異質と罪人 075

禁転載

月下を行く一体の骸骨。それを見た雫は恐怖よりも驚きが勝った。目を擦り、食い入るようにして骸骨を確かめた後、嘆息する。
「さ、さすが魔法大国。アンデットが歩いてる」
エリクがその発言を聞いたなら「そんな訳ないだろ……」と言ったに違いないが、彼女はむしろ感動さえ覚えて骸骨を目で追った。
遠目ではあるが、鎧から言っておそらく男の骸骨だろう。骨だけでよく重そうな鎧を動かせているものだが、魔法の力を使っているのかもしれない。
雫は現実味のないその姿をのん気に眺めていたが、庭に月光とは別の明かりが現れたことに気づいて視線を動かした。
赤い松明の光。それを片手に持った兵士は誰何の声を上げながら骸骨に近寄っていく。
まだ眠気が残っていた彼女はその光景を不思議に思った。
今まで骸骨が歩いていたとしても、ファルサスの人間が見張りか何かとして動かしているのだろうと雫は思い込んでいたのだ。
でなければそれは、あまりにもおかしな存在だろう。ある意味雫以上に違和感がある。
―――― だが、実際それは「おかしな存在」でよかったのだ。
本当なら、もっと早くに気づくべきだった。部屋にまで入り込んだ臭気が既におかしいのだということに。
しかし雫がはっきりと異常を認識したのは、松明を持った兵士が骸骨の剣によって切り伏せられた、ようやくその時のことだったのである。

「……え、ちょ、ちょっと! 何!」
地面に落ちた松明の明かりが小さくなる。思わず叫び声を上げた雫に、部屋の隅で眠っていた小鳥が目を開けた。
魔族である彼女は主人よりも早く状況を認識したのか、雫の肩に飛び移って高い声を上げる。
「メア! 骸骨が! 人が!」
自分でもよく分からない言葉だったが、雫はそれで冷静になった。素早く靴を履き、上着を羽織ると部屋を飛び出す。
何人がこの異変に気づいているのかは分からないが、まだ知らない人間がいるとしたら大変だ。斬られた兵士も息があるかもしれない。
雫は燭台が照らす暗い廊下を駆けていく。そして、その後をまるで追うように、腐った血の匂いは城内に広がっていったのだった。

城内に異変が起きている、という知らせは王の寝室にもまもなく届けられた。
ラルスは簡単に武装を整えながら、側近の報告を耳に入れる。
「それが、死体が庭を歩き回っているようなのです。それも生きた人間を標的にしているようで……」
「眠いな」
「…………」
「レティは戻っていないのか?」
いまいち緊迫感のない王に、武官の男は不安を覚えながらも「今夜はカンデラに泊まられております」と付け足した。ラルスは軽く頷く。
「一応連絡……しとくか? やめとくか? 起こしたら可哀想だしいいか」
「そ、それは」
連絡して欲しい、と男は思ったものの王がそう決定したのでは主君の意に反して連絡することは出来ない。彼は黙って頭を下げた。
二人が廊下に出てすぐ、別の武官が駆けてくる。
「へ、陛下!」
「どうした。死体が生き返りでもしたか」
「いえ、その、攻撃をしていいものかどうか伺いたく……」
「聞くまでもなかろう。何を聞きにきているんだ。時間を無駄にするな」
「それが、その、相手は、先代王ではないのかと、そう言う者が……」
しどろもどろの説明にラルスと側近は顔を見合わせる。王は臣下の顔に自分と同じ飲み込めなさを見出すと、ようやく
「びっくり事件か?」
と感想を洩らしたのだった。

