異質と罪人 069

禁転載

振り下ろされる剣をじっと見つめていた。
それは、そこに何かしらの意味があるのかと雫が思っていたからだ。或いは唐突過ぎて恐怖することさえできなかったのかもしれない。
だが現実としては、刃は何の遠慮もなく彼女を殺す為に降ってきた。
そう理解したのは、雫の体がエリクによって後ろに引き摺られ、剣の切っ先が長いスカートの裾を掠めていった時のことである。
エリクはそのまま彼女を後ろへ突き飛ばした。雫は呆然としたまま数歩よろめいて下がる。
「―――― どういうおつもりでしょう」
彼女を庇うように王との間に立った男は、怒気を明らかなほど声に滲ませていた。
しかしラルスは軽く肩を竦めただけで平然としている。
「どうもこうも。その娘は人間ではない。排除すべき鑑賞者だ」
「彼女は人間です。この世界にいる人間と何ら変わりがない」
「どうかな。腹の中がどうなっているか裂いてみたことはないだろう? 皮の上などいくらでも取り繕える。
 そうやってあれらは長い年月を大陸に紛れ込んできているのだ。あり得ない異質は排除してしかるべきだ」
『異質』と。
そう言われて雫は震えた。
自分は異邦人だと思っていたのだ。この世界に紛れ込んで一人だと知った時に。
だが、その思いはいつしか徐々に薄らいでいった。足掻いて苦労して一歩を踏み出す、その度に少しずつこの世界に馴染んでいっている気がしていたのだ。
けれど再びその事実は彼女の前に現れる。排除という、冷徹な意志を伴って。
「彼女を殺して、ただの人間であったらどうされるのです」
「殺さずにいて、大陸が縛され続けたらどうする?」
「彼女にそんな力はない!」
彼ら二人が何を話しているのかよく分からない。
ただ分かることは、王は雫を殺そうとしている、それだけであった。
ラルスの青い瞳が彼女を捉える。そこに、今まで見たどの目よりも鋭利な意を感じ取って雫は戦慄した。全身が急速に冷えていく。
王は剣を手に踏み出した。それをエリクが遮る。振り向かぬままの彼の声が雫を叩いた。
「雫、行け」
「エ、エリク……」
「行け。僕は平気だから」
反論を許さぬ口調に雫は唇を噛む。もう一度王を見やると、彼は雫を人ならざるものを見る目で見据えていた。言いようのない気分の悪さがこみ上げてくる。
「王は僕には手をかけない。いいから行け」
三度目の命に雫はようやく動いた。
この場で「人ではない」と思われているのは、異質なのは彼女だけなのだ。信じられなくともそれが事実だ。
だから、逃げなければならない。死にたくなければ王の手の届くところから離れなければいけない。彼女は躊躇いながらも踵を返す。
雫はエリクを振り返りながら扉に向って駆け出した。ラルスは焦る様子もなく彼女を見やって、そして自分の目の前に立つ魔法士を見下ろす。
「情に惑わされ真実を見誤るな。そこを退け」
「退けません。誤っているのは貴方の方だ」
彼女は扉に手をかけ、力いっぱい手前に引く。外にいた兵士は中の話が聞こえていなかったのだろう。怪訝な目で雫を一瞥した。
隙間をすり抜ける彼女の背に、王の声が届く。
「退け。そうしてまた罪を重ねる気か? ……かつて禁呪に与せし魔法士よ」
雫はもう振り返らない。長い廊下を走り出す。
来た道を戻って、遠くへ。何処かへ。
壮麗な城。磨かれた床。
だが彼女にとってそれは、まるで捩れた廊下を逃げているかのように思えたのだった。

ファルサスに着いたら道が開けるのではないかと思っていた。
だが、実際に待っていたのは意味の分からぬ死だけだ。
雫はエリクとも離れ一人、真っ暗な中に放り出されてしまったかのような激しい動揺を味わう。
このまま何処へ逃げればいいのだろう。城を出て、ファルサスを出て、何処かへ?
そうしてそのままこの世界の片隅で怯えながらひっそりと暮らすのか。命だけを守って、他のものを捨てて。
廊下の向こうに兵士が見える。彼らは雫を見て表情を変えた。進路を遮ろうと手を広げる。
だが彼女はその腕を避けて廊下を曲がった。誰何の声を無視して走り続ける。
早く城を出なければならない。王が追っ手をかける前に。門が閉ざされる前に。
雫は廊下の曲がり角に出る。そこには大きな窓があって、硝子の向こうに城壁が見えた。城壁に上る為の階段が敷地内へと続いている。
高い壁は綺麗に作られた箱庭を連想させた。それは彼女などちっぽけな虫であるかのように嘲って見える。
―――― 逃げて、何処へ行けるというのか。
雫は足を止める。背後を振り返る。そこには未だ追っ手の姿はない。
「……どこ行くっての……」
エリクは王に会う前にもしもの時は自分を切り捨てるように言った。だがそれはあくまで、彼が原因である場合のことだったのだ。
雫はそう理解した。だがそれでも飲み込めていなかったのだ。
そして―――― 今、王の標的となっているのは自分だ。
なのに、何処へ行くのか。
このまま逃げて、何が得られるのか。
雫はややあって深い溜息をつく。
その数秒には、長い長い時が詰め込まれている気がした。



