異質と罪人 074

禁転載

逃げ出してしまえばいいよ、とそれは囁く。
ここにいては死が待つだけだからと。
逃げられないよ、と彼女は言う。
逃げても何処にも行けないから、ここで戦うのだと。
でも、逃げたら、逃げないと、死んだら、どうして、追ってくる、あれが、いつも、どこまでも

 だって
 ―――― 死んでしまったら、ここに来た意味はないのに。

だが、そんな夢も思い出せはしない。
だから彼女はいつまでも逃げないままなのだ。あれの、傍から。



「お前は俺を騙す気があるのか?」
「ありません。発想を転換してみました」
思い切り人参色をしたケーキを前にラルスは唸りだしそうな顔になる。雫はそれを切り分けると王の執務机に差し出した。申し訳程度にクリームを添える。
「人参の味を誤魔化すより、人参の美味しさを分かって頂く方針に変えました。さ、食べてください」
「思い切り余計な発想だ。正面切って仕返しをする気だな」
「昨日、いきなり濠に突き落とされた時はさすがに殺意が沸きました」
「水の中で生きられるかどうか確かめてみるつもりだったんだがな」
「どう考えても無理です。やる前に気づいてください」
ラルスは思い切り苦い表情をしたものの、大人しくケーキを一口口に運ぶ。こういうところは律儀なのか何なのか分からない。
だが、そこで「食べなくてもいいですよ」と言える程、雫は達観していなかったので、冷ややかな目でそれを見守った。
王は食べるというより飲み込むと言った感じで口の中のものを胃に運ぶ。
「……人参の味がする」
「一本丸々入れましたからね。味がしなかったら大変です。醤油があったら煮物にでもしてやろうと思ったんですが」
「ショウユとは何だ」
「私の国の調味料です。この世界には味噌も鰹節もないですよね。残念」
そもそも彼女は魚をもとにした保存食品を今まで燻製以外見たことがない。
出汁が取れて醤油があれば大抵のことは何とかなる気がするのだが、そのどちらもないのでは自然と出来るものも限られてくる。
結果、雫は厨房にいる料理人に一つ一つの材料を尋ねながらうろ覚えのレシピを再現しているのだが、ラルスに食べさせることが目的なので生焼けだろうと何だろうとまったく胸は痛まない。妙に堂々とケーキを作る少女を周囲の人間は奇異な目で見ていたくらいである。
王は味については一切触れずに一口だけ食べたケーキの皿を押しやった。
「調味料も欲しいのなら作ってみればいい。ショウユの材料は何だ」
「多分、大豆……」
「それならある。ミソは」
「大豆」
「…………」
「………………」
形容し難い目で見てくるラルスが何を言いたいのかはよく分かる。彼女も今少しおかしさを感じたのだ。
だからこそ雫は先手を打って、自国を代表する二つの調味料について説明しだした。
「いえ、全然違う味。多分作り方が違うんです」
「どう違うんだ」
「そこまでは知りません……。出来上がったものを買ってたので」
「…………」
「発酵食品なんですよ! 学生が自分で作るようなものじゃありません!」
そう言い訳しながらも、無事帰れたら醤油と味噌と豆腐がどうやって出来るのか調べておこうと、雫は心に刻む。
何だか日本人であり現代人であるのに、説明できないことが多すぎて時々自分が情けなくなってしまうのだ。
一方、王はそれ以上突き詰める気はないらしい。書類仕事に戻りながら口を開いた。
「お前は今の状況を不満に思っているのだったな。俺のいいように翻弄されているのが嫌なのだと」
「非常に不満です。確かめるまでもないと思いますが」
「だがそれも俺がやっていると分かるからこそ不満に思えるだけだ。
 現に今、気づかぬうちに何かに支配され鑑賞されていたらどうする? 自分がいつの間にか実験対象となり、何者かに記録されているのだとしたら」
おかしなことを問うと、雫は思った。だが男の話には何処かで聞いたような違和感もまた覚える。
違和感の正体を掴めぬまま、彼女は唇を曲げると決まりきった答を返した。
「そりゃ腹立ちますよ。何様だって思いますね」
「そうか」
彼は唐突な質問を補足する気はないらしい。仕事を処理していく男を怪訝そうに見やって、雫は首を傾げた。
「何なんですか、一体」
「別に。そうだな……明日話してやる。今日はレティもあの男もいないからな」
あの男とはエリクのことだろうか。他に思いつく人間もいないので雫はそう受け止める。
彼がいないとは初耳だが、強制労働の一端でレウティシアから仕事を割り振られていることは知っていた。おそらくその関係で外出しているのだろう。
その面子を集めて何を話すつもりなのか、彼女はいまいち掴みかねて眉を寄せる。
「何ですか、反省会ですか?」
「反省はしない。今でもお前を殺した方が憂いがないと思っている」
予想通りの返答に雫は皮肉な笑みを見せた。もう今更これくらいのことでは動揺もしない。むしろ温情をかけられる方が怖い程だ。
「……が、レティがいい加減本気で怒っているからな。俺はあいつに弱い」
ラルスはそう言って署名をした書類を投げ出す。聞いたことのない男の声音に、雫はまじまじと王の顔を見つめた。
それは、もしかしたら彼が雫に初めて見せた本心なのかもしれない。
玉座にただ一人在る男は、やはりただ一人の妹から受けたのであろう説教に、少しふてくされたような表情をしていた。
雫は王の意外な反応に不快も忘れ色々と口にしかけたが、結局「……シスコン?」とだけ呟く。
「シスコンとは何だ」
「何でもないです。妹さんが大好きなんですね」
「大好きと言われると違う気もするが。俺の家族はあれだけだからな」
投げ返されたその言葉は、雫にもやはり姉妹のことを思い出させるものだった。彼女は自然と目を細める。
今ここで、このような目にあっていると彼女たちが知れば、姉は泣いてしまうだろう。妹は怒るかもしれない。
二人のそんな顔を想像することは、実際に自分が苛められている時よりもずっと辛く、胸が痛んだ。雫はラルスと目を合わせることを嫌って踵を返す。
「明日呼ぶまで休んでいていい」と言われて雫がほっとしたのは、単に一人になりたいからかもしれなかった。

