……土台を作る為に色々やらせるって感じでしょうか。
 十五歳以降はみな、それぞれの分野に徐々に分かれていきますが、その前に自分の向き不向きや興味分野を見分けるのに役立つと思います。
 私も高校で化学とかやりましたけど、向いてなかったんでそれきりです」
「贅沢なことするね。十五からはお金を出して教育を受けるの?」
「ですね。これが結構かかります。大学なんかは完全専門ですから学校によって値段も大分違いますし」
おまけに雫の所属は文系人文教養であり、そこで得られるものは社会に出て即戦力となるようなものはほとんどない。
こういった虚学の知識に時間とお金をかけられるということ自体、まさに贅沢以外の何ものでもないだろう。彼女は今は遠い両親に心の中で感謝した。

エリクは「なるほど」と頷くと正面から雫を見据え、話題を戻す。
「あのね、前にも言ったと思うけど、君の存在は本当に特殊なんだ。前例のない来訪者で、まったく違う世界の知識を持ってる。
 それを僕は一部教授されてるわけだけど、出している費用以上のものは充分にもらっていると思うよ。気に病む必要はまったくない」
「だって、大したことじゃないんですよ。私の知識だって学生だからたかがしれてますし」
「君にとっては大したことじゃなくても、この世界では君しか知らないことだ。それだけで価値があるし……僕も色々気づくことがある。
 ただ―――― どうしても納得できないというならこう考えてみればいい。
 君は今まで国やご両親の費用によって、充分なほどの教育を受けてきた。それを今、切り売りして自分の身を助けているのだと。
 僕は君の知識の一部に対価を払っている。でもそれは、ご両親が君を育てた時間や費用と比べて、そんなに法外なものなのかな」
雫は虚を突かれて沈黙する。
不自由なく教育を受けさせてもらった自分に、親が出した学費は軽く数百万に及ぶだろう。大学は私立である為、下手したら一千万近いかもしれない。
そうやって今に至った雫がここであまりにも自分の知識を低く見積もるということは、 下手をしたらそこまでの援助をしてくれた親の思いを低く見るということに繋がってしまうのだ。 エリクから思っても見なかった指摘をされて、雫はそのことにようやく思い当たった。
元の世界では未熟者でしかない彼女も、この世界では希少な知識者である。そしてそれが自分だけの力で身についたものではない以上、 彼女は必要以上の引け目を持つのではなく、その価値を高く評価してくれる彼に感謝すべきなのだ。雫は深く息を吐き出すと改めてエリクに向って頭を下げた。
「ありがとうございます。頑張ります」
「うん。とりあえず他に魚偏の漢字あったら教えて」
「…………もう魚偏やめませんか?」
何故そんなことを言うのか、という目をする男に雫は「鯨」と「鰯」を書いて渡す。
「クジラってこう書くのか」と少し驚く彼を見やって、雫は笑った。少し目を伏せて苦笑し直す。
「でも、私よりも自分の身を優先してくださいね。命は大事です」
「どうだろう。君の命も大事だから気分次第だ」
感情の分からない魔法士はそう返すと、書き取りを再開したのだった。