異質と罪人 073

禁転載

最後の一冊は異様に薄かった。彼はそれを書棚から引き抜き、その場でぱらぱらと捲ってみる。
細かい単語まで追う必要はない。必要なことが書いてあるか否かを調べているだけなのだから。
だが、半ば予想していた通りその冊子にも彼の求めていた記述はなかった。エリクは少しだけ苦い顔で本を棚に戻す。
「なかったでしょう?」
唐突にかけられた声はよく通る女のものだ。それが誰であるか振り向かずとも分かる。彼は黙って首肯した。
「貴方は自分の目で見なければ納得しないだろうから。兄の気が済めば教えてくれると思うわ」
「どうだか。期待はできません」
「嘘をついているつもりはないのだけれど」
「あの方の気はいつ済むか分からない」
その答はレウティシアの痛いところをついたらしく、彼女は美しい顔を顰める。
ファルサスにおいて唯一王を正面から叱り飛ばせるのは血縁である彼女だけだが、「叱り飛ばせる」ということと「言うことをきいてくれる」ということは決して同じではないのだ。エリクはかつてそれをある少女からよく聞いていたのだが、実際に会ってみてラルスの厄介さに唖然とした。
世に出ている評判や、行き届いた内政からは想像しにくい冷淡な果断。
塔の上に立った雫に、彼が直接にではないが跳ぶよう促したという話を聞いた時は、さすがに忌々しさに何も言えなかった。
王家の封印資料の閲覧資格を与えられた代わりに、この書庫の整理を命じられた男は深く溜息をつく。
「教える気がないのなら早くそう言って欲しい。そうしたら彼女を連れてこの国を出て行きますから」
「それは出来ないわ」
「この資料を見たことが問題になると言うのなら、あなたが僕の記憶を消せばいいでしょう」
「簡単に言うのね。記憶操作は大変なのだけれど」
「だがあなたなら可能なはずだ」
遠慮ない切り替えしにレウティシアは苦笑して両手を軽く上げた。
狭い部屋、だがびっしりと壁を埋め尽くす資料の数々を見回して彼女は苦笑を収める。
「閲覧許可を出したのは他にも理由があるわ。貴方はあの時のことについて納得していないと思ったから……少しは疑問が解消されたかしら」
「僕の疑問が解消されて今更意味がありますか?」
「特には。貴方の中で意味がないのなら無意味なのでしょうね」
レウティシアの微笑みには一瞬断裂が生まれ、その先に冷え切った夜に似たものが窺えた。
しかしそれを見てもエリクは表情を変えない。彼は書庫を整理する為に棚に向き直る。優美な強者の声が狭い部屋に響いた。
「ここの仕事が終わったら、次はカンデラの禁呪事件について調査書を纏めて頂戴」
「何故僕が? 事後処理に行ってもいないのに」
「貴方、あそこにいたのでしょう? 採用書類が残っていたし、何より地下に魔法陣が残っていたわ。誰が描いたかすぐに分かるものがね」
予想はしていたがお見通しの答にエリクは軽く手を挙げて了承を示した。しかし、口に出してはまったく別のことを問う。
「そう言えば六十年前の事件……記録を見るとそこに端を発した王族の闘争には、二十五年に渡って断続的にある男が関わっていますね。
 その男の名前や素性については記載されていませんが、彼は一時的にせよ王家の精霊を使役していた―――― つまりは、ファルサス直系ですね?
 ……この男は誰ですか」
それが、彼の知りたい何かしらに関係していると思ったわけではない。ただ不自然だと思ったから口にした。
ファルサス直系と呼ばれるのは歴代の王から五親等以内の人間たちのみであるが、この男だけは系譜の何処にもそれらしい存在はないのだ。
にもかかわらず直系しか使役が出来ないとされる王家の精霊が二体、記録では彼の命令を遂行している。
この隠された王族は誰であるのか。
それは、魔女についての記述を隠蔽したと同じ、書物には記されないファルサスの暗部の一つではないのか。
手探りでの調査で得られたこの引っ掛かりに、ファルサスに残るただ二人の直系のうち、一人はしばし沈黙した。
そのまま書庫を出て行ってしまうのではないかとエリクは思ったが、彼女は一言だけ答を返す。
つまり―――― 「それは、貴方が知りたがっていることと多分同じ」と。

