異質と罪人 070

禁転載

ばらばらになった。
その破片は、人の中に。そうしてまだどこまでも広がっている。
気づかれないのだ。
この世界にとっては、とても当たり前のことだから。
だから、逃げられなくて、戦えなくて、なんて不自由な自由。
でもそれは、そんなものは、結局人を



「飛び降り自殺は嫌だなぁ。痛そうじゃん」
「ある程度の高さがあれば途中で気絶したりするらしいよ。お姉ちゃんは絶叫系乗らないし、気絶できるんじゃない?」
「何で、私が飛び降りすること前提になってんの!?」
雫の叫びに、妹の澪は読んでいた本から顔を上げぬまま「だって自分で痛そうって言ったじゃん」ともっともな答を返してきた。
年の割りにドライな妹に雫は顔を顰める。
二人でぼんやり過ごす休日、何となく「どの死に方が一番苦しくないか」などという物騒な話題になったのは、テレビで似た話題が出ていたからだ。
本を読んでいる澪と並んでソファに座っている雫は「首吊りって苦しいんだね」から始めて、ぼんやりと画面の中の芸能人の言葉をなぞっていた。
それに端から妹が現実的な相槌を打っていく。これに今は不在の姉の的を外した感想が加わると、水瀬家ではいつもの光景になるのだ。
「いやー、死ぬの怖いよ。私は安楽死希望」
「お姉ちゃん、安楽死と自然死を間違ってない? 字面だけで判断してるでしょ」
「え?」
何か間違っているのだろうか。改めて澪に聞こうとした雫は、けれど妹が本を閉じて急に自分を見返してきたことでその言葉を飲み込んだ。
澪の、それだけは姉妹でよく似ている大きな瞳が雫を見つめる。
「お姉ちゃんは自殺しないから、無用な心配だよ」
「そ、そう?」
「だって死にたくないんでしょ」
「死にたくないさ!」

―――― そう、言っていたのに。



体が、痺れる。
指を少し動かしただけで激痛が走った。雫は声にならない叫び声を上げる。
痛い。苦しい。怖い。
腕があげられない。足が動かない。
痛い。
血の臭いがする。気のせいだろうか。
分からない。
痛い。
苦しい。
入ってこないで。
気持ち悪い。
助けて。
助けて。
「…………お、かあ、さん」
「大丈夫」
女の声。
誰かの手が、額に触れる。
優しく髪を撫でる。
それだけのことが、とても嬉しくて。
そして彼女の意識は再び闇に沈んだ。



「…………とうに、貴方は! 悪趣味です!」
「疑わしきはとことん疑うのが俺の趣味だ」
「趣味であのように普通の娘を殺そうとしたのですか!? 正気を疑います!」
「これが正気。ちゃんと助けたじゃないか。中身は人間みたいに見えたからな」
「正真正銘人間でしたよ! 血も骨も内臓も調べました!」
「あまり怒ると皺になるぞ」
雫が目を覚ましたのは、訳の分からぬ言い争いがすぐ傍から聞こえてきた為だ。
のらくらとかわす男に、女が厳しい声を上げる度に頭が痛む。雫はうっすら目を開けると若草色の天井を見つめた。
最近の病院は目に優しい壁紙を採用しているのだろうか。それにしては随分華やかな装飾が施されている気がする。
彼女は首を動かして声のする方を見やった。
そこにいるのは若い男女。男の方は椅子に座って雫を眺めている。その彼に食って掛かっているのは長い黒髪の女だった。
寝台に背を向けている女を、だが何処かで見た事がある気がして雫は記憶の中を探る。
けれどその答を見つけるより先に、男が雫を指して「起きたぞ」と言った。
女は慌てて枕元に駆け寄ってくる。振り返ったその容姿は、同性でも思わず見惚れてしまうくらい美しいものだった。
たとえて言うなら月下に咲く白い華のような静謐な美貌。宝石のような青い瞳を雫は見上げる。
「ええと……雫、だったかしら。具合はどう?」
「……ぼんやりします……」
「血が足りないのかもしれないわ。怪我は治してあるけれど、今日一日は安静にしていて」
「はい……」
ちっとも頭がはっきりしない。雫は顔にかかる髪をよけようとして違和感に気づいた。
目を丸くして、自分で自分の体を確かめる。
シーツのような白い布。それが掛けられた下の雫の体は、何も着ていない裸だったのだ。思わず彼女は硬直する。
「どうかした? どこか痛むのかしら」
「いえ、そうではなくて、服は……」
服を着たいです、と言おうとした雫をいつの間に隣に来ていたのか上から男が覗き込む。それが誰だか分かった雫は表情を変えた。
ラルスは感情の読めない笑みで彼女を見据える。雫は本当は起き上がりたかったが、服を着ていないのと体の節々が痛む為、それを諦めて男を睨んだ。
「私が生きてるってことは……負けを認めたんですか、王様」
「さて? とりあえずは留保期間だ。お前の思い切りがいいせいで皆に顰蹙を買ったからな」
「当然ですわ、兄上。少しは頭をお冷やしになってください」
女の冷ややかな相槌に、雫はようやく彼女を何処で見たのか思い出した。
カンデラの転移陣の広間。そこですれちがったファルサス王妹が彼女なのだ。雫は王族二人を前に息を飲む。
王は彼女の態度に薄く笑った。
「が、俺は疑り深くて仕方ない人間だ。毎日出される料理にこっそり人参が混入されていないかいつも疑っているくらいだ」
「そういうことを他言なさらないでください。恥ずかしい」
「というわけで、まだ信じていない」
「そうですか。私と人参を同列に語らないでください」
「だからお前は…………俺の愛妾になるか?」
レウティシアと雫、それぞれの突っ込みを無視して続けられた言葉に、女二人は沈黙する。
そして意味の分からない言葉をゆっくり咀嚼した後、彼女たち二人は揃って
「このド変態!」
「あ、阿呆か!」
と叫び声を上げたのだった。

