異質と罪人 067

禁転載

国内間の移動は先が城都であっても審査は厳しくない。
問題なく下りた転移陣の使用許可に雫はほっと安心した。もしかしたらラオブの街からの手配がまだ残っていて人相で引っかかるかもしれないと思っていたのだ。
荷造りをしてしまうと彼女はエリクを待つ間、宿の食堂で最後のお茶を飲むことにした。
空き時間のせいか他に誰もいないので、自分でお湯を沸かしお茶を淹れる。
軽い足音と共に小さな子供が食堂に入ってきたのは、雫がカップを持ってテーブルに移動した時のことだ。
二、三歳くらいの男の子は、親から離れて迷い込んでしまったのか大きな目で雫を見上げる。
「あれ、どこから来たの? 一人?」
「ひとーり?」
「お母さんは?」
「かーさんは?」
オウムのような応答に彼女は笑い出す。これくらいの子供にはよくあることだ。
去年家に遊びに来た従兄弟の子供がちょうどこんな感じで、始終大人たちにちやほやされていた。
雫は自然とその時のことを思い出しながら子供を抱き上げ隣に座らせる。机の上にいた小鳥のメアを見て、子供の目は好奇心に輝いた。
「ここで待ってればいいよ。あんまりお母さん来なかったら一緒に捜しに行くから」
「うん」
「お絵かきしようか?」
「おえかき!」
喜色を浮かべる子供に雫はにっこり笑ってバッグの中からルーズリーフとペンケースを取り出す。
そして彼女はいつか路地裏で小さな兄弟に書いてやったように動物の絵を描き始めた。
「ほら、これは?」
「うまー」
「当たり! これは?」
「いぬ」
「猫だよ。ほら、お目目が三日月」
その後もいくつか絵を描いてやりながら、子供が自分も書きたいというのでペンケースから蛍光マーカーを何本か出してやる。
書かれた絵の上から色を塗りつぶし始める小さな手を苦笑して見ながら、雫はぼんやりとこれからのことに思いを馳せた。
ようやくファルサス城都に到着するのだ。今までのことが長かったようにも短かったようにも思える。何度も危険な目にあったのが嘘のようだ。
だが着いたら終わりではない。二百四十年前の不可思議な事件を手がかりとして、元の世界に帰る方法を解き明かさなければならないのだ。
件の事件について魔女の目撃証言を本から消したファルサスには、何かしらの情報が隠されている。それを城から引き出すことこそ当面の目的になるだろう。
雫は黄色のマーカーを「みどり!」と指差す子供に「黄色だよ」と訂正しながら蓋を開けて渡してやった。
―――― もし出来るなら、帰る前までにはこの世界の言葉と雫の世界の言葉を対応させる辞書を作ってしまいたい。
他にエリクに返せるものなど、彼女には何もないのだから。
「英和も独和も買い直せばいいし……教科書もか」
彼が必要とするものは置いていこう。図書館に返す本さえあれば、雫は問題ないのだ。それよりもこの恩に報いる方が大事だ。
彼は雫の知識を高く買ってくれるけれど、彼女の伝える言語などこの世界では使いようがないのもまた事実だ。
それでもエリクは面白いのだと言ってくれる。そうしてずっと、彼女を支えて手を引いてくれていたのだ。
どこか物寂しさを感じながら彼女はメアを撫でようとする。だがその時、食堂の入り口に困り顔の女が現れて、雫はその手を止めた。
「あ、お母さん?」
「かーさん!」
「こんなところにいたのね! もう!」
母親は走ってきて子供を抱きしめる。雫は軽く頭を下げた。
「すみません。私がここで待っていようって……」
「いえ、いいんです。あの、この子がご迷惑をおかけしました。本当に……」
テーブルの上の落書きを見た女は、やたらとうろたえながら何度も謝って子供を抱き上げると、一度も雫と目を合わせぬまま食堂を出て行った。
そっけない態度に、幼児略取犯に見られてしまったかと雫はテーブルを片付けながら反省する。
書類の束を持ったエリクがやって来たのはその直後のことだった。

