異質と罪人 072

禁転載

夢の中でのことは外には持ち出せない。
そしてもっと深くに在るものは夢の中でさえ疑えない。
気づいてはいけないと、それは絶えず彼女を支配する。
気づいてしまえば最早、守れなくなってしまうのだからと。



脇腹がねじ切れそうに痛い。雫は左手を腹にあてながら感覚のあまりない両足を意思だけで前に動かした。
喉がカラカラと乾いて苦しい。息が上手く出来ない。心臓が破裂しそうな程叫びを上げて、その痛みにもう崩れ落ちてしまいたかった。
両側に木の植えられた細い道を雫は曲がる。
角の日陰に差し掛かった時、限界を感じた彼女は一本の木の影にふらふらと歩み寄った。幹に手をつくと屈みこむ。
言葉もなく胃の中の物を吐く雫に、彼女がいないことに気づいたのか男が戻ってきて声をかけた。
「もう限界か? 体力ないな」
呆れるわけでも冷ややかでもない、ラルスの淡々とした言葉に、雫はかろうじて残った意識で口には出さず「ふざけんな」と反論したのである。

その日の朝、いつも通り王の執務室に出勤した彼女は王に「走るぞ」と言われて目を丸くした。
何が何だか分からなかったが、言われた通り若い兵士が着るような麻の上下に着替えて、ラルスの後についていく。
そしてそのまま彼女は、何故か城の内周をランニングで五十周する羽目になったのだった。

「そろそろ、死にます……」
この世界に来てやたらと走り回っているせいか、自分でもジョギングをして体力をつけるようにはしていたが、それにもさすがに限界がある。
元々長距離走は非常に苦手だったのだ。その上ラルスの異常に速いペースにつきあっていては持つはずもない。
倒れる二歩手前くらいの体調に、本当は地面に転がってしまいたかったが、さすがにそれは堪えた。
代わりに力なくしゃがみこんだ雫はすぐ傍に立つ王を見上げる。
「女官ってこういうこともするんですか」
「しない。単にお前の体力を測ってみようとしているだけだ」
―――― 本当に殴りたい。
それは雫の心からの思いであったが、殴れるような力は残っていない。肩で息をつきながら彼女は足元の草を見つめた。
背筋を生温い汗が何筋も伝っていく。前髪を濡らして滴ったそれが青い草の先に落ちる様は、雫に沸々と理不尽を感じさせた。
沈黙する彼女の頭をラルスは軽く叩く。
「俺にも仕事がある。あと一周で終わりにするか」
「まだ走るんですか……」
「お前が嘘をついていないという保証はない」
疑り深い王の背中に心の中で蹴りを入れながら雫はぼろぼろの体を引き摺って走り出す。
ファルサスの上空は今日もよく晴れた青空が広がっていた。

最後の一周と言いながら、しかし到底走れる状態ではない雫は歩くような速度で足を動かしていた。
その彼女を振りきってしまっては見張りにならないと思ったのか、ラルスは一歩前を歩いていく。
不愉快は不愉快であるが、今更言っても始まらない。大体彼は雫の不愉快を何とも思わない人間なのだ。
ならば徹底的に振りかかってくる「苛め」とやらを受けて立つしかない。
こうして彼女は日々悪態をつきながらも、気まぐれにしか見えない王につきあって、脈絡のないテストに絶えず直面し続けていた。
二人は無言のまま城の裏手にさしかかる。
城壁と雑木林の間の小道を黙々と進みながら、ふと視界の左方向、林の中にある白い建物を指差して雫は口を開いた。
「あれ、何ですか」
先ほどからずっと気になっていたのだ。倉庫というよりは神殿を彷彿とさせる壮麗な建物。
大して大きくはない。ちょっとした小屋くらいだろうか。真四角の建物には窓がなく、扉があるとしたら反対側であろう。
ラルスは雫の指先を追って、その建物に視線を移した。
「王家の霊廟だ。代々の王と妃の棺が安置されている」
「骨壷じゃないんですね。土葬ですか?」
「正確には土に埋めるわけではないが、遺体をどうこうはしない。綺麗にして棺に入れるだけだ」
息が大分落ち着いてきた雫はラルスの返答に頷いた。ほとんど力の入らない足をそれでも前に出す。
確かラルスは第三十代の王だったはずだ。ならば単純に考えて安置されている棺は五十八個以下だろう。
あの大きさの建物に骨壷ならともかく棺が五十八個も入るとは思えないから、おそらく安置所は地下にでも広がっているに違いない。
この世界に幽霊はいないと知っているせいか、雫は何の恐れもなく白い建物を見つめた。
「王様もその内あそこに安置ですか」
「そうだろうな。そろそろ中を広げなければ、棺が場所を取って仕方ない」
「燃やして骨だけ安置すれば省スペースですよ。うちはそうです」
「火葬を通例にすれば毒殺された時に証拠隠滅される恐れがあるから無理だ」
ラルスの返答はさらっとしたものであったので、瞬間雫は聞き逃しそうになった。だがすぐに物騒な内容に躓いて、彼女は一歩先を行く男を見上げる。
―――― 王とはつまり、そういった危険にさらされ続けて生きていく人間のことなのだろう。
彼女にとっては遠く現実味のない話。だがこの男にとってはそれが当たり前の世界でしかないのだ。
雫は自然と眉根を寄せてしまう。
ラルスのことはまったく好きになれないが、彼を取り巻く常識はそれを差し引いても何だか腑に落ちない窮屈なものに思えた。
無意識のうちに深く溜息をつくと、その気配で気づいたのか王は沈黙した少女を振り返る。
「どうした。話す余裕があるなら走れ」
「走りますとも、サド王」
だがまずは自分のことだろう。ラルスに対して何かを思っている余裕などはない。それは彼にも雫にも必要のないものだ。
彼女は両手を軽く握るとゆっくり走り出す。
走り終えた後の昼食は、限界まで体を酷使したせいかとても食べる気にはなれなかった。