特にやることもなく割り当てられた部屋へと向っていた雫はしかし、外庭に面した回廊に差し掛かった時、向かいからやって来る男に気づいて足を止めた。
本を脇に抱えたハーヴは彼女の傍まで来ると笑いかける。
「休憩時間?」
「もう休みみたいです。人参ケーキ出してやったのがきいたんでしょうか」
「……そんなことしたんだ。すごいね」
「たまには仕返ししないと気が狂いそうなので。苦い顔で食べてましたよ。ざまみろです」
多少の溜飲を下ろした顔で彼女が舌を出すと、ハーヴは目を丸くした。
だが彼が何か口にするより先に、雫は外庭を見下ろして「あ、あの人」と呟く。
「何? どの人」
「あの人、何か挙動不審ですね」
二人は三階部分の回廊から並んで、雫が指差した男を見やった。魔法着を着た男はしきりに周囲を見回しながら林の中に分け入っていく。
ハーヴはそれが誰であるか分かったらしく「ああ」と相槌を打った。
「ディルギュイだ。宮廷魔法士の一人」
「同僚の方ですか」
「いやー、名目上はそうだけど、俺みたいに研究型の魔法士とはあんまり縁がない。ディルギュイは次期魔法士長を狙ってるって噂だし」
「お城も色々あるんですね」
「色々あるんだよ」
ぼんやりと見つめる視線の先で、魔法士の男は林の中へと見えなくなる。そのままの姿勢で雫は空を見上げた。
「あー、いい天気。暑いですが……」
「暑いかな」
「この国の人たちって暑さに馴れてますよね。エリクも平気みたいだし」
「あいつは何処行っても平気な顔してるよ」
「確かに」
彼は雪山に行っても大して変わらないような気さえする。ほとんど感情を見せることもないが、子供の頃からああだったのだろうか。
エリクの子供時代を想像しようとして失敗した雫は気の抜けた息を吐いた。
「そう言えば、エリクって今城にいないんですか? 王様が言ってましたけど」
「ああ、レウティシア様とカンデラに行ってるよ。あいつ、あの事件に関わってたんだって?」
「ぐげ」
思わず蛙のような声を上げてしまった雫に、ハーヴは目を丸くした。動揺と心配を混ぜ合わせた表情の彼女を見やる。
「ひょっとして、君もいた? 何人か城に乱入して暴れまわった人間がいたらしいけど」
「い、いました。でも別に暴れては……。それで、エリクはお咎め受けてるんですか?」
「いや。単に調査書纏めに行ってるだけだけど。禁呪の構成についてなんて普通の魔法士には取り扱えないし。明日には帰ってくると思う」
この時雫は、「禁呪なんて普通の魔法士には」という彼の言葉に引っかかりを覚えもしたが、それ以上に強烈な記憶を呼び起こされ沈黙した。
カンデラの城において彼女を追ってきた黒い蛇。あれは「異質な棘であるお前は人の望みによって排除される」と言っていたのだ。
そして今、言われた通り雫は「人によって排除されそうに」なっている。これは偶然か、それとも何か繋がりがあることなのだろうか。
口に出さない彼女の疑問に答える者はいない。
温かい空気を運ぶ風が一筋、雫のスカートをはためかせていった。

「丑三つ時」という言葉を知ったのは小学校高学年の時だろうか。
その時の雫はそれを「お化けが出やすい時間」と認識しており、たまに夜中の二時三時に目が覚めてしまうと慌てて布団の中に潜り込んだものだ。
この世界でも時間は、夜中から昼までの十二時間と残りの十二時間に区切られているが、元の世界と比べて一時間が同じ長さなのか、 また十二時が同じ十二時に位置しているのかは分からない。大体元の世界でも国によって日照時間は異なるのだ。雫は二つの世界の時間について、 厳密に照らし合わせようとすることを最初から諦め、郷に入っては郷に従っていた。
そして、まもなく夜中の二時になろうとする時間。既に眠っていた彼女の目を覚まさせたのは、開いたままの窓から入り込む風である。
生温いその風は、丁度眠りの浅かった雫の鼻先をくすぐっていき、ややあって彼女は顔を上げた。
「……なに?」
寝惚けながらも窺うような声を上げてしまったのは、部屋中に生臭い匂いが満ちていたせいである。雫はベッドの上に体を起こした。
本来三人部屋である彼女の部屋は、雫が要注意人物であるせいか今は彼女しか使っていない。
雫は裸足で木の床に下りると、開いた窓から外を覗きこむ。
月明かりの他には何も照らすものがない庭は、黒々と埋没する木々の輪郭だけが見渡せた。
何ら変わったところのない夜の景色。だが吐き気をもよおさせる臭気は外の方が遥かに強い。
血のような肉の腐ったような匂い、いくつもの悪臭が混じった臭気に雫は口と鼻を押さえた。そのまま窓を閉めようとする。
しかし、窓を完全に閉めてしまう前に、彼女は何か光る物が庭を移動していることに気づいた。よくよく目を凝らしてみる。
月光を跳ね返す白銀。ゆっくりと上下に揺れながら動いていく物が何であるか分かった時、雫は思わず絶句する。
木々の中を抜け月の下を行くそれは―――― 白い鎧に剣を佩いて歩いている、一体の骸骨だったのだ。