転移陣が設置されている建物を、雫は入ってすぐ「体育館みたい」と称した。
がらんとした大きな空間。板張りの床は綺麗に磨かれている。
仕切りの壁などはなく、あちこちに机が並べられている光景は学校の身体測定や体力測定を連想させた。雫は遠くに見える転移陣を見たまま囁く。
「カンデラのお城と大分違うんですね」
「石に転移陣を焼きつかせるのは手間がかかるんだよ。木にやる方が楽だ。石よりは長持ちしないけど」
「あーなるほど。かまぼこ板に焼印押すみたいなものですか」
「カマボコ?」
「材料は魚です」
二人は一番行列が長く出来ている机の前に並んだ。列は身体測定よりも余程早い速度で進んでいく。
最後尾であった二人の順番が回って来るまでには一分もかからなかった。エリクは書類の一枚を係員に提出し、通行を許可される。
「おいで」
振り返って伸ばされた彼の手。それを見て初めて雫は自分が緊張しているのだと気づいた。黙って頷くと男の手を取る。
―――― これから先、一体何が自分を待っているのだろう。
だがそんな不安はいつだって抱いているものなのだ。幾度となく繰り返す旅立ち。その一つでしかない。
だから雫は少し微笑んで、一歩を踏み出す。そこに待っているものは紛れもなく自らの意志による未来の自分なのだと信じて。



「ドラゴンが飛んでない!」
「そんな街、大陸中どこにもないよ」
「ぐう」
分かっていたことだが現実を目の当たりにして雫は肩を落とす。
二人が出たのは城都の南西、転移陣の管理所だ。そこを出た雫は、想像していたのとは違う一般的な、けれど栄えている街並みを見て歓声を上げた。
「外国旅行が出来た気分ですよ!」
「よその国と言えばよその国だ」
ファルサス城都の街並みはカンデラやラオブと比べて明らかに様相が異なるというわけではない。
ただ、千年を越える昔からここにあるというこの街のあちこちには石造りの歴史を感じる建物が並んでおり、凝った彫刻を施された柱や アンティークな細工時計が嵌め込まれた壁、ところどころにある魔法陣らしき紋様など一つ一つが雫の目を引いた。 かといって通りにまで古めかしさが漂うわけでもなく、どちらかというと石畳の上を流れる空気は洗練そのものだ。彼女は物珍しげにあちこちを見回す。
「すごいすごい。広そうですね!」
「カンデラ城都の二倍近いな。君は大丈夫だとは思うけど、一応迷子にならないよう気をつけて」
「迷子になったら迷子センターですか」
「何を意図しているか分からないけど、多分ない」
二人は人通りの多い中を移動して、一軒の宿屋の前に到着する。エリクが扉に手をかけた時、だが戸は勝手に奥へと開いた。中から若い男が出てくる。
「お、本当に来たか、久しぶり!」
「うん。元気そうで何より」
「それはこっちの台詞だよ。どうしてるか心配だったからな。……っと」
明るく笑いかける男は、そこでようやく雫の存在に気づいた。目が合った彼女は慌てて頭を下げる。
「は、初めまして」
「はじめまして。エリクから連絡は受けてるよ、雫さん」
「え?」
呆気に取られる彼女に男は笑顔のまま「俺はハーヴ。一応宮廷魔法士だね」と名乗ったのだった。

この宿屋はハーヴの実家がやっているものなのだという。
雫は彼に挨拶をして案内された部屋に荷物を置くと、寝台の上に体を投げ出した。部屋の中を飛んでいたメアが窓際に降り立つ。
エリクとハーヴは二人で話があるらしく、雫は「夕食まで休んでるといいよ」と言われたのだ。
彼女は緊張に固くなっていた体を伸ばす。自然と長い息がシーツの上に零れた。
ようやくここまで来た。とてもとても長かった。
ではこれからは―――― どれくらい長いのだろう。
雫は体を起こすと三階の窓から街並を眺める。
青く広がった空の下、美しく大きな白亜の城が遥か向こうに堂々たる姿を見せていた。