雫は庭に駆け出る前に見張りをしていた兵士に事情を説明したのだが、男は臭気に訝しげな顔をしながらも「夢でも見たのだろう」と取り合ってくれなかった。
夢で済ませられるならそうしてしまいたいのは彼女も同感なのだが、被害者が出ている以上確かめないわけにはいかない。
前進しない押し問答を打ち切って外へと飛び出した雫は、暗闇の中、月光だけを頼りに先程の場所へと向った。
本当ならばあるのであろう血の匂いも強烈な臭気にかき消されてちっとも感じ取れない。
吸い込んだ空気が体内から徐々に精神を侵していくような気がして彼女は息を止めた。
雫は半ば林の中に分け入り、庭木をかきわけていく。生温い風が辺りにそよいだが、空気は少しもよくならなかった。
月の光は艶やかな草の表面を銀に彩る。細かい照り返しの数々を頼りに、彼女はついに草の上、倒れたままの兵士を見つけた。
駆け寄り脈を取ると、微弱ではあるがまだ鼓動が感じられる。
「よ、よかった。メア運べる?」
「引き摺ってもよいのなら」
少女の姿に戻ったメアが背後から答えるが、それには肯定を返せない。大体うつ伏せになっているだけでどんな怪我をしているのかも分からないのだ。
雫は悩んだ結果、使い魔に頼んで誰か人を呼んできてもらうことにした。
幸い城の建物もすぐ近くにある。先程の兵士も怪我人がいると言えば来てくれるだろう。
メアが主人の命を受けて林の中に消えると、雫は倒れた兵士を苦心して仰向けに引っくり返した。男は気を失ってはいたが小さく呻き声を上げる。
暗がりでは傷の深さはよく分からない。彼女は自分の上着を脱いで傷口にそっと押し当てた。
「ちょっと待っててくださいね……。すぐ魔法士の人が来ると思いますから」
銀光が翳ったのはその時である。
頭上にさしかかる長い人の影に雫は顔を上げた。影の主を目で追うと、林から抜け出た草の上、白いドレスを着た一人の女が立っている。
女は長い黒髪を垂らしてじっと雫を見つめていた。何処か幼さを感じさせる美しい貌は誰かに似ている気もする。
だが、この時の雫はそんなことに構ってはいられなかった。傷を抑えたまま助けを請う。
「あの! 魔法士の方なら傷を治して欲しいんです! この人怪我をしてて……」
女は雫が言い終わる前に動き出した。ゆっくりと一歩一歩近づいてくる。
まるで雲の上を歩むような足取りで、彼女はついに雫の前に立った。白い両手を伸ばしてくる。
手袋を嵌めた形のよい手。静謐を感じさせるその手に、雫は一瞬見惚れた。だが次の瞬間彼女は目を丸くする。
「―――― え?」
雫は女の手に触れた。
女は青い瞳で雫を見下ろしている。
手袋に覆われた両手、その細い十の指は―――― 何故か躊躇いもなく雫の首へとかかると、ぎりぎりと彼女の喉を絞め上げ始めたのだった。