「逃げられた?」
少女の捕縛を指示したラルスはしかし、すぐに入ってきた「彼女は一足先に城門を出て行った」という報告に眉を軽く上げた。
だが恐縮する兵士を彼は叱責するわけでもない。むしろのんびりとした口調で述懐する。
「遠くに行ったということならそれでいいのか……いや、やっぱり不味いか?
 まったく面倒なことだ。どうせ現れるのならもっと斬りやすい姿で現れてくれればよかったものを」
王は意味不明な呟きを洩らすと「ハーヴを呼べ」と命ずる。だがその命が伝わる前に、既にハーヴは事態を知って謁見室の前にやって来ていた。
彼は入室を許可されるなり王に向って深く頭を垂れる。
「陛下、この度は……」
「ああ。気にするな。お前に責はない。それよりあの娘はお前の実家に泊まっているという話だったか?」
「…………はい」
「なら兵士をつけてやるから行って捕らえろ。どんな力を持っているか分からんから、抵抗されたら無理に戦うな」
その命令を聞いてハーヴは愕然とした。一体謁見の間に何があったというのか。少なくともただの少女に向けての手配ではない。
何か誤解があるのではないか、彼はそんな期待を込めて口を開いた。
「彼女には魔力がありません。剣も使えませんし、普通の……女の子です。それ程危険な存在では……」
「確かにそう見えるな」
「では」
「反論はなしだ。お前が追えないのならば別の人間を使う」
ハーヴは主君の放つ威に限界を悟った。もう一度頭を下げて命令を受諾する。だが彼は退出する前に、もっとも気になっていたことを問うた。
「陛下、エリクのことですが」
「ああ。譲らんから拘束した。俺にあそこまで正面から噛み付いてきた人間はレティ以外では久しぶりだ。カティリアーナが気に入っていたのも分かる」
王の口調は決して不快なものではない。むしろ微かな笑みさえ浮かべていた。そのことにまずハーヴは安堵する。
これならばすぐに処罰などはされないだろう。エリクについてはその間に王妹に頼み込んで寛恕を願える。
だが、そうは思いながらもハーヴは重苦しいものを拭えなかった。いやがおうでも四年前の事件が甦る。
―――― あの時、失意の後にファルサスを去った友人。
その彼が、今度は雫を見捨てることをはたして許容できるのだろうか、と。



階段を、上っていく。
石段は塔の中、螺旋を描いて何処までも伸びていく。
いや、終わりがないはずはない。そこには明確に限界がある。
だから、その終わりに向って階段を上る。
かつて天にまで届くよう築かれ、神の怒りに触れた塔。
そこに詰まっていたのは絶望でも希望でもなく、ただ卑小なる人間の、ささやかな意思であったのだろうと思いながら。



雫の捕縛を指示したラルスのもとに、次の報告が入ってきたのは僅か二十分後のことだった。
だがそれはあまりにも予想外な内容で、さすがの冷静な王も目を丸くする。
「見張り塔を? 凄いな。どうやられたんだ?」
「そ、それが使い魔らしき魔族に叩き出されまして……単なる娘に見えたので兵は油断したと」
「外見に騙されてどうする。油断したやつらは減給だな」
王のもっともな指摘に報告に来た兵士はうなだれた。まったくもってその通りなのだ。つい普通の少女に見えて彼らは気を抜いてしまった。
そしてその一瞬の隙に、彼女は見張り塔にいた兵士を追い出し、内側からバリケードを築いて逆に彼らを閉め出してしまったのだ。
「で、その後どうなった? あの娘は何をするつもりだ」
「それが……娘は立てこもって、上から陛下をお呼びするようにと要求しております……」
「俺を?」
ラルスは青い瞳を瞠った。そのまま彼は執務室の後ろにある窓を振り返ったが、ここからでは少女が立てこもったという塔は見えない。
若き王は興味深げに中庭を見下ろした。兵士は王の背に向って頭を下げる。
「いえ、勿論こちらで始末をつけます。恐れながら狙撃の許可を頂きたく―――― 」
「俺が行こう」
「へ、陛下!?」
「指名されたのは俺だ。王が怖気づいては仕方あるまい?」
既にそれは彼の中では決定事項らしく、ラルスはアカーシアを手に立ち上がった。
その姿に、部屋にいた文官武官はそろって苦い顔をする。だが、彼は臣下たちの反応を黙殺すると、少女の待つという塔に向ったのだった。