「つ、疲れる……」
「そうだよね」
欄干にだらりと寄りかかる雫に相槌を打ったハーヴは、それ以上励ましも慰めもかけることができなかった。
せめてもの代わりと言っては何だが、もっていた水の瓶を彼女に差し出す。雫は礼を言ってそれを受け取った。
エリクの友人でもある彼は、不在がちなレウティシアに命じられて頻繁にこの少女の様子を見に来ているのだが、彼女が疲れていないことなどまずない。
本当は「根を上げたら連れ出してやって」とエリクにもレウティシアにも頼まれているのだが、未だに彼女は不平を零しながらも王の苛めを受けて立っていた。
手すりの向こうに上半身を投げ出しながら、雫は中庭を見下ろしてぼそりと呟く。
「これって頑張っても結果的には『やっぱ駄目』とか言われて処刑されたりしそうですよね」
「そ、そうかな」
「そしたら私のこときっちり記録に残して下さいね。隠蔽しないでください」
「俺の専門は歴史だけど、さすがに隠蔽されると思う」
「うわあああ! 身分制度ってむかつく!」
出来るならクーデターを起こしたいくらいだが、王は公人として問題ないというのが最大のネックだ。雫はようやく疲れきった体を起こした。
少女の何処か据わった目に見返されてハーヴはつい視線を逸らしてしまう。
「あー……そろそろ度を越してるし、逃げるっていうのなら相談に乗れなくもない、と思う。レウティシア様が多分取り成してくれるだろうし」
「逃げても今のところ他に手がかりがないんですよね。だからエリクはここに残っていると思うんですが」
誰が言ったはずもないのに真実を見抜いている雫にハーヴは咄嗟に口ごもった。
罰則も兼ねて彼女と引き離され、別の場所で別の仕事についている男は、今は王家の封印資料に関わっている。
レウティシアからその閲覧許可が下りたと聞いた時には正直耳を疑ったが、王妹も王妹で色々思うところがあるのだろう。
四年前、エリクがファルサスを去った時、彼女もその喪失を惜しんだ一人であったのだから。
「レウティシアさんが教えてくれましたよ。エリク、今書庫を調べてるんですよね。
 なのに当の本人が逃げ出すって、それはないですよ。そんなこと出来ません。
 私の出来ることって限られてますから……これをやるだけです」
子供にも見えるこの少女は、おそらく見た目よりはずっと強い。
そのことに気づいているのはエリクか、王か、レウティシアか。
ハーヴもそれは分かっていたはずなのだ。彼女が王に啖呵を切って塔から飛び降りた、その時に。
だがやはり目の当たりにすると辛いものがある。つい庇ってやった方がいいのではないかと思ってしまうが、彼女はそれをよしとしないのだろう。
雫は大きく伸びをすると、ハーヴに向ってほろ苦く笑った。
「へたばってたってエリクには言わないでくださいね。まだまだやれますから」
「俺はいいけど……それでいいの?」
「当ったり前です! いい加減図太くなってきましたから。その代わり私が殺されたらエリクには害がないようお願いします」
聞いた男を絶句させた彼女は、疲れきった表情のまま深々と頭を下げる。
まるで小さなその体。けれど、その時の少女は少しも憐れには見えなかったのだ。

時折、弱い方に傾きそうな自分が厭になる。
逃げたいと、楽になりたいと確かに思う自分に気づいた時など。
元の世界に帰る為にこれ程理不尽な目に遭わなければならないのなら、ワノープの町でずっと生きていた方がよかったのではないかと思うことがある。
そんな風に折れてしまいそうな自分は好きではない。最初から覚悟はしていたはずなのだ。その上で自分が旅に出ることを選択した。
だから、試されている今、逃げ出すことは出来ない。彼女の為に苦労をしているのは、いまや彼女一人ではないのだから。
そのエリクの話は、レウティシアやハーヴが定期的に伝えてくれる。
それは彼女の知りたいことではあったが、知っていいのか分からないこともまた付随していた。
一つには―――― 彼がかつて王族の少女と共にいたこと。
そして、その少女はもう生きてはいないということと、彼は彼女の死後自分でファルサスを出て行ったということ。
カティリアーナという名の少女は、ハーヴ曰く「生きてらっしゃったら君より少し年上」ということらしい。
雫は自分から彼の過去について別の人間に問うということをしないので、実際その少女とエリクがどのような関係であったのかは知らないが、 過去に何かがあった土地へと自分の為に彼を付き合わせて来てしまったという事実は、彼女の内心負っている責任をいや増した。
―――― もしかして、彼が自分の面倒を細かく見てくれていたのは、同じくらいの年の自分にその彼女と重なるところがあったからだろうか。
そんな想像は彼に失礼だとは分かっていたが、意図しない内にふっと頭を過ぎるのを抑えることは出来ない。

禁呪については、レウティシアもハーヴも口にすることはなかった。勿論雫も問わない。
ただ、エリクは非常に特殊で、優秀な人間なのだということは何度かの会話で伝わってきた。
ハーヴは彼女に対して自分のせいではない罪悪感に囚われているのか、よくエリクのことをぽつぽつと零していくので。
「あいつはね、本来魔法士になれるような人間じゃないんだよ。魔力が全然足りない。でも実際簡単なものとはいえ魔法が使えてる。
 これってどういうことだと思う?」
「え、気合ですか?」
「それはない。第一あいつ気合が心底似合わないし。
 単にね、あいつの構成力ってずば抜けてるんだよ。少ない魔力を徹底的に効率よく使って複雑な構成を組む。
 他の魔法士ならぱっと出来ちゃうものでも、あいつは複雑な構成を必要とするんだ。でもそれが出来るんだから、やっぱ勿体無いよな」
「勿体無いですか? 凄いんですよね?」
「凄いから勿体無いって思っちゃうよ。最低でも俺くらいの魔力があったらもっと上に行けたんじゃないかって思ったりね。
 でも…………こういう発想がよくないんだろうな。悪い誘惑だ」
何が悪い誘惑なのか、全てを知らない雫には分からない。
だがそれは好奇心で踏み込んでいいものには思えなくて、彼女はただ相槌を打つだけに留めた。
既にあの日から二週間も経っている。彼と話がしたいと確かに思う。
しかし、彼と自分の間にはいつの間にか、出所も正体も分からぬ影が揺らいでいる気がして、それは雫に何とも言えない不安を覚えさせるのだ。
雫の立場はこれ以上悪くはなりようがない。だが、エリクはどうなのか。
自分が処分されるのか否か、きっぱりと結果が出てしまえばすっきりするのに、と雫は思う。
それは、逃げ出したいと思う誘惑よりも遥かに甘く、彼女の心の底にゆっくりと沈殿し始めていた。