首を絞められることは初めてではない。だが、だからと言って苦しさが変わるわけでは少しもなかった。
雫は喉に食い込む指を引き剥がそうと掻き毟る。しかしその力は女性のものとは思えない程強く、ますます気管を圧して雫から息を奪っていった。
助けを呼ぼうとしても声を出すことができない。
「…………っ!!」
目の前が白くなっていく。真っ暗な中なのに不思議だと、彼女は頭の隅で思った。
―――― このままでは死んでしまう。
雫は判断と同時に両手を地面についた。
首を絞める手を引き剥がすことをやめ、短距離走のスタートのように思い切り草を蹴る。そのまま女に激しく体当たりをした。
計算ではない生きる為の動き。それは、彼女にとって少しだけプラスに働いた。二人の女はもつれあって地面に転がる。
呼吸を阻害していた手が外れ、雫は喉を押さえて激しく咳き込んだ。生理的な涙が滲んで視界をぼやけさせる。
しかし、危険はそれだけでは終わらなかった。
まるで表情を変えない女はゆっくりと起き上がると、拾った石を手に持ち、倒れたままの雫に向って振り被ったのだ。
それに気づいた雫は咄嗟に頭を両腕で庇う。石は真っ直ぐ彼女の顔目掛けて打ち下ろされた。気が遠くなるような痛みが腕に走る。
けれど殴られた雫はそのままではいなかった。女がもう一度石を振り被った時を狙って、彼女はその手目掛けて飛びつく。
「痛いってば! 暴力反対!」
雫は殴られないよう手首をきつく握って女を押し倒した。
そのまま馬乗りになろうとした時、だが女は彼女の腹をしたたかに蹴り上げる。雫は衝撃によろめいて尻餅をついた。
何故、意味も分からぬままこんな目に合っているのか。
逆流してくる胃液を飲み込みながらも雫は立ち上がろうとする。だが足首を何処かで捻ってしまったのだろう、彼女は短い叫びを上げて蹲った。
月光に照らされた庭。静寂と臭気が不気味な彩りを成す世界に、女の影がゆらりと差す。
陶器人形のように表情がない女の貌は、乱れていてもやはり美しかった。
立ち上がった女は雫に向って石を振り上げる。雫は攻撃を覚悟して頭を庇った。目をきつく閉じる。
痛いのは嫌だ。殺されるのはもっと。
本当は逃げたくて仕方ないのだ。でも、今まで何とか耐えてきた。
だから、こんなところでは負けない。雫は歯を食いしばる。
けれど……覚悟していた石はいつまで経っても雫を打ち据えることはなかった。代わりに面倒そうな男の声が響く。
「母上、お気持ちは分かるが、この娘を殺すのは俺の仕事だ」
予想だにしていなかった人物の登場に雫は顔を上げた。驚いて周囲を見回す。
そこにはいつの間に到着したのか、王と彼に仕える人間たちが数人、それぞれの武装した姿で立ち並んでいたのだ。

「お、お母さん?」
「俺の母親だ」
雫の襟首を掴んで手元に引き寄せたラルスは、白いドレスの女を見やって平然と首肯した。その言葉に雫はもう一度女の顔をよく見る。
―――― 誰かに似ていると思ったのも当然だ。彼女は、レウティシアに似ているのだ。
だが年齢はせいぜい娘と同じくらいにしか見えない。まだ襟首を掴まれたままの雫は王を見上げた。
「若いお母さんですね……」
「二十四歳の時に死んでいるからな。死人が年を取ったら更にびっくりだ」
「そりゃ吃驚ですね。って、何それ!」
「つまり、あれは単なる死体だ」
ラルスは雫の体を軽々と背後に投げ捨てる。もう一度転ぶ羽目になった彼女のもとに、魔法士が一人駆け寄ってきた。よく見ると男はハーヴである。
彼は「大丈夫?」と言いながら治癒をかけてくれた。倒れたままの兵士の傍にも二人の魔法士が添っている。
「ハーヴさん、死体って……そう言えばさっき骸骨が……」
「今、城のあちこちを死体が歩き回っている。どうやら王家の霊廟がいくつか破られたらしい」
「うわっ。何ですかそれ」
すっとんきょうな声を上げる彼女を無視して、他の人間たちはかつての王妃をゆっくりと包囲していく。
その最たる人間であるラルスは、月光にアカーシアの刃を煌かせながら母親に向って距離を詰めた。冷ややかな声が夜風に乗る。
「さて、少々胸も痛むが、人を殺して回られても困る。大人しく棺に戻られるとよい」
女は緩慢な動作で周囲を見回した。その上で、逃げられないと分かったのかラルスに向き直る。
王の背中越しに見える女の目は、少なくとも子供を見るそれではなかった。
あまりにも空虚。その「何もなさ」に雫は我知らず唇を噛む。
幽霊などない。人の死後、魂は残らない。ならば今の彼女は、ラルスが言うように単なる死体でしかないのだろう。
だがその体だけが動いて人を殺すという姿は、やり切れない痛ましさを雫に覚えさせた。彼女は女を見やって小さくかぶりを振る。
この夜は、きっと悪夢の一部だ。雫はラルスの持つ剣が、夜気の温度をひどく下げている気がして身震いした。
そして彼女は、王が剣を振るい母親の遺骸を貫くまで、目を逸らさぬままじっとその光景を見つめていたのである。