雫は風に乱れる髪を押さえた。頭上に広がる空がとても近く感じられる。
階段は螺旋状であった為よく分からないが、今いる塔の屋上は、おおよそ四、五階建ての建物と同じくらいの高さだろうか。
城には四方の尖塔を始めもっと高い建物も幾つかあるが、あまり高すぎても地上と話が出来ない。
雫は狙撃を恐れてしゃがみこみながら、相手が来るのを待った。
「メア、つき合わせてごめんね」
王の前から逃げ出した雫は、追っ手がかかる前に一旦宿に戻ったのだ。そしてメアを連れまた全速で城に戻ってきた。
驚く兵士たちを使い魔の力を借りて退けた彼女は、手近な見張り塔を見つけると迷わずそこに立てこもった。
そして集まってきた兵士たちに王を呼ぶように叫んで、今に至っているというわけだ。
肩に止まる使い魔は主人の意図が分からないのか小首を傾げる。だが緑の目には雫を非難するような色は浮かばなかった。そのことが逆に心苦しい。
雫は緊張に鳴りそうになる歯を食いしばって空を見上げた。
思考は恐ろしい程の速度で回っているにもかかわらず、意識の上には何一つ残らない。
むしろそうやって動揺が少しずつ均されていくような気がした。
「―――― 俺を呼んだか」
忘れようのない声が響く。
男の声は遠く離れた地上からだというのに、はっきりと雫の耳にも聞き取れた。彼女は思わず身震いする。
呼んだのだから来てくれないと困る。だが、半分くらいは無視されるのではないかと思っていたのだ。
雫は王が自分の要請に応じたその理由を考えかけて、しかし勢いよくかぶりを振った。立ち上がり、塔の縁から地上を見下ろす。
男は塔の真下から傲然と彼女を見上げていた。
「王様、話があります」
「言ってみろ」
「何故、私を殺そうとするんですか」
少女の率直な問いに、王の周囲にいた人間たちは表情を強張らせる。
彼らも皆それを知らないのだ。普段は鷹揚な王が、何故何の変哲もない少女を捕らえようとしているのか分からない。
そしてそれを当の彼女も分かっていないということに、彼らは少なくない衝撃を受けた。臣下たちは真意を求めて無礼にならない程度に王の様子を窺う。
「何故、俺に聞く? お前が一番分かっていることだろう」
「分かりません。あなたは何か勘違いをしてらっしゃる。私は本当に、ただの人間です」
「だがお前は『違う』」
力のある断言。
それは雫が異世界から来たことを意味しているのだろう。確かにその通りだ。彼女はこの世界の人間ではない。
だが、雫にはどうしてもラルスがそれだけの理由で自分を殺そうとしているとは思えないのだ。
彼はエリクに『あれらは長い年月を大陸に紛れ込んできている』と言った。だが、雫がこの世界に来てからまだ半年も経っていない。
この食い違いに彼女には無視できぬ、明暗を分かつ何かを感じた。
もしかしたら彼の思う『あれ』とはまったく違うもので、彼女はそれと誤認されているだけではないのか。

「王様、私にはちゃんと家族があります。そして生まれてから十八年しか経っていない。ただここに迷い込んでしまっただけです。
 この世界のことは私の世界ではまったく知られてません。どうやって来たかも分からない。だから私、家に、帰りたいだけなんです」
「それが擬態ではないと、どう証明できる? 外から来し者とは、つまりお前は『あれ』の一つということではないか」
「私はそれを知りません」

―――― もう、ここまでだろう。
これ以上は平行線でしかない。今立っている場所を踏み越えでもしなければ。
雫はメアを肩から下ろして石の縁に移した。視界の隅に彼女に向かって弓を番える何人かの兵士が見える。
怖いという感情には、はたして限界があるのではないだろうか。少なくとも今彼女は抱える恐怖を怖いとは思えない。
むしろそれを上回る感情に支配されている。彼女を立たせるそれら感情のうちの一つは、言うなれば理不尽さへの怒りだった。
「エリクをどうしましたか、王様」
「牢に繋いだ。ここに引き立て剣を突きつければお前は下りてくるか?」
「彼を放してください」
「断る」
ラルスに譲る気がまったくないことは雫にも分かった。それは予想できていたことだ。だから、彼女はここにいる。
彼の剣の届かぬ場所から、彼と戦って傷をつけることを、結局雫は選んだのだ。
「王様、もう一度お願いします。エリクを放してください。私はただの人間で、彼は私を助けてくれたんです」
「ならばあの男も同罪だ。共に葬ってやれば満足するか?」
「……ふざけんな」
雫の罵倒は呟きでしかなかった。だからラルスまでは届かない。そして代わりに彼女は―――― 石の縁の上によじ登った。
何も支えるものがない塔の上から僅かに瞠目する男を雫は冷ややかに見下ろす。
「王よ。あなたは仰いましたよね? 『腹の中がどうなっているのか分からない。皮の上など取り繕える』と。
 だから、証明してさしあげます。私が本当に人間だってことを。
 その代わり、あなたは汚名を負ってください。あなたはこれで、武器も何も持たないただの小娘を殺した王になるんです」