見張り塔から飛び降りた雫を受け止めたのは、王に無言での指図を受けた魔法士だった。
だがそれでもせいぜい落下の衝撃を和らげ頭部を庇う程度のもので、雫は命に関わるほどではないが、地面に打ち付けられあちこち骨を砕く大怪我をしたらしい。「広範囲に血が飛び散っていた」という話を後から聞いて、まったく記憶のない雫はぞっと青くなったほどだ。
重傷を負った彼女はその後、丁度城に戻った王妹レウティシアの手によって治療された。その際に体を隅々まで調べられたのだという。
そして出された結論は勿論―――― 彼女は「ただの人間」というものであった。

入浴をして簡易なワンピースに着替えた雫は深く息を吐き出した。椅子に座ると髪を乾かす為にメアが飛んでくる。
濡れた髪を梳く使い魔の少女に雫は礼を言いながら、疲労感の濃い体から力を抜いた。
この城において、彼女は見つかったらすぐに殺されるという立場からは何とか逃れでたが、今のところ被疑者扱いである。
もっとも疑っているのはどうやら王一人らしいのだが、最高権力者に疑われていてはどうにもできない。
彼女はその為、この城に軟禁されながら見張られ続けるという状況を負うことになった。王仕えの女官として。
ラルスはそれを初め、愛妾として、と言い出したのだが、雫は断固拒否した。そしてレウティシアも兄を怒った。
女二人から徹底的な反発にあった王は「子を産ませてみれば分かりやすいと思ったんだが」と白々と言うと、代案として雫に側仕えをすることを命じたのだ。

「エリクはどうしているんでしょう。会えませんか」
王が去ってからそう尋ねた時、レウティシアは何とも言えない苦笑を浮かべた。
「別の場所に軟禁中。実はね、貴女よりも彼の方が表向きは罪が重いのよ。叛逆の一歩手前だったそうだから」
「……え」
「でも兄の方が悪いってのも皆知ってるから。今のところ行動は制限されてるけれど不自由はないはず。心配しないで」
それでもやはりエリクには会えないらしい。
雫は安堵と落胆の入り混じった思いを抱えて、一日の休息を手に入れた。
「禁呪って……言ってたよね、王様」
あの時、雫を逃がすために立ちはだかったエリクに向って、ラルスは「禁呪に与した魔法士」と言ったのだ。
その場にいなかったメアには分からない。だが、雫はその言葉をちゃんと覚えていた。
カンデラではあれ程禁呪に対し嫌悪感を示していた彼が、かつて禁呪に関わったというのは本当のことなのだろうか。
考えてはみたもののどうも上手く想像できない。そもそも雫は彼の過去についてまったく知らないままなのだ。
どうやらエリクはレウティシアとも面識があったようだが、それについても本人のいないところで知りたがるのは失礼に思えて、彼女は何も聞かなかった。
そして―――― 気になることは他にも多々ある。
ラルスの言う『あれ』とは何なのか。二百四十年前の事件の真相はどうなっているのか。
何だか謎がいっぱいだ。考え始めると気が遠くなる。雫は目を閉じて溜息をついた。
だが全てはまだこれからだろう。折角生きていられたのだ。しかも王に少しだけ妥協をさせた。
だから足掻いていけばいつか手が届くかもしれない。欲しかったもの、帰りたい場所へと。
彼女は髪を乾かしてもらうと、疲れきった体を再び寝台に横たえる。
きっと今夜は夢も見ない。そんな予感がした。

ハーヴは見張りの兵士に軽く手を振って、部屋の扉を叩いた。遅れて中から返事が聞こえる。彼は苦笑混じりに扉を開けた。
「あの子、助かったらしいぞ」
開口一番に相手が聞きたかったであろうことを教えてやると、窓辺に座っていた男は「そう」とだけ答えた。
「お前も無茶だがあの子も無茶だ。王に啖呵切って塔から飛び降りた人間なんて初めて見たよ」
「そういうところが頑固なんだ。怒らせると何するか分からなくて怖いよ」
エリクの声は平坦ではあったが、大分落ち着いたものである。
雫が塔から飛び降りたと伝えた時は射竦めるような眼で見られてぎょっとしたものだが、それも一瞬の波のように今は消え去っていた。
「とりあえずは陛下の側仕えだと。ていのいい監視だな。あの子の何がおかしいのか、俺にはわからんよ」
「僕にも分からない。けど…………『外部者』って何か知ってる?」
「外部者? 部外者ってことか?」
やっぱり知らないらしきハーヴの反応にエリクは眉を寄せる。
どうにも真相が掴めない。ということは王族のみが知っている機密の一つなのだろうか。
ファルサスは歴史も長く王族自身に力があるせいか、公にされていない資料が他国と比べても多い。
特に六十年前の王族同士の内紛に関わる出来事についてはほとんどが封印資料だ。
これら封印資料を閲覧するには王族の許可か同伴が必要となる。そして今、直系のファルサス王族とされているのは王と王妹の二人しかいなかった。
こんなことなら、もっと彼女に頼んで調べ物をしておけばよかった、そう思いかけてエリクは自嘲を浮かべる。
馬鹿げた空想だ。もし時が戻るのだとしても、一介の魔法士が封印資料を見ることなど出来うるはずがないし、第一彼女はもういないのだ。
―――― カティリアーナ・ティル・ロサ・ファルサスは死んだ。
誰よりも彼はそのことをよく知っている人間なのだから。