「ド変態のドサド」
ぼそっと呟かれた言葉は手元のパンケーキ生地に溶け込んで消えていく。
左腕に抱きかかえたボウルの中身を、彼女は親の仇にように力を込めてかき混ぜていた。
雫が誰に対して腹を立てているのか、勿論城の人間なら誰でも知っている。
今日もランニングをする二人とすれ違った武官が、気の毒そうな目で彼女を見ていたくらいだ。
何処から見てもただの少女にしか見えない雫を「何だかよく分からない敵」と思っているらしいラルスの仕打ちは、女官になってから二週間、未だ止む事がない。 先日などは無理矢理剣で手合わせをさせられて、あちこちに打撲が出来てしまった程だ。それら打ち身は話を聞いたレウティシアが治してくれたものの、赤黒い痣はまだまだ消えないでいる。
一体いつまでやれば気が済むのか。とりあえず彼が納得するまで自分が無事でいられるか、雫はいまいち自信がなかった。
何とか状況を変えたいとは思っているのだが、王の攻勢に追われて有効打を思いつかない。
それにしてもファルサス王は王剣の剣士と言うだけあって、身体的にはかなり鍛えられているようである。
雫に鬼のしごきをしている間、ラルスも大抵同じことをしているのだが、彼の息が上がっているところなど見たことがない。
もっとも運動が得意でない文系女子大生と剣士である王が同程度の身体能力であったら甚だ問題であろう。
いつか仕返しをしてやりたいとは思っているのだが、この様子では肉体的に痛い目を見せるのは無理かもしれない。
―――― そういう訳で、今彼女は「これ」を作っているのだ。