「四年ぶりか? 随分経ったな」
「そうかな。それ程長くは感じなかったよ」
ハーヴは苦笑すると旧友に酒盃を差し出した。エリクは黙ってそれを受け取る。
二人が酒に口をつける間、微妙に質感の違う沈黙がその場にはたゆたった。
「……もうお前には会えないかと思ったよ。ファルサスへは戻ってこないと思った」
「機会があれば来るよ。今まではそれがなかっただけ」
「あの子の為にか。素直でいい子そうだな」
「あれで結構頑固」
エリクの表情はまったく変わらなかったが、旧知である男はそこから何かを読み取ったのか苦笑する。
ハーヴは暗い緑の瞳を扉へ向けると僅かに細めた。
「お前があれくらいの娘を連れていると…………少し、カティリアーナ様を思い出す」
「全然違うよ」
「……そうだな」
多くを語らない言葉はだが、その回りくどさこそが伝え難い感情をより多く担っているように思える。
ゆっくりと嚥下される酒は寝かされた年月そのものの味がした。
ハーヴは軽く息を吐き出すと気分を変える為にかぶりを振る。
「頼まれた件だが、やっぱり駄目だったよ。閲覧できる場所には例の事件についての資料はない。回収された第一版もだ」
「そうか。僕も記憶になかったから、そうじゃないかと思ったけど」
「禁呪の資料の中にはなかったのか? お前は一級限定まで閲覧資格があっただろう」
「なかった、と思う。もっと上の封印資料なのかもしれない」
「なら王族の許可なしじゃ無理だ」
それは、分かっていたことだが改めて聞くと重みを持ってエリクの中に響いた。沈黙してしまった男にハーヴは肩を竦める。
「レウティシア様は今、留守がちだ。カンデラで禁呪絡みの事件があってな。その後始末でロズサークの王とやりあってる」
「知ってるよ」
「本当か? 公にはされてない情報なんだが凄いな。
 ―――― まぁ、そんなわけで頼むとしたら陛下だ。俺が頼んでもいいけど……やっぱ怪しいだろ?
 専門外にも程がある上に、多分重要機密だ。だったらお前があの娘を連れていって正面から事情を話して頼む方が可能性は高いんじゃないか」
半ば予想していた答。にもかかわらずエリクは眉を寄せるとまだ中身が入っている酒盃を置いた。
テーブルに陶器の触れ合う音がやけにはっきりと部屋に響く。
「僕が一緒だと、彼女の立場が悪くなるよ」
その返答もまた、ハーヴには予想されていたのだろう。彼は動じることなくエリクの盃に穏やかなほどゆっくりと酒を注ぎ足した。
「そんなこともないだろう。陛下はお前の顔をご存じないし、覚えてらしても今更どうこうはされない。そういう方だ。
 それよりお前は……あの娘についててやった方がいいんじゃないか? 身寄りがない娘なんだろう?」
事前に手紙にて説明を受けていたハーヴは、だが雫が「どこから来たか」までは知らない。
ただずっと遠くの国から謎の転移で迷い込んでしまったのだとだけ伝えてある。そして帰る為に過去の事件を調べているのだと。
エリクは顔を顰めたまま答えない。
彼の脳裏には一瞬、雫の真っ直ぐな目が浮かんだ。彼を信頼し、努力を拒まない、実直な意志を持った目が。
―――― 本当のことを知った時、彼女はどんな顔をするのだろう。それでも彼女は変わらぬ目を自分に向けてくるのだろうか。
答は出ない。おそらく、分かっているからこそ出したくないのだ。
ハーヴは苦笑して空になった瓶を手に取る。
「まぁゆっくり考えてみてくれ。俺も出来ることはするから」
「うん。ありがとう」
それだけの応答はまるで時の浸食を受けていないかのように、二人には思える。
ハーヴはほろ苦い微笑を浮かべると「戻ってきてくれて嬉しいよ」とだけ結んだのだった。