何処にも逃げ場がない。
そう思った彼女が出した結論は戦うことだった。
だが、彼女には何の力もない。まず正面からかかっていってもあの王には勝てないであろうし、ましてや知で勝負してどうこうできるとは思えなかった。
しかも彼女は急がなければならない。エリクはおそらく王のところにいるのだから。間に合ううちに決着をつけなければ。
そうして雫が出した結論は―――― 自分の命を、武器として使うことだった。
「そこから飛び降りるというのか? 面白いことを言う」
ラルスは何の動揺もなく、むしろ楽しむかのような目で雫を見上げた。彼女はその視線に対極の目を以って返す。
怖いと言ったら怖い。
悔しいと言ったら悔しいのだ。
だが、不思議と心の中は今、とても静かだ。
ただ少し泣きたいだけ。
だがそれも、瑣末でしかない。
今彼女を支えているものは、もっと根源的で人間的な何かだ。
そして、不理解への怒り。そんなものでしかない。
けれどそれで充分だった。
それだけで、人は時に命さえ賭けられる。
「王様、私は死にたくないです。…………でも、それ以上に怒っています。
 あなたは私を何だか訳の分からないものだと言う。そうやって私を殺して闇に葬る気ですか?
 もしそれで私が人であったら、あなたが間違っていたならどうするのです」
「可能性があるならそれを無視はできない。それに、お前はとても疑わしい存在だ。それくらいは自分でも分かるだろう?」
「ええ。分かります」
王として、おそらく彼の判断は間違っていないのだろう。彼の思う『あれ』が何らかの脅威であるならば。
だが、雫にしか分からないこともある。
彼女が―――― 本当にただの人間でしかないという事実は、厳然として確かに存在しているのだ。

雫は王を真っ直ぐに見下ろす。少女の落ち着いた貌は人形のように彼の目には映った。ただ、双眸だけが挑むように燃えている。
その瞳に心地よささえ覚えてラルスは笑みを浮かべた。彼女の声は鈴のように距離を貫いて下まで届く。
「ですから、気の済むまで調べてください。飛び散った血も肉も好きに集めてください。
 そうして私が何であるか最後まで調べて、本当に人間であったなら……あなたは負けを認めてエリクを放してください」
王にとっては、彼女一人の死など何の痛痒も感じないほどに軽いものであるのかもしれない。
たとえ無実の少女を死に至らしめたとしても、それがよくないことであろうと、彼はより多くの民の生と死を常に負っているのだ。
けれど雫は、自分の命が数百万のうちの一でしかなくとも、それは零では決してないとまた思う。
無数の傷の中の一つで構わない。
そこに全てを賭けていい。
負けて死にたくないのだ。何もできぬまま終わりたくない。
だからこそ彼女は矜持によって命を使う。
そこには常に後悔がつきまとうのだと分かっていても、最早迷いはなかった。

「俺の負けと?」
「ええ。私の勝ちです」
「それで死んでもか?」
「私が死んでも」
「面白い」

王は笑う。
強者の笑みだ、と雫は思った。人の弱さを見抜く瞳。だからこそ怯むことはできない。屈することはしたくなかった。
「まるで人間のようなことを言う」
「人間ですから」
「ならば証明してみろ」
揺るがない言葉。
雫は目を閉じる。
そう言うだろうと思った。
口先だけの抗弁に動く相手ではないと。
彼女は微笑む。
人の本質は、彼女にとってはいつも最後には精神なのだ。

怖い、けれど、怖くない。
悔しい、けど、悔しくない。
泣きたくて泣きたくなくて、生きたくて死にたくなくて。
けれどいつかは死ななければならないのなら。
それを選び取るもまた人の自由だ。
死ぬために死ぬのではない。勝つための一手。
雫は王を見つめる。
他のことは考えない。今は彼だけを思う。
有限の世界。
捩れた視界。
人は終わりには独り。
生まれた時に分かたれた。
けれどそれは――――
雫は思考を打ち切る。
そして、少し苦笑して…………王から目を逸らさぬまま塔を蹴った。