狐色に焼きあがったパンケーキは甘い香を漂わせている。
雫はその上に満遍なくバターを塗った。本当はメープルシロップでもかけたいのだが、この世界では見かけないのだから仕方ない。
冷めないうちにと盆に乗せて、彼女は王の執務室へと向った。「入りますよ、王様」と声をかけて扉を押し開ける。
「何だそれは」
「おやつです」
愛想のかけらもない態度で雫はラルスの前に皿を押し出した。真円に近いパンケーキを王は目を細めて見やる。
「お前が作ったのか?」
「そうです。恨みしか入っていないんで、安心して食べてください」
「どう見ても小麦粉は入っているだろう」
ラルスは言いながらもナイフを手に取った。ふんわりと膨らんだパンケーキを切り取って口に運ぶ。その様を雫はじっと見つめた。
あまり見ては不自然さに気づかれるだろうと思い、いつも通りを強く意識する。
王は単なるパンケーキを品のある所作で咀嚼し、嚥下した。一拍置いて顔を上げる。
「人参を入れたな?」
「何で分かったの!?」
「丸分かりだ。人参の味がする」
「小指くらいのをすりおろして入れたのに!」
「甘い。それくらいで誤魔化せると思ったか」
一口で看破された雫は唸り声を上げた。まさかここまであっさりと人参を嗅ぎつけるとは思わなかったのだ。
ほどほどに食べ進んでから暴露してやろうと思っていた彼女は、早くも仕返しが失敗したことにがっくりと肩を落とす。
「大体、日頃あれだけ俺を睨んでおいて料理を作ってくるとは疑えと言っているようなものだ。
 意趣返しをするつもりならもう少し捻りを入れろ」
「分かりやすくてすみませんね!」
「まったくだ。次は改善しろ」
ラルスは言い捨てると次の一切れを口に運んだ。その光景に雫は唖然としてしまう。
何故人参が入っていると分かっているのに食べるのか。彼は平然とした表情のまま食べ進み、パンケーキは半円になった。
そこでようやく彼はナイフを置くと皿を前に押し出す。
「もう限界だ。あとはお前が食べろ」
「人参、そんなに嫌いじゃないの?」
「嫌いだが、七年ぶりに食べたからな……。食べられるかと思ったがやっぱり嫌いだ」
「リタイアしてよかったのに」
少なくとも彼女の方は、皿を投げられることさえ念頭に置いていたのだ。
拍子抜けして皿を受け取ると、雫は執務室の隅のテーブルに移って自作のパンケーキを食べ始めた。
口の中に広がる味は甘くふんわりしたもので、少なくとも彼女には人参の味はまったく感じられない。
昼食を食べていないこともあって、雫は残りのパンケーキを問題なく胃に収めた。
机に頬杖をついてその様子を眺めていたラルスは、雫が皿を盆に戻すと口を開く。
「お前の世界では人の精神を何と考える?」
「精神? 何ですか、また急に」
「いいから答えろ。明日も走らせるぞ」
「ちょっと待ってください! 答えますから」
あれが日課になるのは御免だ。雫は慌てて意識を切り替えると少し考え込んだ。逆にラルスに問う。
「この世界では、人間は肉体、精神、魂から成ると考えられているんですよね? そういう意味での話ですか?」
「よく知っているな。そんなことを知っているのは一部の学者や魔法士だけだぞ」
「エリクに聞きました」
王は納得したのか頷いた。「そういう意味での話だが、こちらの常識に囚われなくていい」と返してくる。
雫の世界において……と尋ねられたのなら元の世界特有のことを期待して聞かれているのだろう。
彼女は、大学でもされたことのない端的で、だからこそ難しい問題に頭を捻った。
しばらく悩んだ後にようやく自分の思考を整理しつつ答え始める。
「私の世界では、大雑把に分けて学問は文系と理系に分けられるんです。ですからその二つで精神へのアプローチは異なってきます」
「アプローチ? それはどう違う?」
「私は文系の上、若輩なんで話半分で聞いてくださいね……。理系は主に精神を肉体との関係において解明しようとしています。
 脳……って分かりますか?」
「ああ。頭に入っているやつだろう? 思考の器官だな」
「そうです。私の世界では、肉体の一部である脳を研究することで、感情が発生するメカニズム――――
 つまり脳内にどのような物質が生まれると、人にどのような感情や気分が生じるのか。
 こういった仕組みを解き明かし、投薬などによりその物質をコントロールすることで精神病の治療を試みています」
その話を聞いた時のラルスの顔は中々見物であった。目を丸くした男を雫は苦笑を浮かべて見やる。
「感情が、物質で生じているのか?」
「そうです。でも、そう不思議なことではないでしょう? 血も肉も物質ですし、人間はそもそも物質によって形成されているんですから」
それは、覆しようのない大前提だ。
ラルスは一瞬飲み込めなそうな顔をしたが、雫の視線に気づいたのか表情を押し隠した。「続けろ」とだけ口にする。
雫はまた少し沈黙し、考えをまとめると話を再開した。
「ただ、そういった物質的な仕組みが判明したのは最近のことで、まだまだ分からないことがいっぱいです。
 一方、文系のアプローチは宗教や哲学などから始まり二千年を越える歴史があります。私の専門はこっちですね。
 この世界の思想と通じあえそうなのはこっちで、魂を論じるのもこっちです」
「魂は物質ではないのか?」
「分かりません。該当する物質が見つかっていないだけなのかもしれませんが、魂とは概念でしかないという考え方の方が主流だと思います」
「魂は在るぞ。禁呪の中には人の魂を消費して強大な力を得るものがあるからな」
再び耳にした「禁呪」の単語に雫は息を止める。
その単語はカンデラでの忌まわしい記憶と共に、エリクについての不安を抱かせるからだ。
彼の過去には何があるのか。それは本当に禁呪と関係しているのか。
靄のように広がる落ち着かなさに雫は表情を曇らせる。
考えても出るはずのない答を、しかしラルスに聞こうとは彼女は思わなかった。

俯き加減になった少女に気づいた王は、その理由が何であるか分かったらしい。「気になるなら本人に聞け」と何ということのないように言ってきた。
「本人に聞いていいものかどうか分かりませんし。大体強制労働で会わせてくれないの王様じゃないですか」
「ちゃんと給金は払ってるぞ。あいつもお前もな」
「私にも出てるんですか!?」
それは初耳である。大体雫の手元には何も支払われていないのだ。だから彼女は今まで、労働と苛めは衣食住と相殺されているのだろうと思っていた。
もっとも給金についてはまだ一月も経っていないのだから、彼がそう言うのなら単に支払日になっていないだけであろう。
呆気に取られた彼女に、ラルスは当然のような態度で「働かせている代価を払うのは当たり前だ」と返してくる。
「王様、暴君なのにきっちりしてるんですね……」
「俺を暴君と言った人間はお前が初めてだ」
「私に対しては充分過ぎるくらい暴君です」
「まっとうに苛めているだけだ」
「開き直らないで下さい」
苛めているという自覚があるなら改善して欲しいが、彼の中では彼女は「人ではない」と疑われているのだからどうしようもない。
喉まで悪態が出かかった雫はけれど、王に無言で話の続行を促され、それを飲み込んだ。
「……私が勉強している分野では精神とは時代や人によって多様な定義がされています。その全部なんて覚えてませんし、説明も出来ませんよ」
「ならお前自身はどう思っている?」
「人を人たらしめる本質だと思っています」
即答にラルスは驚きはしなかったが、僅かに表情を変えた。男は何もかもを見透かすような強い目でじっと雫を注視してくる。
だがその視線に気圧されたりはしない。彼女は茶色がかった黒い瞳を軽く伏せただけで、それは王に怯んだからではなかった。
「人間を単なる動物から人として分け隔てるものこそが精神だと、私は思います。
 知性、理性、感情、意思、こういったものを持ち得るということが何よりも人間に与えられた可能性であり、
 現にそれを働かせているという状態が人であると……違いますか?」
「動物にも感情や意思はあるのではないか?」
「でも、理性はありません。理性に従うか否かはともかく、理性の有無によって感情や意思も影響を受けます。
 理性と感情の間で煩悶を抱き、意思に矜持を持つ。これもまた人の姿だと思います」
「理性を持たない人間は動物か?」
「自ら理性を退けるのなら。少なくとも、人ではありませんね」
辛辣とも言える少女の断言に、ラルスは楽しそうに笑った。何が気に入ったのかは分からないが実に機嫌がよく見える。
何故この男とこんな問答をしなければならないのか。雫は胡散臭げな目で王を見やった。
「王様、こういう話がしたいなら私の本取って来ていいですか。色々持ってきてるんで」
「駄目だ。お前がお前の言葉で話すんだ」
「口頭試問!?」
「宮廷魔法士は一応こういう審査もするらしい。俺はレティに任せきりだから分からんが」
「私のことも放っておいて下さると、とっても嬉しいです」
雫は盆を手に立ち上がる。これ以上ここに留まっていても何かいいことがあるとは思えない。議論は決して嫌いではないが、この男は嫌いだ。
しかし、「皿を片付けてきますね」と扉に手をかけた彼女の背にはラルスの問いがかけられた。
「だがその精神もお前の言うことが本当ならば、物質によって作られるものに過ぎないのだろう?
 なのにお前はそのままのやり方で学んでいて、何かが得られると思っているのか?」
決して揶揄するわけではない、だが無視もできぬ言葉。その質問は、彼女が常に浴び続けるものだ。「学んで、何になるのか」と。
答の出ない議論を繰り返して何になるのかと、人の神秘は生化学によって明確に解き明かされつつあるではないかと、問う人もいる。
だから雫は振り返って真っ直ぐにラルスを見つめた。そこに好悪の感情はない。
「王様、『原因』って複数あるじゃないですか。
 感情が物質によって作られるのだとしても、それは体内での原因の一つであって、人が何によって何を感じ何を考えたのかは、また別の問題です。
 だから……人ってまだまだ不思議でいっぱいですよ。勉強も楽しいですしやめる気はありません。
 それに、役に立たないことって面白くないですか?」
無駄で終わるのだとしても面白いのだ。その在り方が綺麗だと思う。
人の思考とはこんなにも複雑で、ひたむきで、そして美しく広がるものなのかと、一つを知る度に彼女はその果てしなさを思い知る。
雫自身、まだ学問のほんの入り口に立っているに過ぎない。けれど、今でも充分過ぎるくらい楽しいのだ。
言い終わると舌を出して退出していった少女を、ラルスは引きとめもせず見送る。
そして彼は一人になると、しばらく顎に手をかけたまま何事かを考え込んでいたのだった。